だって、幸せになってほしいから
そうして、カーディナがついに折れる時が来た。
その時の光景を、ルリィはいまだに覚えている。
『魔女にお願いするなら、床に頭をこすりつけてくれないかしら?』
ある日、カーディナは、それはもう性悪のかたまりのような笑顔で皇帝を見下していた。
今までさんざんな扱いだったが、平伏させることだけは言わなかったのに。
その要求をしたとき、カーディナのエスカレートがはじまることを父・ヒスイは察した。
だから、父が先に折れたのだ。
『おやめ、カーディナ。国の頂点にたつ者に、それはもっともしてはならない要求だし、誰かに見られてしまったら、国民を不安にさせてしまう』
『それ、今さらじゃない?
ねぇ、ヒスイ。本気で認めるのぉ?
コイツ、大事な一人娘をつまらない箱に押しいれようといているのよ? しかも、皇族に優秀な魔法使いの血液を混ぜたいだけのために』
『それでも、だめだ。
考えてごらん。
彼は皇帝だ。今までたくさんの屈辱を味わいながらも、これからさらにたくさんのリスクを負うことになってでも、頼んでいるんだ。
任せてもいいと思う』
ヒスイとカーディナは睨みあうような目つきで、見つめ合う。
『…………。……はいはい』
長い沈黙のあと、カーディナは叱られたヤンチャ坊主のような顔をして目を逸らした。
『まったく、意味もなく優しいんだから。そういうところが好きよ。
『今日のお願い』はそれでかまわないわね』
『あぁ。『今日のお願い』だ』
そうして、ようやくハイアグリン皇太子とルリィの婚約が成立したのだ。
だからこそ、皇帝陛下の落胆は凄まじいのだ。
その苦労を皇太子と、嫁の母親に汚されたのだから。
「なぜ……そんなことをしたんだ? ルリィを巻きこみ、長い年月をかけて人をバカにしたかったのか?」
「グラウディオのことは、ヒスイとルリィより遥かに下だけど好きだし、大事よ。
からかうと面白いし」
カーディナは『心外だ』といわんばかりに、腕を組む。けれど、すぐにその表情をおさめ、まっすぐ皇帝陛下を見つめる。
「私は、皇太子殿下に試験をしただけ。
どんなに魅力的な女性が現れても、正妻となるルリィへの配慮を忘れないのかどうか。
帝国の頂点になる者として、側室はいつかは迎える。だけど、真の妻を蔑ろにしたりしないか。
それを知りたかった。
結婚前から他の女とズブズブになる男なんかに、ルリィはわたしたくなかった。それだけよ。
ルリィ、あなたの箱を出して」
母に言われて、ルリィは自身の影に収納したものを出した。
たくさんの星と雪割草の花の意匠が施された宝箱だ。
「魔女と魔法使いは生まれつき、自身の影にその箱が収納されている」
ルリィは、この箱の中身は、わからない。
ヒスイとカーディナにいくら聞いても教えてくれない。
けれど、とんでもなくステキなものだという。
「その宝箱の鍵を持つものと出逢わないと、私たちは『抜け殻』に近い存在になったままなの。
グラウディオもわかるわよね。帝国にいる魔女も魔法使いも、そんな状態のしかいないし。
まぁ、言われたことはしっかりこなすから、そのほうがアンタたちはめんどくさくないでしょうけどね」
「……あぁ」
むしろ否定したら、カーディナは激昂していたかも。
『じゃあ、なんであんな時代があったのよ!』と。
つい最近まで、魔法を使う者たちは、人の道具同然の存在だった。
ルリィは歴史書で当時の状況を知ったが、あまりにひどい扱いに、人生で初めて知恵熱を出してしまった。
あんなできごと、ルリィならば言葉にできない。記せない。
本の作者たちのことを、尊敬するレベルだ。
だが、今は違う。
前スマラクト皇帝陛下は魔法を使う者たちに対する、権利条約を確立させたのだ。
彼は帝国だけでなく、世界をも変えた英雄となった。
スマラクト帝国は、今では両親が産休場所に選ぶくらい、いい国になった。
けれど、今も魔法使い・魔女の中には、暗黒色の確執は残している者もいる。
それが平和を壊す、大きな脅威のひとつとなっている。
「魔女と魔法使いは、この世界にとって異分子。
魔力が強いものは、行動の大きさで世界も揺らぐ。
だから、生まれた時の私たちの視界は色が奪われて、『白と黒と灰色』の世界なの。
なにもかもが変わらなくて、なにかを求める気力も奪われる。
それってね、アンタが想像する以上につまらない世界なのよ」
カーディナは肩にかかる髪の束をはらう。すると煌めく粒子が飛ぶ。
ふわりと浮かび上がり、皇帝陛下の胸に指をさす。
「グラウディオ、アンタはルリィの視界を一生、その三色で生かそうとしてんの。
政略だろうが、権力を見せつけるためだろうが、せめて、愛されて、幸せにはなってほしいじゃない。
それは間違いかしら?」
問われた皇帝陛下は、首を横にふった。
「間違い、ではないな。私も魔法を自由に使いこなせるのなら、皇太子の結婚相手にそうしていただろう」
皇帝陛下は、力なく笑う。
「その結果が、あれか……はは」
そういいながら、手で顔を覆う。
本当にたった一時間ほどなのに、何十年かぶん、歳をとってしまったかのようだ。
父が縋るように、ソファに座った。
ヒスイは口を押さえて、体をふるわせている。汗をかいているのに、顔は真っ青だ。
「お父さま。大丈夫ですか?」
「ごめん、すこし、だめかもしれない」
ヒスイは口から手をはなすと、顔を上げた。必死に毅然とした表情を取り繕っている。
