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第1章 生きた文字

今の時代、東京都の対蹠地(たいせきち)はどこかと聞かれたら、すぐにネットで検索さえできれば「ウルグアイ近くの大西洋上」と答えることができる。もちろん、何らかの必要性でも生じない限りそのような取るに足らない雑談程度の知識を調べることは誰もしないに違いない。地質学者のマイケル・ヴォルティーノ氏もまたその一人だった。ただ、彼にはその仕事柄で成しえた研究成果が世界的なある出来事に繋がることを予測してしまったが故に、異様なまでに「対蹠地」というワードが彼の脳内を駆け巡っていた。実際、彼の研究室には乱雑な文字で書き殴られたルーズリーフや資料、報告書などがワークデスクに所狭しと散りばめられている。そのどれもが様々な地点の対蹠地を求めたデータだった。

そんな彼がたった今導き出したある地点の対蹠地があった。

思わずといった調子で唸る。

ここが最初の引き金になる地域か。

母国ではなかったことに安堵の感情はあまり湧いてこなかった。むしろ大きな危惧と不安が彼の心の大半を占めていた。どのみち、全世界の地域が未曾有の非常事態に陥ることになるのだから、無理もない心境だった。

この国が引き金になるのであれば、あの物理法則は全てこの土地に集約されることになる。

すなわち、日本に。

とりわけ、引き金の地となる沖縄県の那覇市には既にその兆候が起きている可能性すらある。

定かではないが、決して低い確率ではない。

その物理法則が世界を震撼させる方向へと暗転してしまったことが、非常に遺憾でならなかった。

この法則に科学的な普遍性はあっても、悪用の常套手段に転じさせてはならない。

科学がよこしまな道に使われてしまうこと、それもまた残念な気持ちにさせる一因だった。

そう。

彼が非常に暗澹たる思いを抱く根源はまさしくそれだった。

つまり、テロという重罪度の大きい犯罪に利用されるということに。

だが、これを知ってしまった以上、早急に世界に向けて警告を発しなければならない。

しかし一体、どうやって?

マイケルは回転椅子に背をもたれて天井を仰いだかと思うと、両肘を立てて顔をその手にうずめた。

誰に頼ることも打ち明けることもできず、一人迷走するこの瞬間が一番苦痛だった。

とはいうものの………。

しばらく考え込んで、彼は一人独白した。


「頼るところはあると言えばあるのだな………。あまり拠り所にはしたくはないが」


今しがた思いついた連絡先を確かめるべく、端末機器をポケットから取り出す。

連絡先リストのアプリを開いて、下へとスクロールしていく。

あった。

彼はその連絡先をタップした。

そこにはこのような名前が表示されていた。


ヴェルトルド・マッケンジー

NASA長官補佐 科学政策委員会代表

対テロ秘密作戦司令部「アリスタイオス」の関係者


彼との間で電話番号とメールアドレスを交換した際に早速自分で編集して入力した肩書きだ。

連絡してみようか………。そもそもテロという重大な危機的事態を口にすること自体、単なる妄想だと一蹴されかねないかもしれない。だが、知ってしまったのだ。同僚の口から知り合いにテロに加担する者がいるという内部告発を。

