序章 消滅の時代
「宇宙に存在する全ての生命に進化を拒むことはできない」
種族の間で広く知れ渡っている我らがリーダーの格言によって幾多の同志を鼓舞させたことは疑いようがなかった。全宇宙生命が享受する我々のテクノロジーによる恩恵を実現することを、そのような確信めいた発言が後押しするということ、それ自体がこの種族の存在意義を強く固定化させたことは間違いない。
だが、その一方でこの格言の持つ意味がよこしまな意志を持つ存在によって歪曲させられることになるであろうとは、誰も予想だにしていなかった。その存在、そして奴に追従する者たちによる種族の不和や軋轢が結果として途方もなく巨大な争いを全銀河にもたらしてしまったこともまた、ほぼ確実に抗うことのできない事実として固定化されようとしていた。
この格言がもはや全く別の意味を持って大きく豹変しつつある。
正しい方向へと導かれるはずの生命進化が一部のよこしまな存在たちによって書き換えられようとしているのだ。
歪曲された意味をはらんだ目的による、このテクノロジーがもたらしたもの、それは………。
「これは銀河戦争だ」
かつての師匠の言葉が自身の回想と共鳴した。幾多の惑星の存亡を巡って絶え間ない武力衝突の勃発を目の当たりにした結果、それが生み出した内面の葛藤、そう、この戦争の行く末を危惧する憂慮に襲われた時、必ずと言っていいほどに思い出す言葉だ。戦いが起きる時、それが発生する場所には必ず生と死を分かつ命同士の激突、そして、それがもたらす欺瞞と咆哮、絶望と悲痛が生まれる。今ではその激突は常態化され、幾千もの生命が我々のテクノロジーによって絶滅した。その果てしない殺戮によって、我々はその技術を生み出したことへの深い後悔と自責の念に駆られた。このテクノロジーを開発したことに大きな意味があったのか、甚だ疑問を呈せずにはいられなかったのだ。
しかし、それでも………。
それでも、我が指導者はこの技術に可能性を見い出し続け、我々の種族としての誇りと尊厳を守ろうと奔走してくれた。その勇敢で毅然とした態度は、多くの同志を奮起させた。今でも私の胸中にはその時の鼓舞された勇ましい感情が宿り続けている。
………そのリーダーが今、絶体絶命の窮地に陥ろうとしている。
大勢の軍勢に占拠された敵地がじわじわと我が本拠地に浸透しつつあり、侵攻が進んでいるこの危機的事態を止めるべく、たった一人で戦いに突っ込もうとしているその無謀とも言える猛進的な挙動を見て、その場にいた誰もが強い不安を抱いたに違いなかった。
むろん、止めないわけにはいかなかった。
この軍隊を指揮する補佐役としてリーダーの傍らに従事する任務を全うしている以上、リーダーの存在は大きく、また戦況的にも、彼ら部下の戦意的にも欠かせない絶対条件だった。
だが、この犠牲的なまでの献身ぶりを彼らに示してきたリーダーの決意と、そこからうかがえる振る舞いから見える態度は、誰もが見て一目瞭然だった。
そう。
彼は、固く決断していた。
この宇宙規模の危機を回避する「転送」をうまく成功させるには、リーダーである自らが我が死をもって敵の猛攻を止めるしかないのだということを………。
「幸運を祈るぞ、メビウス。我々の間にあるこの絆に噓偽りなどは、決して存在しえない」
自身の手から目的の遺物となるものを彼に手渡し、最後にこう言った。
「グランドハイパーリアリティは実現する。必ず」
譲り受けた手の中にあるのは謎の円形型の物体だった。
