表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
太陽王と終焉の月  作者: 帰り花
第三章 月の檻
16/28

破綻

 翌朝、王城の空気は昨日より重かった。

 誰も、言葉にしない。

 だが、皆が知っている。

 王の機嫌は、国の天候だ。

 その天候が今、崩れかけている。

 原因は誰も、口にしない。

 口にすれば、燃えるからだ。


 ルナは、朝議に立った。

 いつも通り、ソルの半歩後ろ。

 いつも通り、静かに。

 だが“いつも通り”の中に、確実に違うものが混ざっていた。

 ルナの顔は、白い面布で覆われていた。

 慈愛に満ちた水色の瞳は他の者には見えず、ルナからも人影しか見えていないだろう。

 そして、異変はもう一つあった。

 ソルの手が、離れない。

 昨夜の名残ではない。

 昨夜の結果だ。

 手首を取られる。

 指が絡む。

 見えない鎖。

 そして、周囲に向けた合図。

 ――触れるな。

 ――見るな。

 ――奪うな。

 誰も、奪おうとしていないのに。

 ソルは、奪われることを前提に生きている。

 だから、先に縛る。

 失う前に、縛る。

 失う可能性を消すために、縛る。


 昼。

 ルナが一人になる時間は、なくなっていた。

 祈りの時間も、なくなっていた。

 ヴァルディアの礼拝堂に行く許可はある。

 だがそこへ行くには、ソルの許可が必要だった。

 そして、ソルは許可を出さない。

 出すのが怖いからだ。

 月が王城の外の空気を吸えば、

 月が王城の外の誰かに触れれば、

 月の心が自分以外へ動くかもしれない。

 それは、ソルにとっては死と同じだった。

 だから、封じた。

 空を。

 光を。

 人を。

 祈りすら。


 夜。

 ソルは優しさを持ち出さなくなった。

 壊れ物を扱う触れ方ではない。

 確かめる触れ方でもない。

 今は抑えつける触れ方だ。

 逃がさないために。

 逃げ道を消すために。

 ルナは抵抗しない。

 それは、諦めではない。

 耐えることが、守ることだと知っているからだ。

 ソルを怪物にしないために。

 ここで拒絶すれば、ソルはもっと深い闇へ落ちる。

 その確信が、ルナを黙らせる。

 黙らせることで、逆に鎖が太るのに。


 そして夜の終わり。

 ソルは必ず囁く。

 同じ言葉を。

 しかし今は、意味が変わっている。

「ここにいろ」

 それは祈りではなくなった。

 拘束になった。


 ルナは窓辺に立ち、月を見る。

 格子の向こう。

 エルセリアと同じ月。

 エルセリアと同じ光。

 なのに、ここでは冷たい。

 月は反射する。

 だから、近くのものに染まる。

 ヴァルディアの月は、鉄の匂いがする。


 そのとき。

 窓の外、庭の隅の木の後ろで、影が揺れた。

 鳥ではない。

 風でもない。

 人の影だ。


 ルナの胸が、強く鳴った。

(まさか)