いっそのこと同僚を呼び出して、彼への相談を持ち掛けてみようか。

だが、結果的に連絡を入れるのは自分自身ということになるし………。

再三にわたって迷い続けた挙げ句、マイケルは彼の電話番号をタップした。

相手はすぐに応答してきた。


「やあ、マイケル。久しぶりじゃあないか」


いつになく穏やかな口ぶりに打ち明けるのをためらうマイケル。

それでも意を決して話し始める。


「ああ。だが、私は今重大な危機に気づいてしまってな。少し時間をもらえるか?」


「もちろんだ。どうかしたのか?」


真剣な声音が返って来たことに若干の安心を抑えきれなかった。

もしかしたら、話を聞いてくれるかもしれない。

彼はゆっくりと切り出した。


「実は………」






「ばっかじゃなかろか」


「ふざけてるとしか思えんな」


久しぶりに立ち寄った駅前のビルにある書店に入った途端に泰雅の耳に入ってきた会話だった。

思わず目を向けると、店頭に並んでいる売れ行きが好調な書籍が何冊も積まれているのを二人の男子高校生が指を差して笑い転げている。

本のタイトルに眼差しを向けるその目はいかにも侮蔑を強調していた。

遠くからでもその本が見えた。

タイトルには「意志は相互伝達する」とある。

今海外で絶賛されている学者が書いた科学の読み物らしい。

高校生の嘲笑が続く。


「だいたい、この手のジャンルに引っかかるヤツって大抵中二病だよな」


「スピ系にどっぷりはまり込んだヤツとかもなんか好きそう」


「うわあ、キモイなあ~。そういうヤツが精神を病んで結局変な犯罪とか起こすんだろ?可愛い女の子に異常に接近し過ぎて、断られた挙げ句にいかれた行動を起こすヤツ」


「マジでやめて欲しいわ~」


「マジで下らねえわ~」


互いに下品で卑しい笑いを浮かべながら、「それよりさっさとあのマンガの最新刊見に行こうぜ!」などと言い合って別のコーナーへと去っていった。

ごく普通の、さり気ない日常の風景の一部ではあった。

だが、彼は先の会話を聞いて憤慨していた。

世のためにと長い歳月を割いてもっぱら研究に従事し、やっと出たその成果が認められないこともままある。その行く末に世間一般に受け入れられれば自身が成しえてきたたゆまぬ姿勢がようやく大きな実りを迎えることは、そう簡単に実現できる話ではない。

額に汗して、ただ黙々と己のやるべきことに邁進するその人間的な在り方に人としての美しささえ、感じる。

その努力の賜物を何の知力も十分に成熟すらしていないガキどもに、学者の偉大さの何がわかる。

若気の至りかもしれないが、それでも真剣な努力を継続してきた者への称賛、あるいは敬意を込めることもできない輩が学生のうちからいるということに強い憤りを感じるのだ。

誰も手を付けたがらないような難しい学術書を平気で何時間も読みふけることが趣味の一つである泰雅にとって、不甲斐ないことこの上ない光景だった。


「下劣な醜悪さの漂うお前らの短絡的単細胞思考みたいな脳みその方がよほど下らねえよ、このカスの塊みたいな偏屈野郎」


思わずといった調子で小さく独白する。

全く、近頃の若者というヤツは………。


「お兄さん、この本、オススメですよ」


不意に話しかけられて、泰雅は焦った。

気づけば、優しい雰囲気の女性の店員がこちらの様子を控えめに伺いつつ、包み込むようなオーラを放ちながら静かに立っていた。

手元にいくつかの本を抱えている。

恐らく、これから本棚に陳列する予定の書籍なのだろう。

その顔立ちを見て、泰雅の思考が止まった。

吸い込むような真っ直ぐな瞳が、きれいな弧を描きながらこちらの表情を好奇心混じりで覗き込んでいる。その瞳に宿る輝きには何の疑いもなく人を信じ切れるような、そんな純白さが伝わってくる。

家庭的な女性とでもいうのか、人を安心させてくれるような性格の持ち主であることは確信できる。

この人は………?

呆けた顔が少しおかしかったのか、クスっと笑ってみせる。

その笑顔も人を惹き付けるような明るい印象を受けた。

この人を守りたい。

思わずと言っていいほどにそんな感情が泰雅の心をよぎった。


「お客さん、さっき『何を言ってんだ』みたいな顔つきされてましたよ。私の気持ちを代弁してくれたような気がして、ちょっと嬉しかったです」


女慣れしていない泰雅は余裕をなくして「そ、そうだったんですね………!」と調子を合わせる。

いかん、いかん、逆に俺が短絡的単細胞思考になってどうする。

確かに俺はかつて、学生時代に中二病みたいなところはあったさ。

だけど、女性を大切に想う気持ちはいつだってこの胸の中に………。

実にどうでもいい考えを巡らせる上に、知らぬ間に虚栄心が湧き上がってきて、思わず見栄を張りたくなるような衝動に駆られた。

そんなあくせくしている彼を見た店員は「いつもいらっしゃって下さる方ですよね?」と聞いてきた。

いつの間にか知らないうちに顔を覚えられていたらしい。


「いつも小難しい学術書を買っていかれるの、よく見かけますよ。頭がいいんですね、きっと」


「あ、あの………はい、ありがとうございます!」


何を話していいかわからずに戸惑っていると、幸いにも店員がリードしてくれた。


「実は、さっきのあの学生さんたちもよく来るんです。今みたいにいつも何か珍しいタイトルの本を見つけては笑いながらあしらっている様子は日常茶飯事ですよ。まだ未成年だし、世の中のことをよくわからないこともあって、仕方がないのかな、とも感じてはいたんですけれど最近はなんだか、段々目にするのがあまり好ましく思えなくなってきて。でも、今のお客さんの表情を見て、真剣に物事を考えられる方もいらっしゃるんだなあ、と思い直して少し嬉しくなりました!」


若干シャイな表情を見せつつ、泰雅の瞳の奥を覗き込んでくる。

自分も何か話さなくては!

そんな焦燥感に駆られ、ひとまず思いついた言葉を口に出す。


「そういえば、今話題にしているこの本は、もう読まれたんですか?」



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