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夫が十歳の姿で帰って来た

作者: 真咲縄

「これが、俺の未来の妻だって?」


 形の良い眉をくいっと上げ、体に合わない服を裾をまくって無理矢理着ている少年は私を無遠慮に眺めた。翡翠をはめ込んだ瞳、ぼさっとした金髪。背丈は私の胸より少し低いほどで、格好良さよりも可愛さの勝つ年齢ではあるが、ただ可愛がるには不遜な態度だった。


「すみません、ブリシアド夫人。我が隊長は…十歳の時の隊長と入れ替わってしまったようなのです」


 隣で委縮している顔には見覚えがある。確か、彼は夫……彼の言が確かならば、目の前の少年の未来の姿、ナタリオ・ブリシアドの部下だった筈だ。王国で魔法士団の隊長を務めるナタリオは、役職柄危険な任務に向かうことも多く、ある日は魔物の粘液まみれで帰宅したこともあるし、ある日は「変な魔法を食らった」と猫耳をつけて帰って来て、丸一日そのままだったこともある。

 が、しかし。


 ナタリオの意識や記憶が大きく変化したことはなく、私を見て誰だかわからないなんていうのは、初めてのことだった。


「夫は、元に戻るんでしょうか?」

「隊長は消える寸前、何かを思い出したように『三日で戻る』とおっしゃっていました」


 ナタリオは忘れていたのかもしれないが、現在の彼の記憶にも、入れ替わった時のこと、三日で元に戻ったということも残っているらしい。何故こんな大切なことを報告しないのかという詰りは三日後に取っておくとして、問題は目の前の少年だろう。


 私とナタリオは二年前……十八の時に結婚したが、お互いに恋愛感情があったわけではない。ナタリオは魔法士の仕事に従事したいようだったし、私は王宮管理の書庫で魔法書一級司書としてうまくやっていた。魔法という共通の興味関心と、両者の家庭がどちらも伯爵家であること、同年代であることなど。

 話を持ち掛けたのはナタリオの方だったが、要するに利害の一致。貴族としての体面、自分のやりたいことを考えた結果の婚姻である。


 恋愛結婚ではない以上、家庭内で発生するのは甘い睦言とは程遠い、仕事の話ばかりである。やれ新しい魔法書の分類がどうだの、やれ魔物の使う魔法は案外利に適っていただの。

 ナタリオの少年時代の話なんて聞かなかったし話されなかった。どう接していいのかわからない。


「ナタリオ、私の名前はシルビア。シルビア・ブリシアドよ。貴方の未来の妻。貴方からすれば赤の他人で居心地は悪いかもしれないけれど、三日間共に暮らすことになるわ」


 迷いつつ、結局他人行儀な話し方を選択してしまう。

 ナタリオは今でこそ頑強な魔法士だが、現在の彼はたった十歳の男の子。知らない世界に投げ込まれ不安で仕方ないのだろう。強気を装い、自分を少しでも大きく見せようと粗野な言葉を使う。視線は警戒で満ちており、頭を撫でようものなら噛みつかれそうな勢いだった。私は子供を慰めたり励ました経験はなく、無難な自己紹介以上の会話を思いつかなかった。


