風船はピンポン玉サイズ
アーチェリーにおいて、矢で風船を割ることが必ずしもすごいとは限らない。 しかしこれが結構難しい。サイト(照準装置)があっても、矢の行方を知るのは射手だけである。そして決めるのは自分自身だ。
「……って、何で風船があんなに小さいのよ」
体育館の外に用意された畳を見るなり、思わず美紗から文句が零れた。
ステージ脇で紀久美は何も悪くないと言う風に生徒会役員と打ち合わせをしている。
美紗はそんな彼女の襟首を掴んで、
「紀久美ちょっと借ります」
有無を言わせずに、用意された畳のある所に連れて行った。
「……小さすぎない? 確かに風船貼り任せるとは言ったけどさ」」
開口一番、美紗は不機嫌そうな声で苦言を呈した。紀久美は悪びれもなく返答する。
「小さくないよ。インドアの金的ぐらいでしょ、あんなの」
「インドアの金的の、しかもそのまた10点でしょ……この緊張状態で撃ち抜ける自信ないって」
「わざと外すにはちょうどいいよ」
「一回射ち抜くよ」
「いやいや、冗談だよ」
謝りながらも紀久美の顔は笑っていた。
美紗は、全くもう、とため息をつきながら、紀久美と一緒に畳を体育館のステージ脇に運び込む。
運びこんでから美紗は観客を見てみる。こんな大勢の前で撃つのは初めてだった。
喉が渇いてしょうがなかった。ペットボトルのお茶を1杯飲む。そして一息ついた。
「よう、元気ですか」
そんな時に声をかけてきたのは、もう1人の生徒会副会長、三国省吾だった。
「なんだ、三国くんか」
「なんだ、その残念そうな態度は」
「残念なのよ」
「失礼だな。人が心配して見に来たのに。心配して損したな」
「三国くんに心配してもらう必要なんかない」
「何言ってるの美紗ちゃん。ビクビクしているくせに」
「本当に射る抜くからね」
「……本当に冗談だから、矢を構えるのはやめてね」
「……本当に心配して損した」
そんなやり取りに省吾はため息をつく。
省吾は紀久美と同じ生徒会副会長だ。美紗や紀久美とは仲が良く、基本的にはいつも一緒にいる。
今日は生徒会主催の新入生歓迎会のため、役員として舞台裏にいるのだった。
ちなみに紀久美はそれにアーチェリー同好会のお手伝いさんとしての仕事もある。もっぱら畳運びと風船つけ(極小1個)だが。
「あ、ちなみに風船付けは省ちゃんにも手伝ってもらったんだよ」
「さりげなく怒りの矛先を俺に向けさせるなって」
しっかりと省吾も手伝わされていたが。
「だって連帯責任だよ。普通のじゃ面白くないって言ったの省ちゃんじゃん」
「ピンポン玉ぐらいにしようって言ったのは三島だろう? 美紗ちゃんならあれくらい楽勝だよ、とか言いながら楽しそうに風船つけていたのはどこの……って、わかったわかった、俺らが悪かったからまずはその矢とスタビライザーをしまえ」
いつの間にかスタビライザーまで取り出していた美紗は黙ってそれを弓に着ける。
「まあ、とにかくがんばれよ」
「……うん」
省吾の激励に美紗は軽く相槌を打つ。
「元気ないのが一番駄目だ」
「……そうよね」
そんな美紗に紀久美も激励を始めた。
「引き戻しはダメだよ」
「……うん」
「格好よく見せろよ」
「……うん」
「お願いだから生徒だけは撃つなよ」
「……」
「外すにしても畳の外だけはやめてよ」
「……」
次第に美紗の相槌が聞こえなくなってくる。彼女は肩を震わせて俯いていた。
「……言いすぎたかな」
その様子を見てさすがに紀久美も反省したが、省吾が火に油だった。
「大トリなんだから、お前次第でこの会が白けるか否かが決まるからな。責任は重大なわけで――」
「……あんな小さな的をこんなときに射ち抜ける自信があると思う?」
美紗の低い声にその場の温度が下がり、静まり返った。
「大体大トリにしてなんて誰が頼んだのよこっちの気も知らないで好き勝手言って……だったらあんたらが撃ちなさいよ!」
そして爆発した。
激昂して省吾に殴りかかろうとする美紗を別の役員が慌てて止める。次の部活の準備で閉幕中だったので、外に様子が見えることはなかった。
「ジュース1本の仇!」
美紗は訳のわからないことを叫びながら、矢(1本3000円)を振りかざし、役員に羽交い絞めにされていた。
「返しただろう120円……ってか危ないからやめろ!」
羽交い絞めをしている先輩の生徒会役員にも臆せず、美紗は矢を持ったままもがいている。
「面白いことになってきたね」
羽交い絞めをしていない別の先輩の書記役員が呟く。
その呟きを聞き逃さなかった省吾は異変に気がついた。会場が異様なざわめきに包まれていたのだ。
ふと備え付けのマイクを見ると、作動中のランプが点灯していた。
美紗が爆発する前はともかく、その後の怒鳴り声はマイクを通して会場中に伝わっていた。
「ちょっと原さん、マイク入ってますよマイク!」
「わかってるさ」
慌てて省吾がマイクのスイッチを止める。隣の原と呼ばれた書記役員は不気味な笑いを浮かべていた。
「わかっていたなら止めてくださいよ!」
「だって、面白そうだったんだもん」
「……だってじゃないですよ」
省吾はため息をついた後、先輩役員に聞こえないように悪態をつく。
「あくまで、合間のパフォーマンスとして受け取ってもらえればね」
「何がパフォーマンスだ。ただの喧嘩だろう」
そんな省吾を気にもせず、原は前へ出て営業スマイルで話し始める。