立体映像なのか、象形文字がいくつもの環状を成して入れ子になって浮いており、それがまるで独りでに動く渾天儀のようにゆっくりと回転している。
中央には何もないがまるで湯気が立つようにして、その部分の空間だけがゆらゆらと揺れている。
土星の環をそのまま縮小させたような、不可思議な構造体だった。
これが全宇宙生命の命運を左右する、最後の希望となる究極のテクノロジーであることは、メタディファーのメンバーなら誰しもが理解していることだった。
思わずといった調子でメビウスはリーダーの表情を見ようとした。だが、僅かな差でその顔は前方へと向き、これ以上は無用だと言わんばかりにその場を立ち去り始める。
強引にでも引き留めようとした決意もあえなく砕け散り、彼は一人で行ってしまった。
その勇敢なまでの後ろ姿が今でも目に焼き付いて離れない。
つい数分前の出来事であったにしても、最後まで部下に勇敢であり続けることを身をもって教えてくれた唯一の崇めるべき存在だった。
グランドハイパーリアリティ。
この宇宙に住む全ての生命に飛躍的な進化をもたらす、巨大な計画。
これを実現させるために建設された母星であるこのステーションも、その大掛かりな仕掛けに必要なテクノロジーも、そして、言わずもがなこの宇宙規模の計画でさえも………彼なくしては成就しえない不可欠な存在だった。
その彼が死んだら、この宇宙の行く末は一体どうなってしまうのか。
もし、………いや、彼が敗北することは火を見るよりも明らかだ。
実際にこの戦況が圧倒的に劣勢である以上、彼が無事戦闘に勝利して生還できるとはとても思えない。
多くの宝をこの心に残してくれたリーダー。
彼がこの世からいなくなってしまえば、これから先、自分はどんな生き方を、そして、どんな打開を試みればいいのか………。
仮に、最後の希望が託されたこの計画が一旦成功を収めたとしても、だ。
脳裏に浮かぶ大きな絶望感が再び支配しようとした時、彼は頭を振ってそれを払拭した。眼前には我が種族の忠実な部下たちがこのコクピット内で起動作業を続けている。事態が招いた結果はもうこれしかないのだ。今はこれに懸けることだけが我々の責務であり、使命だ。
「高次元亜空間における時差計算に基づく油圧系のメーターは平常に運転。スタビライザー、及びピッチコントローラーを起動。これよりデュアル反重力エンジンを稼働し、離陸態勢に移ります」
操縦桿を握る部下の声が聞こえ、彼の意識は少しばかり任務に移った。
「よろしい。メーターを確認し、フルパワーになり次第脱出せよ」
「承知致しました」
引き続き作業を行っていくその様子を、突如にして鬼気めいた喧騒に豹変させたのはヤヌスの部下の一人、エルスだった。この四角いチャンバーの上方にある焼け落ちた穴から突然降下してくる。
「警告!!!オデッセイ号、今すぐに出航し、脱出せよ!!!メビウス副官!!!今すぐに………!!!」
きりきりした声がこの格納庫の空気を震わした。
それとほぼ同時にずっしりとした重い振動が巨大な爆音と共に、鉄の地面を大きく揺るがす。
敵の侵攻がすぐそこまで近づいている。
くたびれた配線が無数に繋ぎ合わされた、黒くくすんだアーチ状の灰色の天井から、小さな鉄片が振動に耐えきれずにころころと落下してくる光景を目の当たりにした時、彼の意識は完全に戦闘モードへと移った。
ドオオオンッッッ………!ドドオオオンッッッ………!