「一応、三日分の隊長の休暇申請を提出しておきました。それと…その、話を聞いた王宮の司書長が、夫人の業務も三日休みにすると」


 つまりは、三日間子供の面倒を見るように、というわけだ。

 世話をすることに自信はないが、私も小さな子供を置いて仕事に出るのは不安だったので有難いことだった。


「そうですか。連絡、ありがとうございます」

「僕はまた明日、様子を伺いにお邪魔します。それでは」


 礼儀正しくお辞儀をした夫の部下は、玄関口からそそくさと立ち去った。

 まずは気合いを入れ、不安でいっぱいの少年に向き直る。


「この家は改築をしているから、大体の内装は変わらないと思うけど一応部屋に案内するわね」


 ナタリオが屋敷を継いだ後、私が嫁ぐ前に大きな改築を行ったと聞いている。十歳のナタリオが住み慣れた家と同じ部分もあれば、違う部分もあるだろう。

 二階に繋がる螺旋階段も、今の彼は一段飛ばしで上がるのに、目の前のナタリオは一段ずつ上っていく。なんだか微笑ましい。


「ここが貴方の部屋よ」


 ナタリオの部屋に入る経験は片手で数えるほどしかない。彼と顔を合わせるのは帰宅を迎え入れる為の玄関か、食堂が殆どで、お互いプライベートな場所には近寄らなかった。


「ああ」


 小さな手でドアノブを掴み、ゆっくりと開けるのを見守る。

 装飾のあまりない、簡素な造り。奥には寝台がひとつ、大きく開いた窓と、予備の魔法の杖。小さな本棚、机とソファ。古風なクローゼットも見える。


「服は貴方の昔の物が残っているはずだから、クローゼットを見てみて。もしもなかったら、昔からいる使用人に聞くか、何か買ってきましょう」


 興味深そうに観察するナタリオにどんな言葉を告げれば良いのかわからないが、最低限の世話は果たしたはずだ。赤の他人がずっと側についているのもストレスになるだろう、と彼を一度部屋において出ていくことにする。

 現在のナタリオがいないというのに、勝手に彼の部屋に入ったことが落ち着かなかったのもあるが。


「私は隣の部屋にいるから、私に用がある時はノックして頂戴。使用人の方が都合が良かったら、そこのベルを鳴らして」


 ナタリオを残しドアを閉めようとしたところで、彼にドレスの裾を掴まれる。


「一緒の部屋じゃないのか?」

「……」


 頭を抱えたくなった。

 仲睦まじい夫婦像の代表は部屋の共有だろう。しかし、ナタリオと私の間に発生する空気感は恋人のそれではない。一応、お互いの個室とは別に、共用の寝室もあるにはあるのだが、結婚式の夜に共に爆睡かまして以来、足を踏み入れてさえいない。

 避けていたわけではないが、式後、ナタリオは突然発生した魔物の群れへの対応に呼び出されてしまったし、一週間の遠征が終わった後、ナタリオ達が持ち帰った魔物の情報を整理するのに私も忙しくなってしまった。


 結局、睡眠時間に余裕が出たのは式の後一か月以上経った頃で、お互いの眠る時間がバラバラなため、それぞれ個室で寝ることが板についてしまっていた。子供はできずとも養子を迎えれば良いと楽観的に構えていたこともあり、今の今まで別室で寝ている。「おやすみ」と挨拶くらいはすることもあるが。


 けれど、恋愛結婚ではないドライな関係性を目の前の子供に赤裸々に語るのは気が引けた。

 貴族として育てられたナタリオとて、貴族の結婚がどういうものかは理解しているはずだ。しかし、まだ夢を見ることだって許される年齢だろう。私も、遥か昔の朧げな記憶では、白馬に乗っかった男が自分を好きだと熱烈に口説いてくる夢を見たこともある。成長するにつれて、憧れの対象が白馬男ではなく魔法書にすり替わっていったが。


 夢は、徐々に現実に馴染んでいくもの。

 私が少年から奪っていいものではない。


 長い逡巡の挙句、私はギリギリ嘘ではない答えを口にした。


「それぞれの個室とは別に、寝室もあるのよ。仕事が忙しい時は個室で寝ているけど」

「なるほど」


 なんとか誤魔化せたようで安心した。今度こそ、私は扉を閉め、自分の部屋に戻る。

 私の部屋はナタリオが気を利かせてくれたのか、いくつもの本棚が並んでいる。結婚してまもなくは空だった棚も、私好みの本で埋まってきている。流石に重要な魔法書は個人所有を禁じられているので保管していないが、手元に本があり、いくらでも見られるというのは幸せな空間である。

 仮眠用に備え付けられたベッドを常用しているのはご愛嬌だ。


 仕事もない、一人の時間。

 気になることは多々あるが、子供の彼を問い詰めても仕方がない。読もうと思って放置していた一冊の本を手に取り、読書にふけることにした。もとより、今日はそのつもりだったのだ。


 しかし、十ページと進まない内に、私の部屋の扉がノックされる。


「シルビア」


 呼びなれない、若干つっかえた高い声。


「どうぞ」


 小さな訪問客を出迎える。彼はクローゼットの奥底にしまっていたらしい昔の服を着用していた。ナタリオは物欲こそ薄いが、その本質は一度使ったものを中々捨てずに使い続ける点にある。子供時代を懐かしむための装置としてなのか、或いは自分が入れ替わることを覚えていて残したのか、自分の子供に着せようとしていたものかはわからないが。