『えー、ちょっと放送事故がありました。相方は今その事態の収集中ですね。ちょっと意気込みすぎている部活の怒鳴り声でしたが気にしないでくださいね~。きっといい演技を見せてくれるでしょう。さてさて、もうそろそろ部活紹介も後2つ。皆さん入る部活は決まったでしょうか? 後2つは比較的珍しい部活なので、良く見ていてくださいね。というわけで、前置きはさておき、少林寺拳法部の登場です!』
*
少林寺拳法部の暑い演技が終わって、アーチェリー同好会の番がやってきた。
激昂した美紗を止めてくれたのは顧問の高槻だった。止めた、というか、黙らせたの方が正しいだろう。
高槻の説教により、舞台裏は妙な緊張感に包まれていた。
美紗は精神統一で気を落ち着かせている。
さっきの事をまだ気にしているのか、紀久美は申し訳なさそうな様子だった。
「何で射たない紀久美が不安そうなの。普通逆でしょ」
「……だって美紗ちゃんが」
「もう怒ってないってば」
「……そう?」
上目遣いで紀久美が尋ねる。
「そうだって」
「……だったらその矢を降ろしてから言ってよ」
「アローチェックだって」
そう言ってクルクルと矢を回す美紗。これによって、矢が曲がっていないかを調べるのだ。矢が曲がっていると真っ直ぐした矢飛びにならず、たいてい外れるからだ。
「まあ、この距離だったら関係ないけどね」
「だったら止めてよ」
「あのね……これアーチャーの仕事」
「美紗ちゃんが矢を持つと怖いんだもん」
それって私がアーチャーだって言う事、否定されてない? と美紗は思った。
「まぁ、人は殺さないから大丈夫……って、もう時間かな」
よし、と美紗は意気込んでから、弓を持ってステージ中央へ歩いていく。
「美紗ちゃん!」
「いつもの射形でね……でしょ」
声をかける紀久美を遮って、美紗が得意顔で微笑むと、紀久美もそれに返して微笑む。
もう吹っ切れていた。もう後ろ姿は、自信に満ち溢れたアーチャーのそれだった。
『少林寺拳法部、本当に強そうでしたね。私が食らったら絶対に骨折しちゃいますよ。え? 弱いんですね、ですか。そりゃか弱い乙女ですから。え? とてもそうは見えない? 今そう言った人、後で生徒会室に来なさいね……えー、失礼しました。それでは最後――アーチェリー同好会です!』
司会の言葉に、会場が沸く。おそらくは2年生も多くはこの部活の存在を知らないかもしれないが、その拍手は期待色に染まっていた。
美紗はステージの中腹あたりまで進んで、一礼する。
「こんにちは、アーチェリー同好会です。部員は1人ですが、毎日プール裏にあるアーチェリー場で練習しています。本当に部員が足りません。初心者でも大歓迎です。是非、入部してください。では実際に射ってあの小さな風船を割ってみます」
そう言ってから美紗は黄緑色の弓を手に取って、行射体勢に入る。彼女の目の色が真剣そのものに変わった。
10m。インドア(18m)よりはるかに短い。それに、無風。足場も固く安定する。ベストコンディションだ。これが大会だったらいいのにと彼女は思う。
緊張しているはずなのに、矢をつがえる手は震えなかった。
セット――セットアップ。まるで機械のように。
ドローイング――方をはめるようにアンカーが決まった。
が、距離が短い分、少し伸び難かった。
2秒で切れるクリッカーが、切れなかった。
だが、狙いは完璧だった。
クリッカーが切れた後は一瞬だった。
畳の球体はすでに原形をとどめない。
突き上げたガッツポーズ、上げた雄叫びは大歓声に消えた。
美紗は静かに弓を置いて、ぺこりと頭を下げて小さく手を振る。
それと同時に幕が閉まっていく。その間、拍手が途切れる事はなかった。
「よっしゃー、って男子みたいだったよ」
紀久美のからかいに、美紗の顔がたちまち赤く染まる。自分では気づいていなかったらしい。
「これで入らなかったら私絶対泣くからね」
「って、もう泣いちゃって」
「そんなこと……ない」
しかし、否定する美紗のその顔は明らかに涙に濡れていて、言い訳のしようがなかった。
そして彼女は弓を持ったままへたり込んでしまった。
「どうしたの?」
「成功したら……力抜けちゃってさ……」
ははっ、と笑う美紗。そんな彼女の顔は満足げだった。
「さて、畳片付けるよ。省ちゃん」
「何で俺が」
傍らで見守っていた省吾が不満の声を上げる。
「だって美紗ちゃん、立てないって」
「しょうがないな」
そう言って省吾が、左手で弓を、右手で美紗の手をとった。美紗は突然の出来事に目を丸くしていた。
「ちょっ、三国くん?」
美紗が耳まで真っ赤にして俯く。そして省吾が手を引いたが、美紗は立ち上がる事ができない。
「ったく、これくらいで腰抜けるなんてな」
省吾の笑顔には、からかいだけではなく、称賛も含まれていた。美紗は依然として俯いたままだ。
「ほれ、もう幕が開くから、さっさと退散」
手をぐっと引いて美紗を寄せる。
「……」
もう俯いたまま動かなくなった。
「ちょっと! それじゃあ畳は私1人で運ぶの?」
1人取り残された紀久美が文句を言う。
「私……立てないし」
「俺……両手塞がってるし」
そう言って、美紗と省吾はステージ裏にたどたどしくも歩いて行ってしまった。
「裏切り者だよね、まったく」
紀久美の言葉は、省吾だけではなく美紗にも向けられていた事を、美紗は知る由もなかった。