地面をえぐるような凄まじい轟音が連続して着々と接近し、音も次第に大きくなってくる。
エルスの命を受けて、メビウスは操縦士に指令を思わず大音量で下した。
「エンジン出力を全開に!!!行け!!!行くんだ!!!」
操縦士がスロットルレバーを操作し、船は次第に速度を増して滑走し始めた。
同時に船を赤外線センサーで感知したゲートが開き始める。
その背後でひときわ大きな爆音が鳴り響いたかと思うと、格納庫の壁が木端微塵に粉砕され、向こう側から敵軍の兵士が何体も押し寄せてきた。
「副官、どうかご無事で!!!」
エルスが手から表出させたパルス砲を敵に向かって乱射しながら大音響で叫ぶ。
その間、船が加速していき、滑走路を勢いよく駆け抜けていく。
彼の声は聞こえなかったに違いなかった。
だが、誰もが互いに生存できることを切に願ってやまないことは重々理解していた。
もちろん、全ての部下がリーダーの生還を祈っていることは言葉に出さなくとも一致していた。
オデッセイ号はついに速度を上げて、何もない虚空へ向かって上昇していく。
破壊されて折れ曲がった突起物をいくつかかすめ、宇宙へと飛び立つ一世一代の脱出を試みるべく高度を一気に上げていった。
………予期せぬ結末が待ち受けていることを誰一人として知ることなく。
「宇宙に存在する全ての生命に進化を拒むことはできない」
歪曲された意味を含んだその発言は、彼の心の内を激しく煮えたぎらせた。だが、それでも拡張生体が残り僅かなパワーを保つことしかできない事態がその奮起した心を痛めつける。そんな状況下で苦戦する彼をさらに罵倒して戦意を削ごうとする敵。
「我々の発展による生命の跳躍が事を成し遂げられないのは、貴様たちの部族が存在していることそのものに原因がある。故に、我がエンドディファーたちによる生命進化を促す正当性を主張することはもはや不可避なのだ。貴様たちの部族では生命進化は促せないのだ。たとえ、我々が同じ起源を持つ種族であったとしても」
敵に痛めつけられて機能が低下している拡張生体のバッテリー残量を、接続された感覚神経で確認しながら自身がグリッターのリーダーであることをかすかな意識の中で再認し、必死に言葉で反撃できる要素を探した。とりわけ種族という言葉を敵が使うことにことさらに太刀打ちできない激昂が内側から燃え上がってくるのを感じた。
跪いていた両足に力を込めてゆっくりと立ち上がっていく。
「お前の言う進化は本来あるべき進化とは似ても似つかないものだ。真の進化を知らないお前ごときが進化をのたまうな!」
「はっ、力で圧倒的な差がついている時点でお前に進化の何が分かる?生命と同調などとほざく連中にこそ進化の意味を説く理由は存在しない。まあ、いい。一体どちらが本物の進化を遂げることになるのか、しかと見ていろ」
敵との会話の途中、途端に頭上で鋭い風切り音が聞こえた。エンジンの巨大な轟音だ。
ゆっくりと顔を持ち上げると見えたのは、ひときわ大きな船体を持った戦闘用貨物船だった。
一刻を争うようにして勢いよく上昇を続けていく。
それを目にした彼の頭に一つの不安がよぎった。
あれは、恐らく………。
そうだ、間違いない。
もし、この船が意味することを敵が知っていたら………。
いや、もしかすると………。
「おおっっっ!お待ちかねの標的がお見えになったぞ!エンドディファーたちよ!」
眼前の敵………エンドディファーと自称するハチ型種族の中で反旗を翻した中心的人物―ネメシス―は空に向かって大きく声を張り上げた。恐らくビーコンも送信したはずだ。数秒ののちにネメシスの部下であろうスズメバチ型部族の軍隊がどこからともなく突如として上空に出現し、上昇していく貨物船を途轍もない速度で追尾し始めた。
やはり知っていたのか!
