選ばれない王子
ソルが最初に覚えたのは、名ではない。
沈黙だった。
ヴァルディア帝国の王城は、音が死んでいる。
笑い声は響かず、祝福は交わされず、廊下に落ちるのは靴音と鎧の擦れる音だけ。石造りの回廊は昼でも暗く、燭台の火はいつも弱く揺れている。まるで城そのものが息を潜め、何かを待っているかのようだった。
この城では、生まれた順番がすべてだった。
第一王子は王の影。
第二王子は王の剣。
第三王子は王の舌。
では、それより下は?
――数だ。
役割ではなく、数。
七番目の王子であるソルは、役目を与えられる前から数に分類されていた。
幼い頃、庭園で一人座っていたときのことを覚えている。
兄たちが通り過ぎた。
足元の花びらを踏みながら。
誰もこちらを見なかった。
ただ一人が言った。
「誰だ、あれ」
別の声が答えた。
「第七だ」
沈黙。
そして。
「まだいたのか」
それだけだった。
そのとき、ソルは初めて理解した。
自分は存在していないのだと。
目に映っていても、認識されていない。声が届いていても、意味を持たない。そこにいるのに、数えられていない。
――余りもの。
その言葉を知るより先に、その意味だけを理解した。
母だけが、彼を名で呼んだ。
「ソル」
その声には温度があった。
王城に似つかわしくない、柔らかな温度。
母の部屋はいつも薄暗く、香草の匂いがしていた。窓は閉じられ、外気は入らない。咳の音が絶えず、侍女たちは静かに歩く。
母は弱っていた。
だが、その手だけは温かかった。
「母上」
ソルはある日、問いかけた。
「ぼくは王子?」
母は微笑んだ。
「ええ。太陽の子よ」
「太陽って、強い?」
母は答えた。
少しだけ間を置いて。
「……強いわ」
その沈黙の長さを、ソルは覚えている。
魔力が目覚めたのは、五歳の冬だった。
母の咳が止まらない夜だった。
雪が降り、部屋は冷え、侍女たちが慌ただしく走り回る。ソルは何もできず、布団の隅で拳を握っていた。
(苦しそうだ)
助けたい。
ぼくが、温めたい。
そう思った瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
指先が赤く光る。
炎が灯る。
掌から。
生まれた。
侍女が悲鳴を上げた。
だが母は笑った。
「ソル……太陽ね」
その言葉は祝福だった。
初めて、価値を与えられた瞬間だった。
だが翌日、兄たちは違う顔をした。
「炎だと?」
「使えるな」
「戦で役に立つ」
誉め言葉ではなかった。
評価だった。
六歳になると教育が始まった。
剣術、戦術、礼法、統治学。
そして――
恐れ方。
ヴァルディアの王子は、恐れないために恐れを学ぶ。
倒れれば殴られる。泣けば殴られる。声を上げればさらに殴られる。泣くことは弱さであり、弱さは罪だった。
ある日、訓練で転び、膝を擦りむいた。
痛みで涙が滲む。
教育係が言った。
「泣くな、第七」
冷たい声だった。
「お前の涙は誰も拾わん」
その言葉は刃より深く刺さった。
拾われない涙なら、流す意味がない。
ソルは笑った。
血の味が口に広がっても、笑った。
それを見て教育係は頷いた。
「そうだ。笑え。笑えば弱さは見えない」
その日、ソルは覚えた。
弱さは隠すものだ。
望みは隠すものだ。
愛は――
持ってはいけないものだ。
七歳の春。
柱の影で、兄たちの会話を聞いた。
「和平条件に人質が必要らしい」
「誰を出す?」
「第七でいいだろう」
「余ってるしな」
その瞬間、胸が静かに裂けた。
声は出なかった。
泣かなかった。
動かなかった。
ただ理解した。
ああ、自分は――
差し出しても惜しくないものなのだ。
その夜、母に聞いた。
「ぼく、いらないの?」
母は目を開いた。
涙が浮かんだ。
「……違う」
否定はした。
だが。
「必要よ」とは言えなかった。
その言葉を。
言えなかった。
それが答えだった。
ソルは微笑んだ。
「大丈夫」
嘘だった。
だが、嘘でなければ生きられなかった。
十歳の冬。
母は死んだ。
葬儀は静かだった。
王城は忙しい。死は日常だ。側室の死など、戦報の合間に処理される。
棺が運ばれる。
ソルは泣かなかった。
泣けば弱い。
弱ければ捨てられる。
ただ木目を見ていた。
瞬きもせず。
その時、兄たちの声が背後で響いた。
「これで決まりだな」
「人質は第七だ」
「母もいない」
胸の奥が空洞になる。
怒りではない。
悲しみでもない。
空洞。
それが彼の核になった。
出立の日。
誰も見送りに来なかった。
門が開く。
馬車が待っている。
御者が言う。
「乗れ」
ソルは振り返らなかった。
振り返っても、誰もいないからだ。
拳を握る。
心の中で呟く。
(戻る)
(必ず)
(王として)
それは復讐ではない。
証明だ。
――自分は余りものではない、と。




