治癒の代償
右手の痛みが、現実を肯定していた。
じん、と遅れてくる熱。
皮膚が裂けた感覚。
あの白い部屋で起きたことが、全部、現実だと突きつけてくる。
———と、思った瞬間。
「ええ、そうですね——前回よりも、随分まともに帰ってきたようで安心しました」
背後から返事が来て、渇探流は飛び上がるほどに驚いた。
ガバリと振り向く。
そこには———当たり前のように、ウィルフレッドが立っていた。
「なっ……ぅ……えっ……」
口をパクパクと開閉させる渇探流を見て、ウィルフレッドは冴え冴えとした美貌に、ニコリとした笑みを浮かべた。
「ダメじゃないですか。護衛もなしに出かけられては」
「俺の意思じゃないんだが!?というか、なんっ、おまっ、俺の部屋に入って来れてるんだ!?鍵は!?静脈認証は!?」
「それは、私は護衛ですから。渇探流君の部屋には、私も入れるようになっているんですよ」
「なんだそのプライバシーの無さは!!地獄仕様じゃねぇか今すぐ変えろ!!」
「無理です」
スルリ。と、ウィルフレッドは渇探流の火傷した方の手を掴んで来たので、渇探流はその手を反射的に振り払おうとした。
振り払おうとしたが、ガッチリと手首を片手で簡単に拘束されて、ウィルフレッドを睨みつけるにとどまるしかなかった。
「離せ。不愉快だ」
「ダメです。治療をしないと」
「このぐらい、舐めときゃ治る」
「……なるほど?」
ウィルフレッドのネットリとした声音に、渇探流は己がいらん事を口走ったことを悟った。
「まっ、待て!!舐めときゃというのは言葉のあや、で———!!」
ベロリ。と、掌を舐められて、渇探流の口から悲鳴が出た。しかも普通に痛い。なんの嫌がらせなんだこれは。
渇探流が残った片手でウィルフレッドの頭を押すが、やはりビクとも動かない。そのまま傷跡を舌で辿られて、渇探流は怒号を上げた。
「いてぇしキモいから止めろこのバカアホウィルフレッドー!!」
「舐めておけば治るんでしょう?」
「治るかバカタレ!!むしろ悪化するわバカタレ!!とにかく離せ!!治療なら自分で出来る!!」
「……お遊びは、これぐらいにしておきましょうか」
「…………はっ?」
ウィルフレッドは渇探流の掌から唇を離すと、その形の良い唇から———名状し難い、呪文のようなものを紡ぎ出した。
「…………はっ?」
渇探流は、『士道さんが治癒の魔術も使えるし』と言っていた、他の世界線の俺の言葉を思い出す。士道がしばらく呪文のような何かを唱えていると、みるみるうちに渇探流の火傷跡は塞がり、そこには怪我の痕跡一つ残っていない、綺麗な手が出来上がった。
「……これで、大丈夫……です、ね……」
「……おっ、おい、ウィルフレッド?大丈夫か?」
白い顔を更に青白くさせて、ウィルフレッドは微笑む。その額には、一筋の汗が流れていた。
渇探流は今度ことウィルフレッドから手を取り戻すと、無意識にハンカチを取り、ウィルフレッドの額の汗を拭ってやった。ダン・ラリーもよくフィールドワーク時、汗だくになっては「目に汗が入りましたプロフェッサーアァ!」と、泣きついてきていたから。
「……本当は、もう少し壊れてからの方が観察し甲斐があったんですが」
「はっ?」
「いえ……心配して、くれるんですね」
「……んんっ!?いやっ、これはっ、ちがっ」
「嬉しいです」
ガシリ。と、再び腕を掴まれて、渇探流の危険信号が急速に点滅を始めた。
自室に二人きり。相手は、変態という名の護衛。
となれば、嫌な想像をすることは必然で。
渇探流は必死に、この状況を打開するべく、頭を回転させた。
「そっ、そうだ!!ウィルフレッド、お前、俺のスマホに何か仕込んでやしないか!?」
「…………………仕込んでますけど」
「仕込んでるんかーーーい!!」
