猫のいる家
ポールは皿の水を飲まない。たとえ寒い冬場に温めてやったミルクを注いでやっても同じ。蛇口をひねった時だけ台所のシンクにサっと飛びのり、流れ出てくる水の中に舌を何回か出して水分補給することが彼のお気に入りである。
そんなポールは別に器用なわけではないから、いつも頭の上から水をかぶってしまう。濡れながらリビングをウロウロ歩きまわることも彼のお気に入りである。
今は部屋に私とポールだけ。先日までいた母は、「悲しいお知らせです。」と陽気にガンが見つかったと報告したかと思えば、その翌週には「末期のようです。」とそれもまた笑顔で言った。結局その後すぐに母は涙顔で見送られた。最後の日も母だけは笑顔だった。
病は台風のように去っていったが、母も連れて行ってしまった。
しかし、まだ家の中には母が残したもので溢れている。いや、母が残したものの中に私とポールがいると言った方が正確かもしれない。
リビングのこたつも風呂場のタオルも母のもの。カーテンもトイレットペーパーも靴べらも全部母が買ってきた母のだ。もちろん私とポールも。
そんなことを考えていると、足元が濡れていることに気づいた。
「そう言えば洗面台の水出しっ放しだっけ。」
そんなことするのはポールしかいないのである。慌てて脱衣所に行くと水は出ていなかった。その代わりに鏡に映る私の目から溢れ出ているものがあった。
「これじゃポールが寄ってきちゃうじゃないか。」
私は顔を大げさに洗った。
すると、どこからかポールが寄ってきて洗面台の縁にぴょんと上り水道の水を飲みはじめた。頭を濡らしながら。
飲み終えると彼は行方も知らせずに脱衣所から出ていった。私も水道を止めて、顔を拭かずに鈴の音を追った。
私はポールを拾い上げて、濡れた顔を彼のフサフサなお腹で拭いた。不思議にも彼はゴロゴロと首を鳴らして喜んだ。
私もポールも家もびしょ濡れだったが、母の残していったものは全部笑顔だった。