最低会費5000円=カーボン矢1本
そこから彼女たちはスタートした。
埼玉県立松風学園高校の敷地の一角に、草むらがあった。50mはあったが、そのうちの20mほどは草が深々と生い茂っていた。きっと生物の宝庫だろう。
後の30mはある程度草むしりがされており、整備されていた。
ちょうど草の海との境目の位置に、仕切り板とも言える屋根付きの壁が立ちはだかっていた。その正体は、畳だ。しっかりと柱やパイプを使って建てられた台の上に畳が横向きになって乗っている。
その畳には、的が貼られていた。外側が白で、中心に行くにしたがって黒、青、赤、黄色と円形に色分けがされている。ちょうどそこから反対に30m行くと、また屋根があり、脇にはドアがあった。そして地面には何枚ものコンパネが敷かれていた。
プール裏のこの施設。そこは松風学園高校アーチェリー同好会の活動グラウンドだった。
そんな痒そうな即席アーチェリー場で、2人の女子生徒が座談をしていた。
「今年は絶対に部員採るからね」
風早美紗はそう宣言した。その表情はやる気に満ち溢れていて、しっかりとした意志がうかがえるようだった。
「入ってくれるかな、そう簡単に」
対照的に、隣にいる三島紀久美は、あまり芳しくない顔をしながら、そんな美紗の姿を見つめていた。それはとても美紗を心配している図だった。
「大丈夫よ」
美紗はそう簡単に言ってのける。
「でも美紗ちゃんね、そう言ったってお金の事言ったら……」
「そんな話はしないわよ。入ってきてからおいおいとね」
「……悪徳商法だね」
紀久美が呆れたように呟く。そう、美紗がやっているアーチェリーはお金がかかるのだ。弓具一式を揃えるだけで10万はかかるのだ。
「アーチェリー用具って高いよね」
「高い」
「単価が半端ないよ」
こんな小さいのが1万円だもんね、と紀久美は言って、消しゴムほどの大きさであるクッションプランジャーを手の中で転がす。この道具は、矢の蛇行を防ぐ役割がある。アーチェリーでは不可欠な道具だ。
「それにいろいろ備品を買うにも、会費が5000円しかないんだから仕方ないしね」
言葉尻に皮肉を込めて美紗が言った。同好会にはどの会も一律5000円の会費が出る事になっている。しかし、アーチェリー同好会にとっては少なすぎるのだ。いろいろ備品を買うためにどれだけのお金が必要か、生徒会はわかっていないのだ。大した成績を残していないので、理解がないのは当たり前だったが。
「副会長に言わないで欲しいな。私だって苦労しているのに」
美紗の明らかな八つ当たりだとわかっているのに、紀久美は少しむすっとしてしまう。彼女は生徒会副会長。選挙の時はとりあえず笑顔作戦で乗り切って当選した。人気は意外に高く、今年は会長かと言う声も上がっている。
ちなみに紀久美はアーチェリー部員ではなく、ただの美紗の友達である。入学当時に知り合って意気投合。共にアーチェリー同好会に入ろうとしていたが、お金の面で断念した。
「ごめんったら」
「でも、部に昇格するには……部員5人以上だっけ」
「……うん」
美紗の所属しているアーチェリー同好会のメンバーは、2年生の美紗だけだった。彼女は先輩と後輩はおろか、同輩もいない中で半年間部活を続けてきたのだ。
「大丈夫だよ、明日頑張れば」
「……そう?」
「うん。美紗ちゃんなら大丈夫」
笑顔でエールを送る紀久美と対照的に、美紗は浮かない顔をする。明日に迫った新入生歓迎会を前に自信をなくしていたからだ。先ほどの生き生きさはあくまでも景気づけである。
「……外したらどうしようか」
「とにかく笑顔」
「選挙じゃないんだから」
紀久美だからこそ成功できるのだろう、と美紗は心の中で呟いた。彼女には成功できる気がしなかったのだ。――外したら笑顔さえも出ないよね、きっと。
明日に迫った新入生歓迎会、美紗はアーチェリー同好会として出し物を1つ企画していた。出し物と言っても、ステージ上で実際に矢を射るデモンストレーションに過ぎないが。歓迎会は、部活にとって部員獲得のためのプロセスであり、毎年部員たちは力を入れている。
「逆にわざと外すのもいいかも」
「お笑い?」
「去年やったよね、高槻先生」
「あれは素でしょ」
