速く走る世界
約4000字の短編小説
「・・・」
遠くでなにかが聞こえた気がする。
なんだろうか?
ボクは柔らかく頬を撫でる草の先っぽを感じながら、それが心地よい風のせいなんだなって、ぼんやりと考えていた。
日差しが暖かで、もう眠ってしまいそうだ。
「・・チ」
また。
「・イチ!」
また聞こえた。
誰かの声だな。
ずいぶん遠くだ。ボクを呼んでるのか?
誰だっけ、いったい。
柔らかく吹く風、暖かい日差し、太陽は中天を過ぎたくらいだろうか。まぶしく輝いている。
柔らかな草の上に寝転びながらボクは頭を少し上げて、あたりを見回した。
遠くに大きな湖と林が見える。そしてボクの後ろには高くて険しい山々がそびえている。
その麓から続くなだらかな丘、ここはそこに広がる草原だ。
「誰もいない」
ボクは周りをぐるりと見渡したけど、さっきの声の主を見つけることはできなかった。
-誰だったんだろ?いや、そもそも人だったのかな?
その時、先ほどより強い風が吹いた。
暖かく爽やか、というより少し湿り気を含んだ風だ。
「そうか、今は春だけど、もうすぐ夏って頃なんだよな」
ボクはつい誰かに語り掛けるようにつぶやいた。
誰もいないのに。
「もうちょっと、寝るか」
僕はまた目を閉じた。
だって、気持ちいい風が吹いてるし、まだ日は高い。
帰るには早いさ、まだ。
すっと、意識が遠くなる。
これならすぐ、眠れるな。
「タイチ!」
僕は目を開けた。はっきりと僕の名前を呼んでいる。
「タイチ タイチ!!」
声はどんどん近づいてくる。
ずいぶん遠くからボクの名前を呼びながら走ってきたんだなぁ。
相変わらず元気な子だ。
「タイチ!こんなとこでなにしてる!?」
ボクのすぐ側まで来て、ボクを呼び捨てにするその声の主は、姪のイツキだ。
「なんだよイツキ、いつこっちに来たんだ?」
「タイチ!こんなとこでなにしてる!?」
イツキはボクの質問に答えず、同じことを聞いてきた。
-ちぇっ!無視すんなよな!
ボクの眠気は一気に覚めた。
「オレは昼寝してんの!見りゃ分かるだろ?それよりイツキ、いつこっちに来たんだ?」
ボクは15歳、イツキは9歳、年の離れた姉さんの子供だから、ボクとイツキの歳は近い。
だからイツキはボクにとても懐いてて、姪っていうより妹だ。
イツキにとっては、ボクもきっと、同じような存在なんだろな。
「イツキ、いつ来たんだ?来るなんて聞いてなかったぞ?」
「遠かったさぁ!もう!でもタイチこそなにしてるの、早く帰らんと!」
なにが「遠かったさぁ!」だよ、沖縄からなんだから遠いに決まってる。
大体質問の答えになってないじゃないか。
それにこの沖縄訛り!有無を言わさない感じなんだよなぁ。
沖縄の人に嫁いだ姉さんもすっかり沖縄訛りだから、聞き慣れてはいるんだけどさ。
ボクはイツキを見上げながら、そんなことを考えていた。
「タイチ!もう行こう、早く帰らんと!」
「イツキ、いつも言ってるだろ?呼び捨てにすな!!呼ぶならタイチにいちゃ・・あっ!」
イツキはボクの手を掴むと強く引っ張った。
「あたた!強いよイツキ、それに人の話は最後ま・・あっ!」
イツキはボクの手を両手で掴むと、すごい力で引っ張った。
「分かった!分かったからちょっと待って!こんなに気持ちいいのに、急がなくていいだろ?」
イツキは初めてボクの質問に答えた。
「タイチ!もう太陽が沈むんだよ?沈んだら、まっくらになっちゃうよ?こわいよ?」
もうそんな時間なのか? 確かに日差しはさっきより傾いたけど、まだ夕方でもないぞ?
ボクはそう考えたけど、イツキがこんなにせがむんだからしょうがない。帰って遊んでやることにしよう。
「しょうがないなぁ、もう」
ボクはイツキに手を引かれるまま立ち上がった。
「はやくはやく!タイチはやく!」
イツキが走り出す。ボクの手を引いたまま。
速い。
「はやく走らないと、間に合わないよ!」
「なにが?なにが間に合わない?」
「まっくらになるの、こわいよ?タイチは怖くない?」
真っ暗はいやだけど、別に怖かないさ。
そう思ったけど、そりゃイツキは怖いだろうな。
「イツキ、イツキ!!そんな走らなくっても、すぐに着くだろ?」
イツキはボクの言葉に応えない。
「イツキ、イツキ、ちょっと速いって、もっとゆっくりでいいだろ?」
イツキはやっぱり応えない。
それどころかイツキは更に速く走りだした。そしてボクを諫めるように言った。
「タイチ、もうすぐ日が暮れるんだよ?早く帰らなきゃダメだよタイチ、早く帰らないと!」
日が暮れる?大人びた言い方だな、あれ?
実際、イツキはちょっと大きくなったように見えた。
「タイチ、おじさんやおばさんに心配かけちゃダメじゃん、早く帰って安心させなきゃ」
「心配?何の心配だよ、オレがなんだって?」
「タイチ、覚えてないの?ホントに覚えてない?」
ボクと交わすイツキの言葉はやはり大人びて、ボクとあまり変わらないように思えた。
変わらない?
そうだ、イツキはボクの同い年のいとこだった!
なんで忘れてたんだろ?誰と間違えたんだろ?
