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太陽王と終焉の月  作者: 帰り花
第三章 月の檻
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記憶

 風は、戻ってくる。

 扉を叩かず、許可も取らず、ただ忍び込む。

 王城の庭の樹々がざわめいた夜、ルナは胸の奥の痛みで目を覚ました。

 理由は分からない。

 だが“何かが近い”と身体が知っている。

 眠りの中で、誰かに名を呼ばれた気がした。

 ――ルナ。

 その呼び方は、ソルのものではない。

 ソルが呼ぶ「ルナ」には、所有の圧が混じる。

 逃げ道を塞ぐ熱が混じる。

 だが、今夜は違った。

 柔らかい。

 風のように。

 触れたら消えそうなほどに。


 灯を消した部屋は暗い。

 窓の外、月が格子の影を床に落としている。

 その影の縁が、わずかに揺れた。

 次の瞬間、影そのものが裂けるように現れた。

 男がいた。

 黒い外套。

 泥の匂い。

 そして――緑の瞳。

 その瞳を見た瞬間、ルナの胸が激しく鳴った。

(……知っている)

 思考より先に、魂が反応する。

 息が詰まる。

 言葉が出ない。

 ただ、視線だけが吸い寄せられる。


 男は声を落とした。

「……ルナ」

 その名の響きが、胸の奥で何かを叩く。

 石を叩く音ではない。

 閉ざされた扉を叩く音だ。

 ルナは、震える息で問う。

「……あなたは」

 名前が出ない。

 だが、心の奥ではすでに知っている。

 知っているのに、口が追いつかない。


 男は一歩近づき、膝をついた。

 祈るように、ではない。

 謝るように、でもない。

 ただ、距離を縮めるために。

「俺だ」

 短い言葉。

「アルベルトだ」

 その名が落ちた瞬間、世界が一瞬だけ白く飛んだ。

 アルベルト。

 緑。

 風。

 雨。

 血。

 ――十三の夜。

 断片が雪崩のように押し寄せる。

 だが、まだ繋がらない。

 映像はあるのに、意味がない。

 触れられない。

 霧の向こう。


 ルナの喉が震える。

「……アル、ベルト」

 名前を呼んだだけなのに、涙が浮かぶ。

 なぜ泣くのか、分からない。

 分からないのに、泣ける。

 それが、恐ろしい。

 “知らないはずなのに、知っている”という矛盾が、胸を裂く。


 アルベルトの緑の瞳が、優しく細くなる。

「迎えに来た」

 その言葉が、ルナの胸の奥の痛みを“形”にした。

 迎えに来た。

 待っていた。

 会いたかった。

 ――そうだ。

 これだ。

 これが欠けていた。

 欠けていたから、痛かった。


 ルナは一歩下がる。

 無意識に。

 逃げたいのではない。

 怖いのだ。

 戻ってしまうのが。

 思い出してしまうのが。

 思い出した瞬間、今いる場所が崩れるのが分かるから。

 ソルが壊れる。

 世界が壊れる。

 それを、二百年の経験が知っている。

 記憶を失っても、本能が覚えている。

 だが――

 アルベルトは止まらない。

 止まれない。

「ルナ」

 もう一度、名を呼ぶ。

「思い出せ。お前は、ここにいるべきじゃない」

 ルナの胸が痛む。

(ここにいるべきじゃない)