「本が、こんなにたくさん…」


 呆気にとられ、ぽかんと本棚を見上げるナタリオを見てはっと気づく。


「悪いけど、未来の本は見せられないわ。この入れ替わりが一体どういうものなのかわからないけど、なるべく過去を変えてしまいかねないことは避けたいの」


 ここ十年で魔法も発展している。

 シルビア自身のことはともかくとして、十年先の魔法をナタリオが知ってしまえば、国、あるいは世界の歴史が変わりかねない。危険を感じ取り、読んでいた本に栞を挟んで閉じる。


「シルビアは、魔法書を読むのが好きなのか?」

「ええ。そうね、魔法書を読むことも、魔法書を人に読んでもらうのも好きなの。本を分類して、整理して、人々が得たい情報をすぐに手に入れられるよう、並べる。そんな仕事もしているわ」


 インクの香り。紙の擦れる音。全て私が愛した物だ。慈しみをこめて本の背を撫でる。


「魔法…」


 ぽつり、とナタリオが呟く。

 魔法は、私と彼を結ぶ興味関心の共通項。少年時代のナタリオが既に魔法士を志していたとしてもおかしくなかった。


「興味があるのなら、十年以上前の本を探してきましょうか?」

「いや、いい。俺は文字を読んでいると眠くなるんだ」


 変わらない。そしてこれが、本気であることも私は知っている。結婚前、私が軽い気持ちで進めた本を読もうとしたナタリオは見事に夢の中に旅立っていった。本の虫にとっては信じられないことだが、世の中にはいろんなタイプの人間がいる、というわけである。


「それより、貴女と話をしたい」


 ずいっと寄ってくる瞳には、好奇心が浮かんでいた。

 この目を私は何度も見たことがある。ナタリオは本を苦手とするが、決して魔法知識に関心がないわけではない。知識の吸収方法を文字ではなく口頭に求めるだけで。

 間違いない。

 この時からナタリオは魔法を愛し、魔法に魅せられていた。


「俺が、魔法に理解のない人を伴侶にするわけがないと思っていたが、勘は当たっていた。シルビア、貴女は俺と違って実践形式ではなさそうだが、魔法を好んでいるだろう」


 ナタリオが私と魔法に関して対話を望むことは初めてではないが、こうも正面から欲せられるのは初めてで、心がくすぐったくなる。


「いいわ。けれど、ここ十年の魔法に関しては話さないから」

「ああ、それで構わない。俺が気になっているのは、魔物に対する攻撃魔法なんだが─」


 探究心は冷めやらぬようで、話は攻撃魔法から杖の管理方法、防御魔法、はたまた民間で使われる小さな魔法道具の話にまで及んだ。

 途中で夕食や風呂、寝る準備を挟んだが一秒でも惜しいというように、貪欲に質問を繰り返した。私もなるべく応えたし、私の方が実践的な事柄には疎いため、質問をすることもあった。


「俺は将来、矢張り魔法士になっているんだな」


 ふと、質疑応答の合間に彼はしみじみと言う。

 部下の話や自分の部屋に配置された情報から読み取ったのだろう。


「そうね。貴方は立派な魔法士よ」


 適当に相槌を打つと、彼の表情は少し曇った。


「しかし、魔法士は危険が伴う。現に、今の状況があるわけだ。三日間で戻って来られると聞いているとはいえ、シルビアを未亡人にしてしまう可能性はある。今回は上手くいっても、次も、その次も、安全に帰還できるとは限らない」


