決意
その夜から、王城の空気が“変わった”のではない。
死んだ。
音が減った。
灯りが減った。
人の気配が減った。
そして何より――
ルナの世界から、“余白”が消えた。
ソルは、言葉を減らした。
代わりに、触れた。
触れて、確かめた。
確かめる、という名で――奪った。
朝議の最中にも、指が伸びる。
廊下を歩く時も、距離が詰まる。
食事の席でも、視線が外れない。
「隣へ」
それは命令ではあるが、もう命令ですらない。
自然現象だ。
王が息をするように、
妃を自分の半径に閉じ込める。
ルナは笑わなくなった。
元々、常に微笑みを携えた人だった。
だが、今は違う。穏やかさが“薄い”。
祈りの時間が奪われたからではない。
自由が奪われたからでもない。
――違う。
ソルの目が、救えない目になりつつある。
それが恐ろしい。
夜は、さらに変わった。
かつての夜には、かすかな慎重さがあった。
壊れ物に触れるような、怯えにも似た優しさ。
今はそれがない。
触れ方が違う。
“確かめるため”ではなく、
“逃げ道を消すため”に触れる。
言葉も違う。
「ここにいろ」
それは祈りだったはずなのに、今は――
扉を閉める鍵になっている。
ルナは耐える。
耐えることが、救済だと思っているから。
だが耐えれば耐えるほど、ソルは安堵する。
耐えているのは、愛しているからだと。
拒まないのは、望んでいるからだと。
違う。
違うのに。
違うと告げれば、世界が壊れる。
数日後。
ルナは気づいた。
城の中から、男たちが消えている。
侍従。
護衛。
神官。
特に、ルナに近づける年齢の男が。
配置換え。左遷。遠征。解任。
表向きは合理だ。
「妃の身辺警護を強化する」
「敵国の間者を排除する」
だが本質は一つ。
“目”を消している。
ルナを見得る目を。
ルナが見返し得る目を。
そして、その中心にソルがいる。
ある夕暮れ。
ルナは廊下の角で、老いた侍女に囁かれた。
「妃殿下……陛下が、地下を」
地下。
王城の地下に何があるのか。
ルナは知っている。
禁書庫。
封印庫。
そして――
禁忌の儀式室。
そこは、王家が触れてはいけない場所だ。
“魂”に触れる術が眠っている場所。
ルナの背筋が冷えた。
(まさか)
思う前に、確信が芽生える。
ソルはもう、普通の鎖では足りなくなっている。
王の権力でも、恐怖でも、監視でも――
足りない。
だから次は、もっと深いところを縛る。
身体ではない。
立場でもない。
魂を。
その夜、ルナは初めて“祈り”ではなく“計算”をした。
逃げる可能性。
生き残る可能性。
アルベルトが生きる可能性。
ソルが壊れずに済む可能性。
どれも低い。
だが、ゼロではない。
ゼロでないなら、選ぶべきだ。
二百年生きた者は知っている。
奇跡は、希望を抱いた者に訪れるのではない。
行動した者にだけ、偶然として訪れるのだと。
(アルベルトが来たら)
(その時に)
(私は――決める)
決断は“今”ではない。
今決めても、手段がない。
今動けば、ソルが即座にアルベルトを殺す。
だから“引き金”が必要だ。
アルベルトが助けに来ること。
それを合図に、ルナは行動に移す。
逃亡か。
犠牲か。
あるいは――もっと別の、最悪の選択か。
ルナは自分の中で、答えを言葉にしない。
言葉にした瞬間、それが現実になる気がした。
一方、王都の外。
エルセリアの残党は、静かに息を潜めていた。
敗北しても、光は消えない。
アルベルトは生きている。
そして生きている限り、取り戻す。
奪うのではない。
解き放つ。
彼は“縛らない愛”を知っている。
だからこそ、縛るしか知らない王に勝てないわけがないと信じている。
信じることが、彼の強さだ。
王城の天守。
ソルは、一人で立っていた。
窓の外に、月が浮かぶ。
白い月。
あれは“彼”だ。
自分のものだ。
だが、月は遠い。
近くにいるのに、遠い。
隣にいるのに、遠い。
触れているのに、遠い。
それが、耐えられない。
ソルは、低く呟いた。
「……消えるな」
返事はない。
返事がないことが、さらに彼を冷やす。
冷えたものは、硬くなる。
硬くなった心は、折れるか――
ソルは決めていた。
もう二度と、奪われないようにする。
次に来る“光”が何をしようと、月だけは離れないようにする。
そのための方法が、地下にある。
王家の禁忌が、そこにある。
ルナは、知らないふりをする。
ソルは、気づかないふりをする。
アルベルトは、準備を進める。
三人がそれぞれ別の沈黙を抱えたまま――
運命は“次の夜”へ向かって加速していった。