一番恐れていたこの事態だけは何としてでも回避しなければならない。
「やめろ………」
声が小さくて届かないことを認識し、声を絞り出して繰り返す。
「やめろっっっ!!!」
大音量で吠えたつもりだったが、たとえ届いていたとしても敵たちが追尾をやめるはずもなかった。
そうと知っていても思わず叫ばずにはいられなかったが、実際に叫んだ後の失望感がじわじわと彼の心を蝕んできた。
あれには………あの船には今しがたメビウスに渡したばかりの科学技術が積載されている。
我がメルディギガーの存続の命運を分ける、全宇宙生命にとっても最後の希望となるテクノロジーが。
それが敵の手に渡ることになってしまったら………我々の種族だけでなく、かつてある有力な星と同期したこのステーションである黄金惑星、そして全ての銀河の懐で温もるあらゆる生命がその灯火を跡形もなく消されることになる。
全宇宙から生命と呼ばれるものが消滅するのだ。
そんな悲惨な末路を実現させるわけにはいかない。
彼は、残った力を振り絞って羽にエネルギーを流入し、低い振動音を轟かせて上空へと飛翔した。
もちろん、ネメシスが追ってくることも分かっていた。
それでもやらなければならなかった。
自身の右腕に位置する電磁パルス砲を構え、照準を合わせてエネルギー弾を発射しようとしたその直前、予測通りというべきかネメシスが彼の真後ろを追行してきた。彼は腕内部のエネルギーを破壊を伴う周波数に変換し、肘の排気口から衝撃波を放った。
「ぐっ!」
バチバチと電気が迸り、無数の火花が直撃した奴の体から空中へと離散していく。敵が怯んだその隙に一気に速度を上げて軍隊の群れに接近していく。
(後方に敵の存在を確認)
軍隊の一人が彼の存在に気づき、貨物船に背を向け、エネルギー弾を一発、続いて三発を連続して発砲してきた。
華麗な動きとまではいかないものの、左右に体を振って全ての砲弾を避けきった。
だが、それに気づいた二人目が十発以上の連弾を放つ。
最初の二発は回避したものの、次の砲弾を避けきれずに右の羽に直撃させてしまう。その次に一発、二発、三発と受けてしまう。
(飛翔エネルギー変換装置に支障あり)
(バッテリー残量四十二パーセント低下。残り二十三パーセント)
(視覚の多角密度層のうち、二層が損壊)
次々にエラー表示が顔面ディスプレイに展開されていく。壊滅的状況に陥っていることは明白であり、自身の生命存続が危ぶまれる事態に直面していた。拡張生体を通じて様々な痛覚が「もう無理だ」と訴えかけている。
彼はその悲鳴を無理やり無視し、渾身の力を振り絞って片手で空を裂く。
裂けた空間が歪曲して時空連続体が生み出された。その不可視の引力に引き寄せられるかのように軍隊のうち何人かが上昇速度を鈍らせた。追いついた彼は、彼らを片腕から放った衝撃波で次々と撃破していく。
このまま打開できそうな希望が僅かながらに湧き上がってきた。
だが、そう簡単に事は成し遂げられなかった。
貨物船を追尾する先頭集団のうち、一番先頭に位置する者が片腕の側面からミサイルを表出させた。
鋭い発射音と共にそれは船に瞬く間に追いついた。
彼がこの世界で一番見たくない光景だったが、それでもその行く末を直視せずにはいられなかった。
凄まじい爆発音が上空で鳴り響いた後、船の側部に直撃した打撃から生じた揺れを制御できず、船は速度を失って回転しながら、大きな宇宙の大海原へと放り出されていく。
いくつもの破片を飛散させながら、船はゆっくりと宇宙空間の中に消えていった。
全種族の希望を完膚なきまでに殲滅させるには十分な光景だった。
敵たちの高笑い嘲笑がこれでもかとばかりに虚空に反響する。
終わってしまった。
彼の中からこみ上げてきた深い絶望感が体全体を一気に侵食していく。全ての力を失って弧を描くようにしてそのまま瓦礫で埋もれた大地に向かって落下していく。
ひしゃげた音を立てて墜落した彼の意識はもうすでに遠のいていた。彼の周りに降り立ったネメシスをはじめとするエンドディファーたちが集団で最後の仕留めにかかろうと寄ってきた時も、彼の全身は深く強い絶望感と悲しみに蹂躙されていた。