 どうやら、会ったばかりの私を心配してくれているようだ。

 特に彼は愛し合っていると信じているようだから、尚更だろう。


「ナタリオは帰って来るわ」


 小さな子供に向けて、言葉を用意したわけではなかった。自分でも無意識に考えていたことが、口をついて出る。


「彼は強いもの。好奇心が強くて魔法に対してはうっかり近づき過ぎちゃうところがあるけれど、一度だって自分の血で汚れて帰ってきたことはないのよ」

「──」


 彼は、仕事が終わればいつだって。

 まっすぐ、この屋敷に。私のいる、此処に帰ってくる。


「信じて、いるんだな」


 聞きなれた、けれど普段より高く、幼い声。

 信じている。改めて言われると気恥ずかしいけれど、確かにその通りだった。


「ええ」

「……」


 自然と漏れ出た笑みに、ナタリオは目を見開く。


「初めて笑っているところを見た」

「そ、そう? ごめんなさい、あまり子供に慣れていなくて、表情が硬くて怖がらせたかもしれないわね」


 魔法書の書庫を訪れるのは勿論全員大人であるし、私には兄が一人しかおらず、自分よりも年下の子供と交流する機会はなかった。


「俺は、周りから大人びているってよく言われる」


 むすっと頬を膨らませ言外に子供と言われたことに不服を申し立てるのが可愛らしい。思わず更に笑ってしまい、膨らんだ頬をつつく。柔らかく、弾力のある頬に驚いている内に、また子供扱いしたことに腹を立てたナタリオの頬がパンパンになっていった。


「ごめんなさい、揶揄いすぎたわ。貴方が可愛い反応をするものだから、つい」


 謝罪と共に頬は萎んでいき、元に戻ってくれた。


「はあ。もう眠いから早く行こう」


 私より高い体温の手が私のものを握る。まるで、それがごく当然だとでも言うように、長らく使っていなかった寝室の扉を開いた。

 事実、この少年にとっては自然なことだったのかもしれない。

 ただの添い寝だ。結婚式の夜さえ、私が朝から準備して疲れていたのに配慮して、手を出して来なかった男である。いくら夫婦でも、子供相手に構えることがまずおかしい。


「おやすみ」

「ああ、シルビアも」


 安心しきった顔。どうやら、この屋敷の居心地は彼にとって悪くないものとして受け止めてもらえたようだ。どちらが先ともわからぬまま、私たちは夢へと沈んでいった。


 翌朝。

 目が覚めると、まだ幼い少年がすやすやと寝息を立てていた。

 まるで天使のようである。起こさないよう、そうっとベッドから出ようとして、左手を固く握られていることに気づく。赤子が母親を求めるような幼い仕草である。仕方ないのでナタリオが起きるまで待つことにした。


 あまり間を開けず、ナタリオも瞼を開ける。


「ここは……ああ、そうか。おはよう、シルビア」

「おはよう」


 数瞬の間に、彼は昨日の出来事に思い至ったらしい。彼は文字を追うよりも体を動かして記憶するタイプというだけで、頭の回転の早さは大人顔負けである。


「顔を洗って、着替えていらっしゃい。朝食の準備もそろそろ済む時間よ」


 近年になり、使用人の雇用形態にも幅が出てきたが、歴史のあるブリシアド邸では使用人はあまり主人の前に顔を出さない。執事やメイド長は例外として、他の細々とした雑用をこなす使用人は夜に仕事を済ませ、主人が起きる時間になると引っ込む。伝統的な雇用形態を保っているというわけだった。

 そのため朝は人の気配を感じない、やや寂しい時間になっていた。

 今日は、彼がいるが。


「今日はご飯を食べたら庭に行きたい。シルビアもついてきてくれ」


 わくわくと強請られる。断る理由もなく、私は機嫌よく頷いた。


 ブリシアドの庭は、魔法の試し打ちができるよう、広々とした空間が確保されている。緑色の芝は瑞々しく、万が一魔法を打った拍子に転んでも怪我はしないだろう。庭の片隅には改築の際に付けられた四阿があり、読書することもできるようになっている。個室の本棚が埋まったら使うように、と四阿の側には書庫にもなる小屋が配置されていた。

 幼いナタリオのいた屋敷にはなかっただろうそれらを、彼はじっくり観察していた。


「今のナタリオも、私と魔法の話をするのが好きなの。だからなのか、本人はちっとも読まないのに、私が魔法を思う存分楽しめる環境を作ろうとしてくれているのよ」


 尊重されている。自分の魔法の知識を求めてくれている。

 そう感じる時のこそばゆさ、嬉しさは言葉に表せない。


「……きっと、俺はそれだけじゃ──いや、なんでもない。俺は大人になっても魔法ばかりな生活を送っているんだな。シルビアも巻き込んで」


 なんだかちょっと拗ねている様子だったが、彼に表情の真意を問う暇もなく、持ち出した杖を掲げる。

 ナタリオの杖からは光が飛び出し、色とりどりの花びらが舞い降りてきた。


「わあ……」


 奇麗。空から降ってくるそれらは、地面に辿り着く前に消えてしまう。きっと幻覚魔法の類なのだろう。これほどの量、規模を操るのは相当な実力が必要になる。


「すごいわ! とっても奇麗。この光景をずっと見ていたいくらい」

「昨日はシルビアに色々してもらったから、俺からの礼だよ。幻だけどね」


 まるで悪戯が成功したかのように、にっこり笑ったかと思うと、彼は更に杖を振る。

 すべての花びらが一瞬動きを止め、鮮やかな蝶に早変わりした。落下していたものが羽ばたき、太陽に向かって駆け上がる。最後は儚く光の粒となっていく様は、絶対に幻覚でないと見られない非日常的な光景だ。


