誓い
城門を越えた瞬間、空気が変わった。
石の匂いが消え、土の匂いが戻る。
鉄の味が消え、夜露の味が戻る。
ルナはそれを、肺いっぱいに吸い込んだ。
自由の匂いだった。
だが同時に――
胸の奥に、針のような痛みが残る。
(置いてきた)
何を?
分かっている。
孤独な王を。
アルベルトは、振り返らない。
振り返れば、止まるからだ。
止まれば、終わるからだ。
彼はただ、手を引く。
強く。
だが、決して痛くしない強さで。
それが、彼の強さだ。
守るための力。
壊さないための力。
森に入る。
木々が影を作る。
月が枝に裂かれる。
風が草を揺らす。
追手の気配は、まだない。
だが、時間の問題だ。
「……ここまで来れば」
アルベルトが言いかけた時、ルナの足が止まった。
引かれた手が止まる。
振り向く。
水色の瞳が揺れている。
恐怖ではない。
涙でもない。
もっと深いもの。
「……ルナ?」
アルベルトが呼ぶ。
ルナは答えない。
ただ見つめる。
緑の瞳を。
長く。
深く。
まるで何かを刻み込むみたいに。
「どうした」
ルナはようやく口を開く。
声が震えている。
「……本当に」
息を吸う。
「……あなたですか」
アルベルトの眉が僅かに寄る。
「何を言ってる」
ルナは首を振る。
「違うんです」
涙が一滴、落ちる。
「怖いんです」
胸を押さえる。
「幸せで」
アルベルトの息が止まる。
ルナは言葉を続ける。
「ずっと思っていました」
「私は見送る側だと」
「愛しても、残される側だと」
「だから……」
声が小さくなる。
「望まないようにしていた」
沈黙。
森の音だけが、揺れる。
アルベルトが、一歩近づく。
手を伸ばす。
頬に触れる。
温度が伝わる。
「ルナ」
その呼び方。
その声。
その優しさ。
ルナの胸の奥がほどける。
「今は」
アルベルトが言う。
「望め」
短い言葉。
命令ではない。
許しだ。
ルナの瞳が震える。
そして――
彼の胸に、額を押しつけた。
逃げるみたいに。
縋るみたいに。
「……いいんですか」
「いい」
迷いはなかった。
「俺は、最初からそのために来た」
ルナの指が、アルベルトの衣を掴む。
離れないように。
消えないように。
「……離れたくない」
その言葉は、告白だった。
「離さない」
その言葉を証明するように、アルベルトはルナを抱きしめた。
強く。
だが痛くない力で。
ルナの身体が震える。
怖いのではない。
安心している震えだ。
唇が触れる。
最初は、確かめるように。
ゆっくり。
息を合わせるみたいに。
ルナの肩の力が抜ける。
呼吸が重なる。
温度が混ざる。
夜の空気が静まる。
そのまま、二人は草の上に座る。
背中に木の幹。
頭上に月。
世界は広いのに、今は二人だけだ。
アルベルトの指がルナの髪を撫でる。
銀の糸が指に絡む。
触れ方は変わらない。
あの雨の夜と同じだ。
壊さないように触れる。
大切なものに触れる。
ルナは目を閉じる。
胸の奥で、静かに思う。
(違う)
(これは違う)
ソルに触れられた夜は、壊れないように耐える夜だった。
だが今は違う。
触れられるたびに、胸の奥が温かくなる。
触れ返したくなる。
近づきたくなる。
もっと確かめたくなる。
アルベルトが囁く。
「寒くないか」
ルナは首を振る。
「……温かいです」
アルベルトは何も言わず、額を重ねた。
距離が消え、呼吸が混ざる。
ルナは思う。
(これが)
(愛だ)
痛くない。
苦しくない。
怖くない。
ただ、満ちる。
空白だった胸の奥が、静かに満ちていく。
二百年分の孤独が、溶けていく。
その夜。
二人は互いを確かめ合った。
言葉ではなく。
温度で。
鼓動で。
呼吸で。
触れ合うたび、ルナは理解していく。
――ああ、私はこの人を愛していた。
――ずっと。
――忘れても。
――消されても。
魂は覚えていたのだと。
夜明け前。
ルナはアルベルトの腕の中で囁く。
「……約束してください」
「何を」
「あなたが死ぬまで」
息を吸う。
「一緒にいると」
アルベルトは小さく笑った。
「とっくに誓ってる」
迷いなく。
疑いなく。
「お前が終わる時まで」
ルナは微笑む。
安心したみたいに。
子供みたいに。
その瞬間だった。
胸の奥に――
焼けるように熱い印が浮かんだ。
ルナの身体が強張る。
呼吸が止まる。
アルベルトが気づく。
「……ルナ?」
ルナの瞳が、見開かれる。
「……始まった」
声が震える。
アルベルトが問う。
「何が」
ルナは答える。
絶望の名前を。
「魂の固定が」
地面が震える。
風が止まる。
月が歪む。
世界の理が軋む音がする。
遠く。
王城の方向から。
ソルは発動させたのだ。
逃げることすら、織り込み済みで。
一夜の幸福すら、許した上で。
そのすべてを奪うために。
ルナの身体が、光に包まれる。
逃げ場がない。
どんなに離れても、逃れられない。
これは、魂に刻まれた命令だ。
アルベルトが叫ぶ。
「離れるな!」
手を掴む。
強く。
だが。
指がすり抜ける。
身体が、光に溶けていく。
ルナは微笑んだ。
その頬を、涙が伝う。
「……愛しています」
次の瞬間。
光が弾けた。
ルナの姿が消える。
残ったのは、ぬくもりだけ。
腕の中の。
そして。
胸の中の。
森は静かだった。
何も起きなかったみたいに。
だが世界は、確実に壊れていた。
アルベルトの中で。
そして――
世界そのものも。




