鎖
妃としての日々は、静かだった。
嵐のような戦の後に与えられたのが、この静けさだった。
それは、安らぎではない。
嵐の中心の静寂だ。
嵐が止んだのではない。
ただ――
嵐の中心が、移っただけだ。
その中心にいるのが、ルナだった。
朝、ルナが目を覚ますと、すでに侍女たちは控えている。
音を立てない足取り。伏せられた視線。触れない距離。
敬意ではない。
恐れだ。
彼女たちは、知っている。
この妃は、王の“最も触れてはならないもの”だと。
宝物ではない。
宝物なら、飾られる。
これは違う。
――囲われている。
衣が用意される。
白。
銀。
淡い青。
すべて、ソルが選んだ色だった。
「陛下のご命令です」
侍女は、必ずそう言う。
つまりこれは、衣ではない。
王の世界の色だ。
ルナが何色を纏うかは、王の世界が何色で染まるかを意味する。
朝議の時間。
ソルは、必ず言う。
「隣へ」
それが、命令。
ルナは、王座の隣に立つ。
椅子はない。
座らせない。
立たせる。
王と同じ高さに。
だが、同じ位置にはしない。
半歩後ろ。
その半歩が、支配の距離だった。
大臣が報告する。
将軍が進言する。
使者が跪く。
誰も、ルナを見ない。
見ないようにしている。
だが、視線は感じる。
背中に。
首筋に。
指先に。
“見てはいけないもの”ほど、人は見たくなる。
それを、ソルは知っている。
だから隠さない。
隠す代わりに――見せつける。
ある日の朝議で。
ソルは、何気なく手を伸ばした。
ルナの手首を取る。
静かに。
だが、確実に。
報告していた大臣の声が、わずかに震えた。
ソルは、視線を向けない。
大臣ではなく、ルナを見ている。
指先で、脈をなぞる。
鼓動を、確かめる。
生きている。
ここにいる。
逃げていない。
その確認。
それだけ。
だがそれだけの仕草が、王の間の空気を支配する。
誰も息を深く吸えない。
王の手が、離れるまで。
ルナは理解していた。
これは、愛ではない。
確認だ。
失わないための確認。
壊れていないかの確認。
消えていないかの確認。
ソルは、国を支配している。
いずれ、世界をも支配するだろう。
現に、エルセリア陥落後も、周辺諸国はヴァルディアの想像以上の軍事力に恐れをなし、息を潜めている。
だが。
ルナだけは支配しきれていないと、どこかで知っている。
だから、触れる。
触れて、確かめる。
触れて、安心する。
夜。
王の寝所。
灯りは少なく、影が多い。
ソルは、夜になると静かになる。
昼の王とは別人のように。
命令もしない。
怒りもしない。
ただ、近くに来る。
距離を詰める。
逃げ場が、なくなるまで。
最初の夜、ルナは覚悟していた。
命令されると。
強制されると。
奪われると。
だが、ソルは違った。
触れた。
頬に。
髪に。
唇に。
まるで、壊れ物を扱うみたいに。
恐れているみたいに。
自分が、壊してしまうことを。
「……逃げないな」
低い声。
ルナは答える。
「逃げません」
本当だった。
逃げられないからではない。
逃げれば壊れるから。
ソルが。
ソルは、目を閉じる。
その瞬間だけ、王ではなくなる。
ただの少年になる。
孤独な少年。
拾われなかった少年。
呼ばれなかった少年。
その少年が、ルナの肩に額を預ける。
触れる。
寄りかかる。
すがる。
言葉にはしない。
だが、身体が言っている。
――ここにいて。
やがて、ソルはルナを寝台へ導く。
動きは静かだ。
急がない。
奪うのではない。
確かめるために、触れる。
指先で、輪郭をなぞる。
頬に。
首に。
肩に。
胸に。
まるで、記憶に刻み込むみたいに。
失ったとき、思い出せるように。
唇が触れる。
深くはない。
だが、長い。
離れない。
確かめるみたいに。
何度も。
何度も。
呼吸が混ざる。
体温が移る。
だが、それ以上を急がない。
欲望はある。
だが、衝動に任せない。
衝動で壊したら、終わるから。
ルナは、目を閉じる。
抵抗はしない。
受け入れる。
愛しているからではない。
壊したくないからだ。
遠く祖国にいる恋人を。
そして、ソルを。
やがて夜は深くなり。
灯が揺れ。
影が重なり。
静かに時間が過ぎる。
声はない。
命令もない。
ただ呼吸だけが重なる。
王と妃ではなく。
人と人として。
夜が終わる頃。
ソルは必ず言う。
眠りに落ちる直前、囁く。
同じ言葉を。
毎晩。
欠かさず。
「……ここにいろ」
それは、命令ではない。
祈りだ。
ルナは、知っている。
この祈りがある限り。
この王はまだ、怪物ではない。
だから、答える。
毎晩。
同じ言葉を。
「います」
それが、鎖だと知りながら。