 その正しさが、刃のように刺さる。


 その時、廊下の奥で音がした。

 足音。

 巡回兵ではない。

 ソルだ。

 気づかないはずがない。

 王は、自分の“世界”の揺らぎに異常なほど敏感だ。


 アルベルトは手を伸ばす。

「来い」

 ルナは動けない。

 身体が凍る。

 ソルへの恐怖ではない。

 “決断”への恐怖だ。

 どちらを選べば、誰が壊れるか。

 分かっているのに、選べない。


 扉が開く。

 鍵の音はしない。

 王だからだ。

 影が落ちる。

 赤い瞳が現れる。

 ソルが立っていた。

 その顔に怒りはない。

 怒りはもう、古い感情だ。

 今ここにあるのは――確信。

「……やはり」

 静かな声。

 炎色の瞳がアルベルトを捉え、次にルナを捉える。

 そして最後に、二人の距離を測る。

 測り終えた瞬間、空気が凍る。


「離れろ」

 ソルの声は低い。

 命令だ。

 だが、アルベルトは動かない。

「離れるのはお前だ」

 ソルが笑った。

「お前は死にに来たのか。あの日、殺さずにおいてやったのに」

 アルベルトは、静かに答える。

「死んでもいい」

 その言葉は強い。

 愛されて育った者の強さだ。

 だが、失うことを知らない者の強さではない。

 失ってなお、立つことを選べる強さだ。


 ソルの瞳が細くなる。

「なら」

 一歩。

 距離が消える。

 ソルの手が上がる。

 魔術の火が生まれかける。

 アルベルトが身構える。

 次の瞬間。

 ルナの身体が勝手に前に出た。

 理由は分からない。

 だが、身体が知っている。

 ――守らなきゃ、と。


 ルナは、アルベルトの腕を掴んだ。

 触れた瞬間、また断片が走る。

 雨の夜。

 血の匂い。

 倒れている緑の瞳。

 自分の手。

 光。

「生きていてよかった」

 その声。

 その温度。

 断片が繋がりそうで、繋がらない。

 ルナは震える。

 そして気づく。

 この“繋がらない”を、繋げるものが一つだけある。

 触れ方。

 温度。

 呼吸。

 ――唇。


 ソルが言う。

「ルナ」

 その呼び方は鎖だ。

 今すぐ引き戻す鎖。

 だがルナの中で、別の声が膨らむ。

(思い出して)

(あなたは、私を呼んでいた)

 誰が?

 答えは分かる。

 目の前の緑の瞳だ。


 アルベルトが囁く。

「……ルナ」

 その名の呼び方だけで、胸がほどける。

 ルナは――自分でも驚くほど静かに、顔を上げた。

 そして、唇を重ねた。


 一瞬だった。

 深くはない。

 だが、決定的だった。

 触れた瞬間、世界が反転する。

 霧が晴れる。

 音が戻る。

 匂いが戻る。

 時間が戻る。

 二百年分の孤独が、雨のように降り、痛みのように染みる。

 そして最後に、たった一つの真実が、胸の中心に落ちる。

 ――愛している。

 アルベルトを。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。


 ルナは、目を開ける。

 水色の瞳が、今度は確かに“彼”を映している。

 アルベルトが微笑んだ。

 涙が滲んでいる。

「……戻ったな」

 ルナは小さく頷く。

「……ごめんなさい」

 そして、囁く。

「会いたかった」

 その一言が、ソルの世界を殺した。


 ソルの赤い瞳が、一度だけ大きく揺れる。

 炎が揺れる。

 崩れる。

 だが次の瞬間、揺れは消える。

 揺れが消えるのは、落ちた証だ。

 闇へ。

 底へ。

 戻れない場所へ。

 ソルは笑った。

 柔らかく。

 優しくすら見える笑みで。

「そうか」

 声が、驚くほど穏やかだ。

 穏やかすぎて、怖い。

「……思い出したか」

 ルナは息を呑む。

 ソルは一歩近づく。

 そして、囁く。

「なら、もう一度消せばいいだけだ」

 その言葉で、アルベルトの背筋が凍る。

 ルナの胸が冷える。

 魂の固定。

 地下の禁忌。

 ――最悪の未来が、形を持つ。


 アルベルトが言う。

「逃げるぞ」

 ルナは頷く。

 今度は迷わない。

 迷う時間は、終わった。


 ソルは止めない。

 止めないまま、笑っている。

 逃げられないと知っているからだ。

 逃げた方が、より美しく壊せると知っているからだ。

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