「なんて、美しいのかしら」

「本当は、攻撃魔法の方が得意なんだけど。幻覚魔法は敵を錯乱させるのに有用だから、練習したことがあるんだ」


 戦のことはわからないが、不思議な気分だった。

 ナタリオはその実直な性格を鑑みて、敵に正面から切り込んでいくタイプだと思っていた。


「貴方が幻覚魔法を使うだなんて知らなかったわ」

「ちょっと前までは、嫌いだったかな。こういう魔法って、卑怯なやり方に見えるだろ? でも、今は違う。どんな魔法を使っても、無傷で帰るのが一番なんだ」


 ──それは。

 昨夜の会話がきっかけだろうか。


「ええ、そうね」

「と言うことで、今日は幻覚魔法を練習するよ。是非楽しんでいって。何か見たいもののリクエストがあれば教えてほしい」


 それからは、ナタリオの盛大なショーの開幕だった。

 私には魔法の才能がなく、実践的に習ったことはないけれど、それでも彼が同年代と比べてずば抜けて魔法が上手いのがわかる。

 甘いお菓子を降らせてもらったり、私そっくりの幻覚が動き回るのを笑って眺めたりした。


 時間はあっという間に過ぎ、魔力も底を尽きたナタリオと屋敷へ戻る。

 日は傾き、空はオレンジ色になっている。

 司書の仕事は緊急の際を除けば早く終わるため、ナタリオに直接「おかえり」と言うのは私の習慣になっていた。自然と足が玄関に向きそうになる。


 そんな私を見咎めてか、ナタリオは無言で握っていた手を少し強めた。


 と、その時。

 客人が屋敷を訪れた。

 約束通り、ナタリオの部下が彼の様子を見にやって来たのだ。


 玄関を開けて迎え入れようとしたが、彼も帰る家がある。手短に済ませたいとのことだったので、玄関で話を聞くことになった。


「随分懐いていますね、隊長……」

「魔法のことで意気投合したんです」


 私の手を握り締め、全く離れようとしない彼が意外だったのか、微妙な顔をしている。


「コホン。今日は新しい情報を持ってきました。司書長が、相当古い他国の文献から、似た魔法の使用形跡を見つけたようです。様々な偶然が重ならないと発動しないもので、今回の隊長は運が悪かったようですね」


 魔法馬鹿の男は、自分が体験できてひょっとすると幸運に思っているかもしれないことは黙っておく。ちなみに私も自分が同じ魔法にかかったら驚き、困惑すると思うがちょっと…いや、かなり嬉しい。戻れるという保証付きであるなら。


「過去を変えたいと願った天才が編み出したものらしいのですが、彼は魔法には成功しても過去を変えることには失敗したようです。どうも、入れ替わり期間は記憶の保持が困難らしく……過去に飛ばされた隊長は現在自分が何者かもよくわかっていない可能性があります。未来に飛ばされた方は……過去に戻り次第、急速に忘却が始まるようです」


 魔法も万能ではない。

 むしろ、一説には世界の法則に抗えない道具として描かれる。過去は変えられない、という法則に則り、今私の手を掴んでいる少年は私のことを忘れる。ここで行ったことも、全て。