苦し紛れに出した話題がクリーンヒットし、渇探流は大阪人ばりのツッコミを披露してしまった。
「……あの部屋で、何を見ました?」
しかし、ウィルフレッドの次の言葉で、渇探流は息を呑んだ。
声が、酷く冷めたかった。
「…………………何も、見てない」
渇探流は雰囲気が変わったウィルフレッドに対してどう答えるかを考えた後、沈黙を選んだ。
何も見ていないと答える渇探流を、ウィルフレッドは注意深く観察する。それでも渇探流は、視線を逸さなかった。
———心理学対抗ロール。ウィルフレッドは医里渇探流に対してだけ、心理学99。
「なんだそのぶっ壊れ数字はあぁぁぁぁぁ!!」
「嘘はつくだけ無駄ですよ、渇探流君」
通りすがりのダイスの女神によって、ウィルフレッドの空気が少し和らいだ。渇探流はこれ幸いと腕を取り戻そうとして———ガッシリと掴まれた手は、ピクリとも動かなかった。
「……見るには見たが、言いたくない。それより、手を離せウィルフレッド」
「ねぇ、渇探流君」
「なんだ」
「治療費、頂かなくちゃなりませんよね?」
その言葉を聞いて、渇探流の顔から血の気が引いた。
「い、いくら払えばいい?」
「ご冗談を。わかってらっしゃるくせに」
ウィルフレッドの手が、渇探流の手を這い、ゆっくりと手首をなぞる。
ゾゾゾゾッ。と、渇探流の世界に悪寒が———いや、快感が、背筋を駆け抜けていった。
———まずい。このままだと、非常にまずい。
しかし、突然、胃が、ひっくり返るように波打った。
嫌な汗が、背中を伝う。
——次の瞬間、我慢できなかった。思わず空いている方の手で、渇探流は口元を抑えた。
「……ああ、『副作用』が出てしまいましたか。ちょっとやり過ぎましたかね?残念です」
「……ぐっ……」
渇探流はウィルフレッドが離した己の手を使い、そのままウィルフレッドを押しのける。そしてそのままトイレに駆け込み———吐いた。
「大丈夫ですか?渇探流君」
とても、とても優しい声音で、ウィルフレッドが渇探流に話しかける。渇探流の背筋を撫でる手つきも、声音も優しいものなのに———渇探流は恐怖で、カタカタと手が震えた。
渇探流の体調が急変しても、慌てないウィルフレッド。まるで、まるでこれでは———おもちゃが壊れなければそれでいいと、そう思っている子供のように、渇探流は感じた。
しかし、胃の中を空っぽにする頃、渇探流はその恐怖心を心の奥底の方へと押しやった。
ウィルフレッドに、怯えるな。戦え。カトゥール・ウェンライト。
渇探流はげっそりとした表情で吐瀉物を流すと、手を貸そうとするウィルフレッドを振り払い、洗面所で顔と手を洗う。
どう言ったら、ウィルフレッドが俺の言うことを聞くのか。
渇探流は顔を洗いながら考えた。考えた結果———屈辱的だが、下手に出てみることにした。
「ウィルフレッド……俺は、疲れてしまった。手の治療は素直に礼を言う。ありがとう。だが、今は少し、寝かせてくれないか?」
「添い寝しますよ」
ここで渇探流はカチキレそうになったが、手の治療をしてもらったのは事実なので、ぐぐっと我慢した。
「……頼むよ、ウィル……」
「ウィッ……!?」
ボンッ!!と、ウィルフレッドの顔が赤く染まった。今の今まで、愛称で呼ばれたことなど無かったのだ。それが、初めての愛称呼び、プラスして、懇願するような瞳に、ウィルフレッドは一瞬で陥落した。
「……し、仕方ないです、ね……今回は、渇探流君の体調を優先します……」
「そうか」
渇探流はこれでダメだったら迷わずグロック19をぶっ放そうと思って置いていた手を、タオルへと伸ばした。
そうしてウィルフレッドを見送った後、渇探流がとった行動はもちろん、睡眠などではなく———このままでは、俺も『壊れる』という、恐怖心から、渇探流は。
「……もしもし?『何でも屋皆吉』か」
皆吉愛生に、連絡をした。