あまりにも非業な彼らに対する怒りすらも湧き上がることなく、彼はただひたすらに死を待つだけだった。
邪悪な笑いを浮かべたネメシスが彼の頭上で叫んだ。
「見たか?銀河戦争の行く末も我が圧倒的な勝利をもってこれで終結を迎えるのだ」
しぼんだ目で敵の赤い瞳をぼんやりと見上げる。
意識の中にあった最後の希望の灯火が消える時、わずかながらに彼の信号受信機が作動した。
ビーコンを受信したらしい。
そこからメッセージが聞こえてくる。
低い声が彼に何かを告げている。
それは、言った。
―攻撃は受けつつも、無事に何とか脱出しました―
―我々は、未知なる領域に隠された系外惑星を探知しました………我々のもう一つの故郷です―
それが生存したメビウスの声だと認識する前に、ネメシスが手から表出させた長い針のようなものが彼の胸部を刺し貫いた。
完全に意識が潰える直前、彼の中に響いたその声が言っていた意味が分かったような気がした。
我々のもう一つの故郷。
それは………。
彼の息が絶えた時、メビウスの声が言った。
―我々はそこへ向かいます………種族の最後の希望となるもう一つの星、いや、かつての我々の故郷であった、地球へと―
ネメシスは満足そうに突いた針を抜いて内部に戻すと、近くにある破壊しつくした瓦礫の山の丘にゆっくりと登っていった。
その丘の内部にはある円陣がある。
地下へと続く太くて大きな鉄柱の頂点にあるホログラムメモリだ。
彼は片手をかざして、平面状の生体認証機能に触れた。
ここからあるものが手に入る。
全宇宙の様相を書き換えることができる、究極の遺産だ。
彼は高慢な笑みを浮かべながら、中にある空洞を覗いた。
………だが、そこには何もなかった。
ただ、球状の穴がぽっかりと口を空けているだけだった。
銀河戦争まで勃発させて、幾多の生命を滅ぼしてまで得たものは、何もなかった。
宇宙を書き換える我が大いなる野望は見事なまでに水泡に帰したのだった。
………なんだと!
あれが、ない!
全ての宇宙でたった一つしか存在しない最後の文字群が羅列された、あのテクノロジーを手に入れることができないだと………!
「奴のコアネスは、どこへいった!!!」
怒りのあまり、生体認証機能を叩いて破壊してしまおうかと衝動が走った。
だが………。
少し間をおいて、考えを巡らせた。
見つからないのなら、探せばいい。
全ての銀河が滅びるその時が来るまで、この宇宙のいかなる果てまでも。
それに………つい最近完成させた兵器がある。
それを使ってあらゆる銀河を捜索していけばいい。
「ベラトリックス、聞け」
手首に装着している通信機器を顔に近づけて部下を呼ぶ。
「はい、閣下」
「この間完成させた超時空兵器を全銀河系の諸惑星へ送り込み、メタディファーの司令官が開発したコアネスを捜索しろ。惑星の数だけ兵器を量産できる仕組みはすでに整っているはずだ」
「承知いたしました」
冷たい声音で了解の意を伝えたベラトリックスの返事を聞き届けたのちに、彼は数分後に宇宙へと向けて解き放たれた天空の邪悪な使者となる兵器が夜空を飛んでいくのを見届けた。
ネメシスは極度の邪念をその胸部で感じつつ、この場所における最後の独白をその胸中で呟いた。
グランドハイパーリアリティは………俺が書き換えてやる。
地球 白亜紀時代 ある地方の渓谷
とりわけ大きなシダの葉から雨上がりのしずくがぽつぽつと滴り落ちてきた。それは一匹のステノニコサウルスの頭上にいくつか降り注いだ。顔を上げるとすでに煌びやかな木漏れ日が、より高い位置にある広葉樹の間から差し込み始めている。夜明けのせいか相変わらず温度は低い。太陽の光は今日も暖かった。それでも今日こそは狩りを成功させたいこの捕食者にとって、天候の様子はあまり意味をなさなかった。
………遥か高い天空の果てに、突如として大いなる何かが出現してくるまでは。
不意に、大きな音が空気を震わせた。
幾千もの羽虫が羽ばたくような、低く唸るような重低音にステノニコサウルスは顔の向きを音のした前方へと変えた。
少しばかり薄気味悪くも感じられるブウウウンという音源には、不吉な予感を漂わせる響きがあった。
新参の捕食者は音の聞こえた方へと向かった。
