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太陽王と終焉の月  作者: 帰り花
第三章 月の檻
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壊れた太陽

 2人が逃げたとき、ソルの胸の奥で、何かが鳴った。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

(やはり)

(やはり、お前は)

(俺のものじゃなかった)

 その結論は痛い。

 だが痛い結論ほど、行動を正当化する。

 正当化されれば、王は躊躇しない。

 躊躇しなければ、負けない。


 ソルは笑った。

 声は出さない。

 口角だけが少し上がる。

 誰も見ていない。

 だから笑える。

 昼の王は笑わない。

 笑うのは弱さだから。

 だが今の笑みは弱さではない。

 決定だ。


 背後の護衛に命じる。

「追うな」

 護衛が息を呑む。

「陛下?」

 ソルは振り向かない。

「追うな。逃がせ」

 逃がせ。

 それは慈悲ではない。

 罠だ。


 ソルは知っている。

 逃げた先で、ルナは“幸福”を感じる。

 あの男の腕の中で、安心する。

 痛みのない夜を過ごす。

 笑う。

 泣く。

 誓う。

 ――生きる。

 ソルはそれを許した。

 なぜなら、その幸福は、あとで奪うほど甘いからだ。

 幸福は、奪われた瞬間に絶望へ変わる。

 絶望は、魂の形を変える。

 魂の形を変えた者は、もう同じ場所へ戻れない。

 戻れないなら、二度と離れない。


 王は、地下へ降りた。

 禁忌の階段。

 湿った石。

 古い血の匂い。

 そして、羊皮紙の匂い。

 儀式室の中心に、円が刻まれている。

 古い魔術陣。

 王家が封じてきたもの。

 魂の固定。

 “縁”を縫い付ける術。

 身体の鎖ではない。

 名でも地位でもない。

 魂の“帰る場所”そのものを固定する。


 ソルは指先で陣の溝をなぞった。

 冷たい。

 だが、胸の奥は熱い。

 熱は怒りではない。

 飢えだ。

 欠落の飢え。

 拾われない飢え。

 呼ばれない飢え。

 それが、今、満ちようとしている。

(もうすぐ)

(もうすぐ、お前は戻る)

(戻るだけじゃない)

(二度と離れない――離れられない)


 将軍が囁くように言った。

「陛下……妃殿下を、傷つけるおつもりですか」

 その言葉に、ソルは首を傾けた。

 傷つける?

 何を言っている。

 傷つけるのは、奪う側ではない。

 奪われる側だ。

 傷つけたのは――ルナだ。

 自分を置いて行った。

 自分の世界を捨てた。

 自分以外を選んだ。

 だがこれは、罰ではない。

 矯正だ。

 “正しい形”へ戻す。

 月は空にあるべきだ。

 太陽の隣にあるべきだ。


 ソルは言った。

「傷つけない」

 静かな声。

 本気の声。

「壊さない。奪うだけだ」

 将軍は言葉を失う。

 壊さないまま奪う。

 それが最も恐ろしいと、理解したからだ。


 そして、王は上階へ戻る。

 自室。

 灯は一本。

 窓から月が見える。

 白い月。

 だが今夜、月はどこか薄い。

 ソルは椅子に座り、ただ待った。

 待つ。

 ソルが最も嫌いな行為。

 だが今夜だけは、待てる。

 待つのは、弱さではない。

 仕込みの一部だから。


 時間が流れる。

 深夜。

 森で、二人が何をしているか――ソルは想像した。

 赤い瞳が、少しだけ細くなる。

(幸福そうか)

(俺のものを)

(俺の知らない顔で)

(俺の知らない温度で)

 胸の奥で火が鳴る。

 だが、火は暴れない。

 暴れさせない。

 暴れる火は、燃え尽きる。

 燃え尽きれば、残るのは灰だ。

 灰では縛れない。

 縛るには、火が必要だ。

 消えない火が。


 そして夜明け前。

 世界が、ほんの一瞬だけ歪んだ。

 風が止まる。

 音が消える。

 鳥が黙る。

 王城の石壁が、微かに震える。

 ――来た。

 ソルは立ち上がる。

 その瞬間、赤い瞳が深く燃えた。

 快楽ではない。

 安堵でもない。

 ただ、確信していた。

 月が沈むことを。

「始めよ」


 地下の魔術陣が呼応する。

 王家の血が、陣に落とされる。

 光が生まれる。

 白ではない。

 金でもない。

 闇の中でだけ見える光。

 それは、祈りの光ではない。


 ソルは目を閉じ、囁いた。

「帰れ」

 たった一言。

 だがその言葉は、距離を超える。

 城壁を超える。

 森を超える。

 皮膚を超える。

 骨を超える。

 呼吸を超える。

 そして――

 魂へ届く。


(来い)

(戻れ)

(俺の隣へ)

(俺の世界へ)

(俺の夜へ)


 世界のどこかで、光が弾けた気配がした。

 引き裂かれる音がした。

 幸福が。

 誓いが。

 未来が。

 一夜分の温度が。

 すべて。


 ソルは、笑った。

 今度は声が出た。

 小さく。

 低く。

 誰にも聞こえない程度に。

 だが確かに。

「……そうだ」

 囁く。

「それでいい」


 扉が開く。

 風が吹き込む。

 そして――

 ルナが戻ってくる。

 光の名残を纏ったまま。

 息を乱し、目を見開き、絶望の色を宿したまま。

 その姿を見た瞬間、ソルの胸の奥の欠落が、一度だけ満ちた。

 満ちてしまった。

 だから次に来るのは、さらに深い飢えだ。

 満ちたことを、二度と失いたくない飢え。


 ソルはゆっくり近づく。

 抱きしめる。

 逃げられないように。

 そして耳元で囁いた。

「おかえり」

 優しい声で。

 まるで恋人の声で。

 だがそれは、恋人の言葉ではない。

 檻の言葉だ。


 ルナは震えた。

 幸福の後に来る絶望は、世界の色を変える。

 アルベルトの温度が、まだ身体に残っている。

 だからこそ、今の抱擁が冷たい。

 冷たいのに、逃げられない。

 逃げた先で、魂が引き戻されると知ってしまったから。


 ソルは、ルナの顎を持ち上げる。

 赤い瞳が、水色の瞳を覗き込む。

 そして、静かに言った。

「これでお前は」

 一拍。

「俺のものだ」


 その宣告は、優しい声で言われたからこそ、最も残酷だった。

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