「ルリィについての話は、後日で構わないかな。
いまはいろいろな判断をくだすのは、よく、ない、から」
いつもの穏やかで芯の通った声がふるえる。
皇帝陛下とカーディナはハッとした。
カーディナはヒスイの前に膝をつき、頬に触れる。
「ごめんね。帰ってきたばかりなのに、落ち着けなかったわね。
グラウディオ、部屋を貸して。
これでは箒に乗ったら落ちちゃうもの」
「いつもの客室を使え。いつでも使えるように用意されている」
「ありがとう。さぁ、ヒスイ。ルリィもいきましょう」
「はい」
皇帝陛下はいっしょに行かないらしい。
ルリィはとびきりのカーテシーをキメて、その場を去った。
☆☆☆☆☆☆☆
ふかふかのベッドの上で、カーディナとヒスイは穏やかな寝息をたてていた。
父は本当に疲れていたようだ。
風呂で体を清め、ベッドに体を倒した瞬間、ほとんど会話をすることなく眠ってしまったから。
両親を眺めながら、窓辺に置かれた椅子に座る。
ポケットに入れておいた。単語帳をとりだす。
一枚、めくる。
「赤」
黒。
一枚めくる。
「黄色」
白。
一枚めくる。
「青」
黒。
一枚めくる。
「緑」
薄い灰色。
一枚めく──ることなく、単語帳を膝に置いた。
窓の外をみる。
黒い空と白い星。月は見えない。
わからない。
影から宝箱を取り出す。
箱には鍵がかかっている。
これを開ける鍵は、箱とおなじように、生まれつき持っている人がいるそうだ。
魔法使い同士ではありえないから、相手は他種族、人間。
その鍵を持つもののそばに来たとき、呪いは解かれ、この世界の色を知ることができる──らしい。
その人と出逢えたら、感情も抑えることができなくなって、世界のすべてがひっくり返る。
私に、わかるのだろうか。
鍵を持つ者は一緒に生まれてくるわけじゃないしな。
死んでいたり、生まれてなかったりしたら……なんて、なにを期待しているんだか。私は。
皇室に入ったら、探しになんて行けなくなるのに。
ふたたび眠る両親を見つめる。
ルリィは、いや、生まれつき魔法を使う者たちは生まれてから、この世界に宿る『色』を知らない。
カーディナですら、この生まれつきの呪いを解くことができなかった。
何度、話を聞いても、信じられない。
カーディナも、ヒスイと出逢う前はルリィとおなじ世界にいたなんて。感情も出せていなかったなんて。
二十年ほど前、母が砂漠の国へ魔物の討伐に向かった。
討伐場所に向かう途中、興味本位で奴隷市場にきた時、突然、世界が色づいたという。
カーディナが初めて見た色は、陽の光の輝く白と濃厚なセピア色。
治安が悪い砂漠の国は、どこもそんな色をしているのだそう。
そこで売りに出されていたヒスイを見て、カーディナの感情は爆発したという。
初めてあらわにした感情は、『激怒』と『愛情』。
セピア色という色が、どんな色か調べても、ルリィの目にはすこし灰の混じる白にしか見えない。
激怒と愛情という感情が、どういう気持ちなのかも知らない。
「……う、うう」
「大丈夫よ。私が助けに来たわ」
父がうめき声をあげ、もがくように動き出した。ベッドがすこし軋む。母がぎゅっと父を抱きしめれば、また静かになる。
ヒスイは、傷だらけだ。体も心も。
だから、いつも深海色の外套を纏って体の形が分からないようにしている。
外套の下にある体には、最悪の禁呪が封印されている──らしい。
ルリィは幼い頃に見たことがあるが、美しい風景画だった。
その風景画は大人の体になると、伸びてしまい、ぐちゃぐちゃになる。すると封印が解かれ、あたりに災厄をもたらしてしまう。
だから、ヒスイは普段、少年の姿をとっているのだ。
禁呪の力が弱まる満月の夜だけ、本来の大人の姿になれる。
でも、体を隠す理由は、それだけではない。
奴隷として売り出される前にやられた傷が生々しく残っている。
心臓の変わりにとろみのある質感の石が埋めこまれていたり、手指はすべて違う種族のものが移植されていたり、とにかくひどい状態だ。
だから、普段は、絶対に外に出てしまう手を出すことすらしない。
いたずらに遊ばれてしまった悲しい体なのよ、母はいつも切なそうにする。
だから、『それに関わった奴らには徹底的に復讐するの』、とつけ加えるのがお約束。
どんな目に遭ってきたのかはわからない。
けれど、心の傷をカーディナやルリィ見せつけたりしない、穏やかで、とても強く、とてもとても優しい父親だ。
ルリィは両親に愛されている。
それがこれからも支えになる。
どこでだって生きていける。
「ご迷惑をかけたのだから、皇帝陛下の利益になる結婚をしなければなりませんね」
皇帝陛下の姿、あの落ちこんでいる姿を思い出すと、胸が痛む。
ルリィに良くしてくれた大人のひとりだ。
ぜひ、彼の愛する国のために、力を尽くしたい。
けれど、ハイアグリン皇太子との婚約は、なにがあっても絶対に嫌だ。
まだ婚約者の決まっていない皇子がいるなら、その人に嫁ぎたい。
『婚約者が決まっていない』、『その中で一番年上』という条件に当てはまるのは、まだ十歳になったばかりの皇子。
ルリィは頭を抱えた。
八歳差、出戻りの、しかも、魔女が相手なんて、かわいそうすぎる。
どうしよう。一応、話にだしてみようか。でも、そのまま話が進みそうだし。
ルリィは、今夜は眠れそうにないかもしれない。