「さぁ走ろ!タイチ!!太陽が沈むよ!」
太陽は確かに沈みかけている。
さっきはまだ夕方にもならないと思っていたのに、ずいぶん早い。
イツキの足は速い、イツキはボクの手をしっかり握って離さない。
ボクもイツキの手を離さないようにしっかりと握った。
心なしか、イツキの手を大きく感じた。
「イツキ、おまえ、なんでこんなに・・・」
不安を感じた。
イツキの足が速すぎて、ボクは一緒に走るのがやっとだった。
もし、今イツキの手を離せば、もうイツキに追いつけない。そう思った。
イツキの手を離したら、ボクはきっとひとりぼっちになる。
そして、日が沈む。
ボクはイツキの手をしっかりと握り直して、初めて辺りを見た。
草原は広い、もうずいぶん走ったのに、まだ端が見えない。
この草っぱら、こんなに広かったのか?
おかしいな、どこにも家が見えない。
家どころか、町や道路や、何にも見えない。
なにも、ない?
あるのは山と、湖と、林と、草原。
ボクはここに、どうやって来た?
イツキはどうやって、ここに来た?
ボクは初めてこの状況を恐れた。
「タイチ!はやくはやく!もっとはやく走って!!」
イツキがボクを叱るように叫んだ。ずっと年上の人に叱られたみたいだ。
「あれ?イツキ?」
イツキは実際、ボクより年上に見えた。
それどころか、ボクの手はイツキの手にすっぽりと包まれ、一緒に走っていたはずなのに、今はイツキに引っぱってもらっている。
「あれ?ボク、ボクは」
「タイチ、お姉ちゃんが引っ張ってあげる、頑張って走って!走って!タイチ!」
ボクの前にいるのは、大人の女性、長い髪をなびかせて、ボクの手をしっかりと握ってくれている。
そうだった、イツキは、イツキ姉ちゃんは、ボクのお姉ちゃんだ。いつも優しい、ボクの大好きなお姉ちゃん。
ボクはいつの間にか小さい子供になっていた。
「お姉ちゃん、ボクもう走れない、走れない、走れない!」
「タイチ!もうすぐ暗くなる、暗くなるよ、そしたらもう間に合わない、絶対に!」
「走れない、走れないよ!」
「お姉ちゃんはタイチを置いていかない。絶対に、絶対に!」
イツキ姉ちゃんは、そう叫びながらボクの腕をたぐりよせて、その胸に抱きしめた。
「お姉ちゃん!イツキ姉ちゃん!!」
ボクは泣いた。
怖かった。
この広さが怖かった。
沈む太陽が怖かった。
暗闇が怖かった。
お姉ちゃんがいなくなる。
ひとりになるのが怖かった。
でも、イツキ姉ちゃんの胸に抱かれているのが嬉しくて、
涙があふれて止まらなかった。
イツキ姉ちゃんはボクを抱きしめたまま、ものすごい速さで走った。
ボクにできることはただ、イツキ姉ちゃんにしがみつくことだけだ。
周りの景色は目にも止まらない速さで流れている。
その中に見覚えのある景色が浮かんでは消え、懐かしい顔、好きな人、嫌いな人、記憶にある人すべてが現れては消えた。
ボクの耳には、その景色の音や、その人たちの声が次々と聞こえて、そして消えた。
太陽はもう沈みかけ、空を真っ赤に染めている。
でも太陽の反対側は真っ暗だ。
星もない、ただの真っ暗な空だ。
草原はもう消えた。
あるのは赤と黒に色分けされた世界。
その赤と黒の狭間を、イツキ姉ちゃんが駆け抜ける。
ボクを抱きしめたまま。
ボクの体はもう赤ん坊だ。
ボクの目はもう見えない。
ボクは、ただ泣いていた。
でも、ゴウゴウと耳に突き刺さる激しい風音の中で、女性の声がはっきりと聞こえてきた。
「大丈夫、大丈夫よ、助ける、安心して、助ける、ワタシが、ワタシが助ける!」
助ける?
誰を、なぜ助ける?
ボクはタイチ。
ボクは、タイチ。
タイチ?それ誰だっけ?
とうさん、かあさん。
お姉ちゃん。
そうだ!お姉ちゃん!!
イツキお姉ちゃん!!
ボクの意識は無に溶ける。
疾風のように駆けるイツキの温もりを感じながら。
・
・
光を感じる。
光は、まぶたの裏に鮮やかな色彩を描いている。
目は開かないのに、とても明るいのは分かる。
誰かが泣いている。
男の人?わんわん泣いている。
誰かが笑っている。
女の人?泣いているようにも聞こえる。
ボクはゆっくりと目を開けた。
「意識、戻りました!!」
「大丈夫!もう大丈夫ですよ!!」
女性の声が聞こえた。
聞き覚えがあった。
「か、かあさん」
母さんは顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。
父さんは何か堪えるように天井を見上げている。
「かあさん、イツキ、イツキお姉ちゃんは?」
母さんと父さんは思わず顔を見合わせる。
「タイチ、お前なに言ってるんだ?お前、ひとりっ子だろ?それにイツキって、お前」
目を真っ赤にしながら、父さんが言った。
「イツキって・・お前を助けてくれた先生の名前だ。ほら、そこに」
父さんが指差す先で、イツキ先生が優しい笑顔でボクを見つめている。
その目は、少し潤んでいた。
「タイチ君、良かった。助かって、良かったわ」
それは、あの場所で聞いた声だった。
あの赤と黒の世界で。
速く走る世界 了
連載形式の短編集にも入っています。
そちらもご覧いただくと、うれしいです。