「教えていただきありがとうございます」


 また明日来ます、という律儀な彼に礼を告げ、私とナタリオは玄関から離れた。賢い少年は、今の会話を正しく理解したのだろう。俯いていて、表情がわからなかった。

 何か声をかけたかったが、彼の握る手は今適当な慰めを求めてはいないように思える。


 沈黙のまま夕食を摂り、昨日と同じように眠りについた。


 次の日。最後の日。

 今日の日付が変わる頃、きっとナタリオは入れ替わる。

 目覚めてすぐ見るものが固く握られた左手と天使の寝顔なのも昨日があったので随分落ち着いて対処できた。


 昨日の落ち込み具合が嘘のように、ナタリオは目覚めるとてきぱき朝の支度を始める。


「おはようシルビア」

「おはよう?」


 吹っ切れたのだろうか。たった二日、今日も入れると三日の出来事だ。

 これから数々の思い出を作るナタリオにとって、きっと大したことではない。すくすく育ち、未来で私と出会ってほしい。

 安心して彼を見守るモードに入ったのだが、次の言葉で絶句した。


「俺は今から過去に戻るのに、もう一人連れていけないか、新しい魔法を作ってみようと思う」


 もう一人。

 流石に魔法以外のことはてんで察しが悪いと司書長に嘆かれる私であっても、今のが私を指していることくらいはわかった。というか、他にナタリオが接した相手は彼の未来の部下と数人の使用人だけだ。


「ちょ、ちょっと待って」


 聞き捨てならない。

 子供のお遊びだと笑っていられないことは、昨日でわかった。彼は天才だ。幻覚魔法以外の腕前がどのようなものかは知らないが、それでも危機感は抱く。

 魔法と言うのは不思議なもので、道を究めた魔法研究者が必死に理論を組み立て作った魔法も勿論あるが、子供──歴史書には神童と載るような人物が、想像力と底知れない野心、無知ゆえの突飛な試行錯誤で生み出したものも数多く残っている。


「シルビア、悪いが貴女の制止は聞けない」

「……へ」

「たとえどんな代償を払わなくてはいけないとしても、俺は試すよ。だって、俺は貴女を必要としている。この時代の俺よりも、ずっと」


 心臓がおかしな音を立てた。


「今の俺と、夫婦として上手くいっている訳じゃないんだろう」


 なんで。どうして。いつから。

 彼に誤魔化していた真実に気づいていたというのか。

 私とナタリオの実態は、良く見積もって親友止まりだろう。それを不満に思ったことはなかった。私も彼も、魔法に打ち込んでいたから。好きな物の話ができて、お互いを尊重し合っている。子供のナタリオには良く映らなくても、私は満足していた。


 それとも。

 子供の彼が不満であるならば、大人のナタリオも不満があるのだろうか。

 彼らは時代が違えど、同じ魂を宿す同一人物であるのだから。


 どくり、どくりと嫌な跳ね方をする心臓を抑えるのでいっぱいいっぱいだ。


「俺なら、シルビアを置いて過去に飛ぶような間抜けにはならない。貴女の信頼に甘えることしかできない馬鹿にも」


 目も眩むような嫉妬。

 ナタリオの感情の奔流が翡翠の瞳を通じて伝わってくる。

 唾を飲み込み、何も言えないでいる私を放置し、彼は寝室から出て行ってしまった。


「っ、は、はあ」


 硬直していた体を解すよう、浅い息を整える。

 子供だからと舐めていた。彼の観察眼はずっと鋭くて、私の薄っぺらい言葉では誤魔化されてくれなかったし、予想していた以上に私のことを気に入ったらしい。

 気に入った、なんて生易しい言葉で表現できるような眼差しではなかったかもしれないが──。


「あの子を止めなくちゃ」


 制止は聞けないと宣言された。だからって、私もナタリオの言うがままに過去に飛ぶことはできない。


 ──どうして?


 どうして、自分はこんなに焦っているのだろう。子供のナタリオのお願いを聞けないと、迷いなく決断しているのだろう。

 それは、それは。


 脳裏に浮かぶのは、一人の男。

 癖のあるブロンドに、翡翠の瞳。二十歳にして魔法士団隊長。

 魔法馬鹿な私の夫。


「ナタリオ」


 廊下に飛び出す。呼び止めた小柄な少年は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「私は、この時代のナタリオを待っていたいの。おかえりって出迎えて、いつもみたいに仕事であった話や最近研究されている魔法の話をする時間が楽しいから」


 目線を合わせるよう、軽くしゃがんで向き合う。


「私は、私の夫であるナタリオのことを愛しているのよ」


 本人が不在の時に自覚するなんて。

 頭の中で司書長が「これだから魔法のこと以外察しの悪いお前は」とため息をついた。我ながら、当たり前の日常を享受しすぎて、自分の心に目を向けていなかったことには呆れる。