思わず美紗は思い出し笑いをする。昨年、アーチェリー同好会顧問の高槻孝信は、歓迎会のステージ上で見事に風船を外して、生徒の笑いを誘った。しかしながら、結果は部員1人であったが。
「わざと外すぐらいの技量はあるでしょ、美紗ちゃん」
「何それ」
「ちょっと押し手を緩めれば」
「……こらこら」
参ったなと言う顔で美紗が小さく怒る。
「癖になっちゃうでしょ」
「そんな1本しか撃たないのに」
「その1本で射形が変わっちゃったらどうするの」
真剣な顔で美紗は言った。アーチェリーは射形が一番大事だ。同じ射形で矢を射たなければならない。彼女は一時たりも射形を崩してはいけないと思い知っている。
「美紗ちゃんなら大丈夫」
「そんな無責任に。私の押し手はデリケートなの」
「じゃあエイムオフで」
「……それならいいかも」
「……えっ?」
意外な反応に紀久美は面食らった。絶対決めると公言していた美紗が、違う形ではあれど肯定したのだから。
「観客にも気づかれないし。射形は崩れないし……その方が、ショックも少ないだろうし」
そう言ったきり、美紗は黙り込んでしまった。
美紗自身、表面上での前向きさとは裏腹に、心中、自分がどれだけ良いパフォーマンスを見せても、去年の二の舞になりかねないのではと思っていた。
アーチェリーは結構地味なスポーツで、前述通りお金もかかる。果たして、それを覚悟して来てくれる人がいるのか。
それでもまだ頑張ろうと言う気持ちがあったのは、アーチェリーを広めたい、こんなにも楽しいスポーツをもっとたくさんの人に楽しんで欲しい、と言う気持ちが心の片隅にあったからだ。――でももし、今年も部員が入らなかったら。
そんなことは考えたくなかったが、この現状が続いたらどうなるんだろうな、と冷静に考える能力も彼女には残っていた。わかっている。廃部だ。
そうはさせない。彼女はさせたくなかった。させないためにはどうすればいい? 部員を集めればいい。じゃあどうすればいい? 解決策はひとつだけ。
そうしないと、芽がここで止まってしまうから。ここからアーチェリーを広げる手助けになれないから。
そんな美紗の思いを汲み取った紀久美が笑みを浮かべる。
「やっぱちゃんと決めないとダメだよ。美紗ちゃんの晴れ姿、ビデオで撮るんだから」
「やめてよ。そんなの恥ずかしいから」
まんざらでもない様子で美紗が手を振って拒否する。紀久美は笑みを絶やさないままこう呟く。
「あーあ、私もやりたかったなあ」
母子家庭で育った紀久美の家庭は財政状況が火の車で、アーチェリーなどと言う余裕はなかった。
しかし紀久美は、ちょくちょくと同好会に顔を出している。その成果、美紗の射形の癖や特徴をすっかりと掴んだのだ。顧問の高槻もその功績を考慮して、部員ではないが美紗のマネージャーとして認めているのだ。
「”生徒会副会長”の私とアーチェリー同好会会長の美紗ちゃんが一緒に出れば、絶対会場沸くって」
「妙に副会長を誇張してない?」
「美紗ちゃんも結構人気あるんだよ」
「スルー? ……てか何の話よ」
「うらやましいもん。美紗ちゃんを見てて」
人の話を聞きなさいって、と美紗は心の中で文句を言った。
「楽しそうで、気持ちよさそうで……って変な意味じゃなくて。風を感じられるのがうらやましい」
そうかな、と美紗が聞き返すと、本当に羨ましそうに紀久美が頷いた。
「でも実際ね、風って辛いよ?」
少しため息をつきながら、しかしどこか楽しげに美紗は語り始めた。
「いちいち風を読むの面倒だし、スタンスは定まらないし……」
彼女はそこで言葉を切った。いろいろな感情が高ぶってくる。
「でもね、アーチェリーやってるなーって思う。ただ平坦に矢を撃つだけじゃ、物足りないもの。風こそアーチェリーだなって」
そこまで言い切って、笑っている紀久美に気づいて美紗は言葉を切った。そしていつの間にか熱く語っていた自分に驚いた。
美紗が思わず紀久美を見ると、彼女は笑っていた。そして、紀久美はポンと美紗の頭に手を置いて、猫を撫でるように撫でた。
「止めてって……そんな趣味はないし」
「いつもの美紗ちゃんだ」
紀久美のその声は子供を諭す様な穏やかで優しい声だった。
「もっと力を抜かないと、本当に外しちゃうよ」
今度は美紗の両肩に手を置いて、一言だけエールを送った。
「伸びられなくなってるよ――いつもの射形でね」