蝶々
そっと寄り添う気配に、ベイリーはふ、と緩く口角を上げると、苦しそうに胸の内を打ち明けた。
「正直、俺の追手がウイじゃなければよかったのにって、思ってる」
「他人なら、逃げるだけでいいからな」
「そう。でも、イチカワとの約束もあったし、ウイのことが気がかりだったのも本当だ。だけど、メチコの姿をみたら……」
ころり、とベイリーの手の中から小瓶が転がり落ちる。そちらへ視線を落とせば、血の気を失い震える手が小瓶を拾おうとしていた。
ダンデライオンは小瓶を掴み損ねた手をとると、「怖くなって当然だ。逃げだしたい気持ちも、ウイを見捨てられない心も。なんら否定されることじゃない」冷え切った手を温めるように握りしめた。
「言葉にしてくれてありがとうな。ベイリーの気持ちを共有できて、俺は嬉しい」
「お前は、巻き込まれただけなのに、どうしてそんなに優しいんだ」
「ベイリーが特別だからさ」
「繋ぎ人だから、じゃなくて?」
「もちろん、繋ぎ人であることも特別のうちの一つだ」
困った表情に微笑みを返し、ダンデライオンは窓の外へ視線を投げる。
日はまだ高く、絶え間なく砂を巻き込んだ風が吹いていた。
「さて、俺たちが最高に幸運なら、ウイの保護は簡単に終わる」
顔を引き締め、ダンデライオンは床に下ろした荷物の中から予備のナイフや銃弾を取り出す。
「だが、そんな簡単に終わらないだろうな」
「そうだな」
ふと、風に乗って一頭の蝶が部屋の中にひらりと舞い降りた。
「蝶?」
砂漠地帯ではめったに見ない昆虫に、ダンデライオンは眉を顰める。警戒心をあらわにするダンデライオンの前で、ベイリーは部屋の中を舞う蝶を捕まえると、そっと手のひらを開いた。
ベイリーの手の中には、布の切れ端でできた蝶が静かに羽を開いたり、閉じたりしている。
「風の精霊だ」
「じゃあ、ウイが?」
「ああ」
小さな精霊はゆっくりと羽を閉じると、縫い目を解かれたかのように、一枚の布に広がった。
「消えたのか?」
「いや。ウイのところに戻るって」
「へぇ? あのおチビちゃんのことを気に入ってるんだな」
「ああ。珍しい精霊だ」
掌に残された布をポケットにしまい、ベイリーは窓を閉じた。
「これから一人で買い出しに行くから、直接話がしたい、と」
「ウイが?」
「ああ。その時に、逃げられそうだったらすぐに逃げるぞ」
ベイリーは机のものを手早く集め、あっという間に出かける準備を整える。その間に、ダンデライオンも外した装備を定位置へ戻していくが、頭によぎった嫌な予感に手をとめる。
「罠ってことはないか?」
「……その可能性もある。だから、何があってもいいようにした方がいい」
言いながら、ベイリーはリュックサックを背負い、マントを羽織った。
「ここに戻ってこないかもしれないから、必要最低限は一緒に持ち出すぞ」
「食料も持っていきたいところだがなぁ」
ダンデライオンは床に横たわる麻袋を見下ろすが、二人分の食料や水が入ったそれは、持ち歩くには重たすぎる。
「逃げ出せれば、どうとでもなる」
そう言いながら、ベイリーは麻袋から酒瓶を取り出し腰のポーチに詰め込む。そしてまっすぐと前だけを見て部屋を出ていった。
後に続いたダンデライオンは部屋の取っ手に「掃除不要」の札をかけると、鍵を閉める代わりに強く取っ手を握りしめ「侵入者を絶対に許すなよ」扉に言い含めるように囁いた。
ウイに指定された店は、二人がとった宿からほど近い市場の一角にあり、軒先に僅かながら並べられた青果が目印だった。
ローズガーデン中央広場の市場と比べると小指の先ほどもない小さな市場だが、砂漠の中の補給地として求められる必要最低限がしっかりと揃えられていた。
緊張で硬くなったベイリーの背を追う傍ら、ダンデライオンは魔法小瓶や弾薬をすばやく購入してはポケットにしまっていく。
「いた」
ベイリーの声に顔を上げると、指定された店の前にはすでに膨らんだ紙袋をもった小さな人影があった。青果を一つ手に取り、熟れ具合を確認している様子の人影は使い古したマントを羽織り、フードを目深く被っているせいで個人はおろか性別の判別も難しい。しかしベイリーはまっすぐ人影の隣まで歩み寄ると、その隣に並んだ。
「久しぶり、ウイ」
ベイリーが隣に立つと、小柄な人影はより細く小さいことが分かる。身長は百二十センチもないだろう。
「……ほんとうに、お兄ちゃん?」
人影は顔をあげずに、掠れた声で質問した。
「うん」
「でも、髪の色も、目の色も違う」
「ああ、これは、いろいろあって」
「でも、声は同じだね」
「うん。それでウイ、あいつとは別行動なんだよな」
名を呼ばれ、それまで頑なに手元の青果から目を離さなかった人影、ウイはゆっくりと顔をあげた。
砂にまみれた粟色の前髪の奥、薄い水色の瞳が溶けだしたと錯覚するほどの涙を浮かべたウイは、首を横に振った。
「ごめんなさい!」
悲痛な叫びが市場に響くより早く、隣の店を物色している風を装っていたダンデライオンはベイリーのマントに手を伸ばし思いきり引きよせた。
途端、ベイリーが立っていた場所に一人の女――ウルガルト――が姿を現した。
店主や通りすがりの客たちが突然のことにざわつく中、ダンデライオンは煙幕の魔法小瓶を叩き割ると、ベイリーを肩に担ぎ宿へと走り出す。
「おい! ウイが!」
「悪いが俺の第一優先はお前だベイリー!」
しかしダンデライオンが煙幕の中を走り抜ける前に、二人の行く手を人だかりが塞いだ。
「邪魔だ! 怪我したくなかったら退け!」
「言うだけ無駄よ。彼ら、私の駒だもの」
煙幕をものともせず、声を荒げるダンデライオンの背後からゆっくりと近づいてきたウルガルトは、美しい金髪を肩から払いながらふわりと笑った。
「随分とへんてこな髪色と目の色じゃないの。前の方が天使のようで可愛らしかったのに」
ウルガルトは視界の端で動けずにいるウイを追い払うように手を振り、そのまま手のひらを頬に寄せた。
「おかげで、探すのが大変だったのよ?」
頬から顎に指を滑らせ、小首を傾げる挙動はごく自然で違和感なく、精霊が中に入っているとは想像もつかない。しかし肩に担いだベイリーの体が小刻みに震えるているのを直に感じ、やはり目の前のウルガルトは人ならざるものだと確信する。
「あなたが逃げたあと、ビノークリが大暴れして大変だったんだから。責任感じないの? 九七号」
「九七号?」
「俺の、管理番号だ」
「あら。九七号が何者かも知らないで、一緒に逃げようとしていたの?」
「ベイリーはベイリーだ。それ以外の何者でもないし、それだけ知ってれば十分だ」
ダンデライオンはベイリーを肩から下ろし、腰のククリナイフを引き抜く。その間にもゆっくりと距離を詰めてくるウルガルトと、その先で行く手を阻む人の壁を交互に睨み、ふと気づいた事実に唇を噛み締めた。
「砂の民だ」
声がでないダンデライオンに代わって、ベイリーが訝しげに呟いた。
一口解説:ビノークリ
ベイリーの肉体を器にしようとした水の精霊王
イチカワいわく、気性の荒い若い精霊




