嫉妬
それは、些細な出来事だった。
だが王にとって、世界を壊す理由はいつも些細だ。
妃となって一年が過ぎた頃。
王城の空気は、変わっていなかった。
兵は、ルナに関わらない。
貴族は、ルナを見ない。
侍女は、ルナに触れない。
だが一つだけ、変わってしまったものがある。
噂だ。
「妃は癒しの力を持つ」
「神の祝福を宿している」
「触れられれば傷が消える」
噂は広がる。
火より速く。
水より深く。
ソルは、それを知っていた。
知っていたが、止めなかった。
止める理由がなかったからだ。
その時までは。
事件は、午後に起きた。
城壁見回りの兵が負傷した。
崩落した石材に脚を挟まれ、骨が折れていた。血が滲み、痛みで呼吸が荒い。
城の中庭に運び込まれた兵を見て、侍従が慌てて言った。
「医師を――」
だが、兵は首を振る。
苦しげに。
「……妃様を」
その一言。
それだけ。
それだけで、空気が止まった。
ルナは呼ばれた。
拒まなかった。
拒めなかった。
苦しんでいる者を放置できない。
それは癖だ。
二百年で染みついた、消えない癖。
中庭で。
兵は地面に横たわっていた。
汗。
血。
歯を食いしばる音。
ルナは膝をつき、兵の足に触れた。
光が溢れ、骨が戻る。
裂けた皮膚が閉じる。
呼吸が整う。
兵は、目を見開いた。
そして言った。
「……ありがとうございます」
涙を流しながら。
救われた者の顔だった。
そのとき。
背後で音がした。
足音。
重くない。
だが、逃げ場を消す音。
ルナは、振り向かない。
振り向かなくても、分かる。
誰か、分かる。
誰も、跪かない。
誰も、声を出さない。
空気だけが、沈む。
王は、怒鳴らない。
顔も、歪んでいない。
だが。
赤い炎色の瞳だけが、激しく燃えていた。
「……立て」
低い声。
兵に向けた声。
兵は慌てて、立つ。
震えている。
痛みではない。
恐怖だ。
「下がれ」
兵は逃げるように、去る。
誰も止めない。
止められない。
沈黙。
風が止まる。
鳥の声が遠くなる。
世界が狭くなる。
ソルは、歩く。
一歩。
また一歩。
ルナの前まで。
止まる。
何も言わない。
ただ、見る。
ルナを。
触れた、手を。
兵を癒した、指を。
「……誰にでも触れるのか」
声は静かだった。
怒鳴らない。
責めない。
だが、その静けさが、最も危険だった。
ルナは答える。
「苦しんでいたので」
それは真実。
嘘ではない。
だが。
ソルにとって真実は、必ずしも正解ではない。
「そうか」
短い返事。
それだけ。
それ以上、何も言わない。
踵を返し、去る。
怒りも命令も残さず。
ただ、沈黙だけを残して。
その夜。
王の寝所は、いつもより暗かった。
灯りが少ない。
影が深い。
ルナが入ると、ソルはすでにいた。
窓の前。
背を向けて、月を見ている。
白い光が、肩を縁取っている。
静かな背中。
だが静けさは、嵐の前触れだ。
ルナは分かる。
分かってしまう。
「……ソル」
呼ぶ。
返事はない。
代わりに、ゆっくり振り向く。
赤い瞳。
昼間より、深い色。
燃えている。
炎は揺れていた。
揺れながらも、消えない炎。
「お前は」
ソルが言う。
「誰のものだ」
問い。
命令ではない。
確認でもない。
確証が欲しい声。
ルナは答える。
「あなたの妃です」
正しい答え。
形式として。
だが、ソルは首を振る。
「違う」
一歩近づく。
「そういうことじゃない」
声が低くなる。
胸の奥の獣が、目を覚ます。
「誰のものだ」
もう一度。
今度は逃げ場がない。
ルナは言う。
静かに。
「わたしは、だれのものにもなりません」
その言葉。
その一言。
それが、火種になる。
次の瞬間。
ソルは、ルナの手首を掴んだ。
痛い。
今までと違う。
確かめる触れ方ではない。
捕まえる触れ方。
寝台へ引き寄せる。
距離が消える。
逃げ道が消える。
呼吸が重なる。
だが、今夜のソルは違う。
優しくない。
触れ方が違う。
指先の迷いがない。
躊躇がない。
“壊さないように”が消えている。
代わりにあるのは。
抑えつけたい衝動。
「言え」
声が低くなる。
「お前は、誰のものだ」
ルナは理解する。
これは愛ではない。
不安だ。
けれど、嘘は言えない。
嘘が崩れれば、王は壊れてしまうから。
だから、繰り返す。
「わたしは、だれのものにもなりません」
その瞬間。
ソルの瞳が細くなる。
今までの夜は、確かめる夜だった。
だが今夜は、違う。
刻む夜だ。
証を残す夜だ。
逃げられない鎖をつける夜だ。
ルナは、目を閉じる。
抵抗しない。
痛みも、熱も、受け止める。
ソルを、壊さないために。
夜は長かった。
長く。
深く。
重く。
夜明け前。
ソルは、ルナを抱いたまま呟く。
声は低い。
だが、震えている。
「……他を見るな」
命令。
懇願。
祈り。
全部が混ざった声。
ルナは答える。
「見ません」
これだけは、嘘だった。
心の底では、緑の瞳を覚えている。
消えていない。
消えない。
だがその真実は、口にしない。
口にした瞬間、太陽と月は二度と昇れなくなるから。
ソルは、安心したように目を閉じる。
だがその安心は、鎖になる。
鎖は増える。
増えるほど、外れなくなる。
外れなくなるほど――
王は狂っていく。