しばらく頭上に続くシダのトンネルを抜けると開けた土地へと辿り着いた。
頭上で展開する抜けるような青空は今日も同じ色をしていたはずだった。
しかし、この時ばかりは天空の世界が彩るグラデーションに大きな異変を認知せずにはいられなかった。
いやでもその異変の象徴は目についた。
天界一面に広がるサファイアブルーの空全体を一気に真っ赤な紅色に染め上げるようにして、何やらぐるぐると回転する巨大な岩がいくつも降ってくる。内部に灼熱の溶岩を包含しながら、その周りに幾何学的な形状をした青い線が取り囲みながら内部を温めるようにして激しい速度で幾重にも重なって回転しているのが分かる。それが何十、何百と怒涛のように地上へ向かって押し寄せてくる。
始めは、彼にはそれが一体何を意味するのか理解することは不可能だった。
それらのうち、先頭を切る最初の一群が彼のいる場所から遠い地点の地上へ向かって一気になだれ込み、衝突を開始した時、初めて彼はこの世界に何が起きようとしているのか、無意識ながらに悟った。
猛り狂う地響きの咆哮が彼が認知する世界全体を激しく揺るがし、まるで巨大地震さながらのような大きな揺れが大地を震わした。けたたましい岩の砕ける爆音が辺りに飛び散るような豪快な振動が遠くの方から響き渡った。
地平線の向こう側が一挙に真っ赤に染まった瞬間、彼は知った。
この世の終わりが始まったのだ。
その隕石は突如にして地上に降り注いだのちに、大地を邪悪な色に染め上げるためにその色を侵食し始めた。
煙が噴き上げるオレンジ色の岩が瞬時にして溶岩へと変質し、それが次第にこの世界全体を覆い尽くしていく。
何が起きたのか知る間もなく、恐竜たちは突然の破滅と破壊にただただ飲み込まれていく。
全てを溶かす鈍い音が地上を席巻していくその光景にようやく気付いたステノニコサウルスは、逃げ場を求めて高台となる大きな丘が近くにあるのを見つけて、必死めいて疾走していく。
背後から迫りくる大いなる脅威が丘の麓に到達した瞬間に速度を緩めたことも知りえず、彼は一目散に丘を駆け上がった。
頂上に到着した時、そこで初めて後ろを振り返った。
彼の視界で見えたものはただ一面に広がる真っ赤な海だけだった。その様子に彼は本能的な恐怖を覚えた。
なんの前触れもなく闖入してきた幾多の破壊者たちがこの星の様相を著しく書き換えていく中、さらにその頭上からその経緯を観察する存在たちがいた。成層圏に近い空域でゆっくりと滑空する細長い巨大な宇宙船の内部では、恐竜たちの見知らぬ地球外生命体たちが会話を交わしていた。何やらこの星においてある反応が示されることを期待していることを念頭に置いた会話だった。
「どうやらこの世界には汚れた下等生物の蹂躙しか存在しえなかったようだ」
「ここには、ない。我々の欲しているものは見つからなかったようだ」
「では、次にあたるとしよう」
その短い会話がなされた後、宇宙船は徐々に高度を上げて地球の大気圏を抜けていった。
………しかし。
その存在たちが去っていった数分後、ある岩場で空間の歪みが起きた。
それは、突如にして出現した不可思議な象形文字の環が回転を始めたかと思うと、内部から物体を表出させた。
その物体が動き出すと、文字の環は瞬く間にして消滅した。
物体には手と足、胴体、頭があった。
半透明状でヒトの形をしたそれは、眼前の岩壁に片方の手を当てると呟いた。
「やはり、ここにあったか」
奴らに気づかれずに済んで、本当によかった。
そんな安堵の表情を浮かべながら、内部に埋もれているものが健全な形状を保持していることを超越的な感覚で確かめたのちに、誰もいないその場所で一人呟いた。
「私が最初で最後の人類、ホモ・エクストルスとなる」
1792年 大航海時代 グランドキャニオン
彼にとって生来の好奇心を最もくすぶらせたのは、なんといっても古代の生き物だった。中でも恐竜と呼ぶ存在たちには未知なる世界へのいざないを彷彿とさせる大きなロマンを感じていた。今の時代には存在しえない生物を探求することは、一生物学者としての責務でもあるように半ば感じられるほどだった。
それにしても………この岩場のいびつさはなんだ?ものすごくごつごつしているぞ?
