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太陽王と終焉の月  作者: 帰り花
第三章 月の檻
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その夜、風が城壁を撫でた。

ヴァルディアの風は冷たい。

だがその冷たさの中に、異物の匂いが混じっていた。

――草と土と、水。

エルセリアの匂い。

王城の影は深い。影が深いほど、潜る者には優しい。

潜る者は影に溶け、影の一部になる。

アルベルトは影になっていた。

王子の衣ではない。外套は黒。足音を殺す靴。刃は短く、必要最低限。

彼は剣で、勝つために来たのではない。

取り戻すために来た。

城内の地図は頭に入っている。逃げ道も、衛兵の交代する時刻も、回廊の死角も。

そして何より――ルナが閉じ込められている場所も。


妃の居室へ辿り着いた時、窓の格子越しに月が見えた。

白い光が床に落ち、格子の影が牢の模様を作っている。

その中にルナが立っていた。静かに、息を殺して。

「……ルナ」

名を呼ぶ。

振り向いた顔は、穏やかなままだった。

だが、穏やかさが“薄い”。

耐えて削れた穏やかさだ。

「来ないで、と言いました」

「言われても来る」

同じやり取り。

だが今夜は、言葉が重い。

アルベルトは低く言う。

「逃げよう」

ルナは一瞬だけ、目を伏せる。

その仕草は、祈りに似ていた。

「……ソルが壊れます」

「壊れる前に、止める」

アルベルトの声には迷いがない。迷いがないから危うい。

だが彼は、迷えない。

「今夜しかない。もう“次”はない」

ルナの瞳が揺れる。

水色の奥で、何かが折れそうになる。

(この光を失いたくない)

(この光を、消したくない)

その欲が胸に疼く。

だが同時に、別の痛みが胸を刺す。

(ソルを見捨てられない)

(怪物にしたくない)

二つの願いは両立しない。

だからこそ――行動が必要だった。

ルナは小さく頷いた。

「……分かりました」

その瞬間、緑の瞳がほどけた。

アルベルトが手を伸ばす。

ルナはその手を取った。

指先が触れた瞬間、二百年の孤独が微かに震えた。

“見送り”を前提に生きてきた男が、“並ぶ”という未来を一瞬だけ見てしまう。


だが。

廊下の奥で、足音が止まった。

それは巡回兵の足音ではない。

規則的でもない。

迷いもない。

獣が獲物を追う足音。

アルベルトが息を止める。

ルナの背筋が冷える。

そして確信する。

――来た。

影が落ちる。

ヴァルディアの王が立っていた。

赤い炎色の瞳が、激しく燃えている。

「……やはり」

静かな声。

静かすぎて、恐ろしい声。

ソルは二人を見る。

手を取った形。

逃げる形。

“他”が現れた形。

その瞬間、王の世界から色が消えた。

残るのは炎だけだ。

「返せ」

ソルが言う。

アルベルトは前へ出た。

ルナを背に隠すように。

「返すのはお前だ」

短い言葉。

光の王子は、光のまま怒る。

ソルは笑った。

「おれのものだ」

そして次の瞬間、距離が消えた。


刃が交わる。

金属音が、静寂を裂く。

アルベルトは強い。

“守るため”の強さだ。

だが、ソルは違う。

彼の強さは、“奪うため”のものだ。

奪うための刃は、迷いがない。

アルベルトは一度、踏みとどまる。

二度、受け流す。

三度、腕が痺れる。

ソルの炎が、刃の間から漏れる。

熱が、皮膚を舐る。

「……ルナ!」

アルベルトが呼ぶ。

ルナは動けない。

動けば、刃の軌道が変わる。

変われば死ぬ。

アルベルトが。

そして、それはソルの望みでもある。

ソルは囁くように言った。

「ほら、守れ」

声に蜜が混じる。

残酷な蜜。

「守れるなら守ってみろ」

アルベルトの足が一歩、沈む。

膝が僅かに揺れる。

負ける。

このままでは――負ける。

ルナは理解した。

ここでアルベルトが倒れれば、ソルは止まらない。

止まらないどころか、さらに深い場所へ堕ちる。

世界が、壊れる。

そして何より。

アルベルトが死ぬ。

緑の瞳が消える。

光が消える。

それだけは。

それだけは――


ルナは、一歩前へ出た。

「ルナ、だめだ!」

アルベルトの声が割れる。

ソルの瞳が細くなる。

「来い」

王の声。

ルナは違う言葉を言った。

ソルにではない。

アルベルトに。

「――ごめんなさい」

その謝罪は、敗北ではない。

決断だった。

ルナは、胸に手を当てる。

そこに、二百年続いた鎖がある。

神との契約。

不老不死の代償。

見送り続ける宿命。

そして同時に、癒しの力。

ルナは祈る。

神に。

契約の解除を。

ルナの胸から、光が溢れる。

魂の奥が軋む。

血が冷える。

世界が遠ざかる。

「……やめろ!」

アルベルトが叫ぶ。

ソルの瞳の炎が揺れる。

初めて、揺れる。

理解したからだ。

ルナは――逃げるのではない。

終わらせるのだ。


ルナは微笑んだ。

穏やかなまま。

慈悲深いまま。

「あなたを守りたい」

アルベルトへ。

そして、もう一つ。

「あなたを怪物にしたくない」

ソルへ。

両方を救う唯一の方法が、ひとつだけある。

自分が消えること。

契約を解いて、死ぬこと。


光が消えた。

ルナが倒れ、銀の髪が床に広がる。

水色の瞳が、ゆっくりと閉じる。

ルナの身体から、静かに温度が抜けていく。

それは、眠りに似ていた。

だが、眠りではない。

終わりだ。


ソルの炎も、消えた。

「……ルナ」

名が、落ちる。

拾われない涙のように。

アルベルトは膝をついた。

ルナの身体を抱き上げる。

温度がない。

癒しの光がない。

不老不死は解けた。

契約は解除された。

つまり――

これは、本物の死だ。


世界が静かに壊れた。

二人の絶望だけを残して。

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