「俺のために、この時代の俺を捨ててはくれないんだな」

「貴方の気持ちに報いることができなくて、ごめんなさい」


 手を握られる。

 暖かい、子供の手だ。

 固くて骨ばった、成人した男の手とは違うそれを傷つけないよう握り返す。


「でもきっと、貴方の世界にも私はいるわ。私は魔法書のことしか興味がなくて、どん臭いし、察しも悪いけれど、それでも良かったら、声をかけて頂戴」


 記憶は消えていく。

 ナタリオにも私にも、この会話が意味をなさないことは知れていた。けれど、それと同時にこんな話をしなくとも、未来で共に在れることも証明されている。


「……ああ、勿論。絶対に逃がさない」


 随分熱意が籠っている。

 逃がさない宣言をされたらしい過去の私へ、こっそりエールを送っておく。

 部下の話によれば、ナタリオは消える前に三日間だと告げたらしい。つまりは、殆ど記憶を保持することができなくても、何かの拍子に思い出す可能性もゼロではない。


「ふ、はは」

「どうしたの?」


 緊張の糸が切れたのか、ナタリオは笑みを零した。


「いや、愛の宣言を一番に聞くのが俺なのは、こっちの世界の俺にとって大層不本意なことだろうと思って。良い気味だ」


 この世界の自分に、当たりが強い。


「そうなのかしら」

「これは確信していることなんだが、こっちの世界の俺も相当シルビアに入れ込んでる。初め俺は魔法に理解がある人を伴侶にするだろうと予想を立てたが、魔法の話をしたいからという理由だけで家を簡単に改築しない。この家は、俺と、もういない俺の両親の思い出が詰まってる。そこにシルビアを迎え入れたくて堪らないっていうのが恥ずかしいくらい伝わってきた」

 

 ナタリオがため息をつく。


「どうやらここの俺は、シルビアが恋心を自覚するまでペースを合わせて慎重に慎重に立ち回っていたようだが、入れ替わり魔法で台無しになったんだな。幻覚魔法同様、自分の性質に外れたことを慣れないままにやっているから良くないんだ」


 私のペースに合わせてくれていた。

 気づくことができなかったナタリオの優しさに、心が温かくなる。


「これで、ヤツへの当てつけは終わり。シルビア、今日は、二人でゆっくり過ごしたい」


 自分が子供であることを存分に活かした甘え方。

 ついさっき自覚したばかりの恋を捧げた男の幼少期。そんなナタリオの願いを叶えない選択はなかった。


 食事する時間さえ惜しみ、私たちは本を広げたり魔法を使っったり、昨日や一昨日と変わらぬ、私たちらしい一日を過ごした。

 記憶のことも、今日彼が消えることも、まるで知らないように。

 夕方やって来たナタリオの部下も、昨日とは違う上機嫌さに驚いていた。


 何も言わなかったが、ちょっとだけ遅い時間に寝室に入り、最後の時を過ごす。勿論、私を過去に連れていく魔法なんて作らなかったし、正真正銘のお別れになる。


「なあ、シルビアは、初めに何て声をかけられたら嬉しい?」


 今のナタリオは、自分の世界に戻って私を口説く時の勝率を上げたくて堪らないようだ。ここでどうで覚えていられないんだから、なんて言うほど私は野暮ではない。


「そうね。白馬に乗って来てくれると良いかも」

「おい」


 本当なのに。昔の私は、割と夢見がちだったんだから。


「私も、一つ聞いてもいい? どうして、私を好きになってくれたの?」


 自分で言ってて、照れくさくなってしまうけど。

 そっと目を向ければ、ナタリオは微笑んだ。


「それに、俺が答えても良いのか?」


 ──。


「私が迂闊だったわ。私の夫に直接聞いてみる」

「ああ」


 今日の就寝の合図は、「おやすみ」ではない。


「じゃあ、また会おう、シルビア」

「ええ。そっちの世界の私によろしくね」


 少し不思議な、別れの挨拶。

 甘い睡魔に落ちていきながら、私たちは将来を約束した。





 翌朝。

 目が覚めると、一回りも二回りも大きくなったナタリオが隣で眠っていた。


 寝顔はまるで天使のようで。

 私の左手は、変わらず彼に握られている。


「おかえり、ナタリオ」





最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

今後のモチベーションに致しますので、広告下の評価ボタンを押していただけると嬉しいです。

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