高齢に近い古生物学者グラントニック・フリビクソンが今いる場所は新大陸と呼ぶ新天地の内陸にある、グランドキャニオンの内部だった。どこでも幻想的な景色が一望できて発掘にも飽き足らない気概を維持できる。
そんな渓谷の景観ではあるが、ここの場所だけはどうにも耐えられない足場の悪さで四苦八苦する。
まあ、これも発掘の醍醐味の一つでもあると考えてもいいかもしれないが。
過去の文献によると、ここにも恐竜の痕跡があったとかなんとか。
ここに来るまでの間に、羊皮紙に書き尽くしたびっしりと並ぶ文字を何度も確認していたので、掘り起こす地点はあながち間違ってはいないはずだ。
………と、おっとっと!
ひときわ大きな岩に足を取られて思わずよろけるも、とっさに近くの岩壁に手を当てて体勢を保った。
転倒して怪我を負わなかったことに内心安堵する。
こんなこと一つで挫けてたまるか!
古生物の痕跡を探すことに再び専念しようと体勢を立て直して手を放そうとしたが………手をついた岩壁から何かが伝わってくるような気がした。ジンジンと痛むような、しかしそれとなくして何かが体の中に柔らかく浸透してくるような感覚だ。
………いったい、何だ?
手をついた岩壁に視線を投げると、不思議なものが目に映った。
その表面から独りでに象形文字のようなものが浮かび上がってくる。どこの地域でも発見されたことのない、見たこともない文字だ。それは環状に並んでおり、中央がぽっかりと空白になっている。
不思議なことに、同時に彼の脳内でそれが何かの起動のスイッチだと知れるような、そんな感覚に襲われた。まるで昔から「それ」がそこに存在していたのを知っていたかのような感覚だ。
彼は、その中央に手で触れた。
すると、突然にして岩壁を伝って脳内にイメージが怒涛のごとく入り込んできた。
先ほどの古代文字が数え切れないほどの量で脳を圧迫し、彼はその場にくずおれた。
脳の内部では「それ」が必死になって語りかけてくるのが分かった。
彼は、意識を保ちつつも、地球上でいまだ知られていない歴史があることをそのイメージが語る知識によって知ることになった。
恐竜は、単に隕石で滅びたのではなかった。
その「兵器」がもたらした灼熱の海によって滅びたのだ。
そして、その脅威はまたやってくる。
「それ」が語ってくるメッセージ、それは………。
「侵略者は、またこの星にやってくる。"時空の印"を使って全宇宙を滅ぼすために」
お世話になっております。
本作品の構想が完成次第、第1章から終章まで順番に書き上げていきます。
終章までの下書きが完成したら、それらを一気にまとめて投稿するという形を取りたいと思います。
よろしくお願いいたします。