 思う前に、影が近づく。

 そして、声。

 小さな、しかし確かな声。


「……ルナ」


 緑の匂いがした。

 風の匂い。

 エルセリアの匂い。

 懐かしい匂い。

 ルナは、唇を噛む。

 名を呼ばれただけで、胸が裂けそうになる。

 それでも声を落とし、答える。

「……アルベルト」


 アルベルトが、そこにいた。

 王子の衣ではない。

 暗い外套。

 顔を隠す布。

 だが、緑の瞳は隠しきれない。

 その目は、昔と変わらない。

 疑わない目。

 恐れない目。

 まっすぐに人を信じる目。

 それが、今夜ほど残酷に眩しいことはない。


「来てはいけません」

 ルナが言う。

 アルベルトは首を振る。

「来るなと言われても、来る」

 声は低い。

 だが、揺れない。

「俺は、お前を奪い返す」

 その言葉は、ソルの言葉と似ている。

 奪う。

 だが、意味が違う。

 アルベルトの奪うは、自由を戻す奪い方だ。

 ソルの奪うは、自由を消す奪い方だ。

 同じ言葉なのに、正反対。


 ルナは苦笑する。

「あなたは……変わりませんね」

 アルベルトも笑う。

「変われない」

 そして一歩、近づく。

 窓格子越し。

 手が届く距離。

 届きそうで、届かない距離。


「……覚えているか」

 アルベルトが言う。

「俺の誓いを」

 ルナの呼吸が止まる。

 覚えている。

 忘れたことなどない。

 13歳のアルベルトが、怪我をしていた夜。

 血に濡れ、土に伏せた王子。

 護衛もいない、無茶な少年。

 それを見つけた、銀髪の神官。

 触れた。

 癒した。

 光が生まれた。

 ルナは不老不死だと知ったアルベルトは、言った。

「俺の最期まで、お前の隣にいる」

 その言葉は、ルナの二百年の孤独に風穴を開けた。

 “見送る側”として生きると決めた心を、揺らした。

 愛してはいけないと決めた心を、ほどいた。


 ルナは囁く。

「覚えています」

 アルベルトの緑の瞳が、少しだけ柔らかくなる。

「なら、来い」

 短い言葉。

 命令ではない。

 手を差し出すでもない。

 ただ、“待つ”のではなく、“迎えに来た”目をしている。


 ルナは目を伏せた。

 行けない。

 行けば、ソルが壊れる。

 ソルが壊れれば、世界が壊れる。

 そして何より――

 アルベルトが死ぬ。

 その可能性を、ルナは知りすぎている。

 ソルは脅しを実行する男だ。

 実行できる男だ。

 実行しても眠れる男だ。


「……今は」

 ルナが言う。

「まだ……」

 アルベルトが遮る。

「まだ、じゃない」

 声が鋭くなる。

 怒りではない。

 焦りだ。

「お前の目が、死にかけている」

 その一言で、ルナの胸が痛んだ。

 見抜かれた。

 祈りで保っているだけの自分を。

 救済の形をした、自己犠牲を。


 アルベルトは続ける。

「俺は、愛されて育った」

 突然の言葉。

 だがそれは、前置きだった。

「だから分かる。愛は鎖じゃない」

 緑の瞳が、真っ直ぐルナを見る。

「お前を縛っているのは、愛じゃない」

 ルナは息を吸えなくなる。

 正しい。

 正しすぎる。

 正しい言葉は、時に刃だ。


「俺は、待つだけの男でいたかった」

 アルベルトが言う。

「だが、もう待てない」

 声が落ちる。

 静かになる。

「お前を失う」

 その一言に、ルナの心が揺れる。

 失う。

 見送る。

 それが代償だ。

 神との契約の代償。

 だからこそルナは、愛を遠ざけてきた。

 失うのが怖いからだ。

 失うのが、確定しているからだ。


 ルナは囁く。

「……あなたを巻き込みたくない」

 アルベルトは即答する。

「巻き込め」

 そして微笑む。

「お前が俺を巻き込んだんだ。雨の夜に」

 その笑いは、昔と同じだった。

 眩しくて、優しい。

 だからこそルナは、胸が苦しくなる。

 この光を、守りたい。

 この光を、消したくない。

 ソルを救いたいのと、同じくらい。

 いや、違う。

 守りたいのは、アルベルトだ。

 愛しているのは、アルベルトだ。

 その事実が、胸の奥で焼ける。


 遠くで足音がした。

 巡回兵だ。

 時間がない。

 アルベルトが言う。

「次は、必ず連れ出す」

 断言。

 ルナのために、彼は命をかける。

 ルナは目を閉じる。

「……来ないでください」

 アルベルトは首を振る。

「必ず来るよ」

 そして、最後に囁く。

「お前を取り戻す」


 影が消える。

 風の匂いが薄れる。

 夜が戻る。

 格子の影が床に落ちる。

 ルナは、その場に立ち尽くす。

 胸の奥が震えている。

 救済のために、残ったはずなのに。

 愛のために、揺れてしまった。


 その瞬間。

 背後で、扉が開いた。

 ソルが入ってくる。

 何も言わず。

 ただ一つだけ、違う。

 赤い炎色の瞳が――

 全てを知っている目だった。


「……誰だ」

 低い声。

 問い。

 だが、問いではない。

 確認でもない。

 確信の刃だ。

 ルナは息を止める。

 言えば、アルベルトが死ぬ。

 言わなくても、いずれ死ぬ。

 その未来が、喉元に迫る。


 ソルは近づく。

 距離が消える。

 逃げ場が消える。

 そして囁く。

「お前の目が、今――俺を見ていなかった」

 その一言が、絶望の宣告だった。

 ソルは見てしまったのだ。

 “他”を。

 “光”を。

 そしてその瞬間、彼の中で何かが壊れた。

 優しさではない。

 慎重さでもない。

 壊れたのは、壊さないという最後の理性だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