選択
その夜、風が城壁を撫でた。
ヴァルディアの風は冷たい。
だがその冷たさの中に、異物の匂いが混じっていた。
――草と土と、水。
エルセリアの匂い。
王城の影は深い。影が深いほど、潜る者には優しい。
潜る者は影に溶け、影の一部になる。
アルベルトは影になっていた。
王子の衣ではない。外套は黒。足音を殺す靴。刃は短く、必要最低限。
彼は剣で、勝つために来たのではない。
取り戻すために来た。
城内の地図は頭に入っている。逃げ道も、衛兵の交代する時刻も、回廊の死角も。
そして何より――ルナが閉じ込められている場所も。
妃の居室へ辿り着いた時、窓の格子越しに月が見えた。
白い光が床に落ち、格子の影が牢の模様を作っている。
その中にルナが立っていた。静かに、息を殺して。
「……ルナ」
名を呼ぶ。
振り向いた顔は、穏やかなままだった。
だが、穏やかさが“薄い”。
耐えて削れた穏やかさだ。
「来ないで、と言いました」
「言われても来る」
同じやり取り。
だが今夜は、言葉が重い。
アルベルトは低く言う。
「逃げよう」
ルナは一瞬だけ、目を伏せる。
その仕草は、祈りに似ていた。
「……ソルが壊れます」
「壊れる前に、止める」
アルベルトの声には迷いがない。迷いがないから危うい。
だが彼は、迷えない。
「今夜しかない。もう“次”はない」
ルナの瞳が揺れる。
水色の奥で、何かが折れそうになる。
(この光を失いたくない)
(この光を、消したくない)
その欲が胸に疼く。
だが同時に、別の痛みが胸を刺す。
(ソルを見捨てられない)
(怪物にしたくない)
二つの願いは両立しない。
だからこそ――行動が必要だった。
ルナは小さく頷いた。
「……分かりました」
その瞬間、緑の瞳がほどけた。
アルベルトが手を伸ばす。
ルナはその手を取った。
指先が触れた瞬間、二百年の孤独が微かに震えた。
“見送り”を前提に生きてきた男が、“並ぶ”という未来を一瞬だけ見てしまう。
だが。
廊下の奥で、足音が止まった。
それは巡回兵の足音ではない。
規則的でもない。
迷いもない。
獣が獲物を追う足音。
アルベルトが息を止める。
ルナの背筋が冷える。
そして確信する。
――来た。
影が落ちる。
ヴァルディアの王が立っていた。
赤い炎色の瞳が、激しく燃えている。
「……やはり」
静かな声。
静かすぎて、恐ろしい声。
ソルは二人を見る。
手を取った形。
逃げる形。
“他”が現れた形。
その瞬間、王の世界から色が消えた。
残るのは炎だけだ。
「返せ」
ソルが言う。
アルベルトは前へ出た。
ルナを背に隠すように。
「返すのはお前だ」
短い言葉。
光の王子は、光のまま怒る。
ソルは笑った。
「おれのものだ」
そして次の瞬間、距離が消えた。
刃が交わる。
金属音が、静寂を裂く。
アルベルトは強い。
“守るため”の強さだ。
だが、ソルは違う。
彼の強さは、“奪うため”のものだ。
奪うための刃は、迷いがない。
アルベルトは一度、踏みとどまる。
二度、受け流す。
三度、腕が痺れる。
ソルの炎が、刃の間から漏れる。
熱が、皮膚を舐る。
「……ルナ!」
アルベルトが呼ぶ。
ルナは動けない。
動けば、刃の軌道が変わる。
変われば死ぬ。
アルベルトが。
そして、それはソルの望みでもある。
ソルは囁くように言った。
「ほら、守れ」
声に蜜が混じる。
残酷な蜜。
「守れるなら守ってみろ」
アルベルトの足が一歩、沈む。
膝が僅かに揺れる。
負ける。
このままでは――負ける。
ルナは理解した。
ここでアルベルトが倒れれば、ソルは止まらない。
止まらないどころか、さらに深い場所へ堕ちる。
世界が、壊れる。
そして何より。
アルベルトが死ぬ。
緑の瞳が消える。
光が消える。
それだけは。
それだけは――
ルナは、一歩前へ出た。
「ルナ、だめだ!」
アルベルトの声が割れる。
ソルの瞳が細くなる。
「来い」
王の声。
ルナは違う言葉を言った。
ソルにではない。
アルベルトに。
「――ごめんなさい」
その謝罪は、敗北ではない。
決断だった。
ルナは、胸に手を当てる。
そこに、二百年続いた鎖がある。
神との契約。
不老不死の代償。
見送り続ける宿命。
そして同時に、癒しの力。
ルナは祈る。
神に。
契約の解除を。
ルナの胸から、光が溢れる。
魂の奥が軋む。
血が冷える。
世界が遠ざかる。
「……やめろ!」
アルベルトが叫ぶ。
ソルの瞳の炎が揺れる。
初めて、揺れる。
理解したからだ。
ルナは――逃げるのではない。
終わらせるのだ。
ルナは微笑んだ。
穏やかなまま。
慈悲深いまま。
「あなたを守りたい」
アルベルトへ。
そして、もう一つ。
「あなたを怪物にしたくない」
ソルへ。
両方を救う唯一の方法が、ひとつだけある。
自分が消えること。
契約を解いて、死ぬこと。
光が消えた。
ルナが倒れ、銀の髪が床に広がる。
水色の瞳が、ゆっくりと閉じる。
ルナの身体から、静かに温度が抜けていく。
それは、眠りに似ていた。
だが、眠りではない。
終わりだ。
ソルの炎も、消えた。
「……ルナ」
名が、落ちる。
拾われない涙のように。
アルベルトは膝をついた。
ルナの身体を抱き上げる。
温度がない。
癒しの光がない。
不老不死は解けた。
契約は解除された。
つまり――
これは、本物の死だ。
世界が静かに壊れた。
二人の絶望だけを残して。




