ラプラスの悪魔
今。思い返す。思い出を。
過去を思い返すというのは、同じ時間をもう一度時間をかけて過ごすということ。
再現すること。ビデオを見るように。
もしも未来が見えるのなら、未来予知が出来るのなら、未来は既に過去のものだ。
思い出を振り返ることと未来を知ることは同じなのだ。
結局、何もできやしないのだから。もう既に決まっていることなのだから。
今日は虫のオーケストラがお休みだったか。
勉強机の上に散らばったA4のプリントを眺める。乱雑に印刷された文字が目に入る。しかし、何を書かれているのかは分からない。そもそも、分かろうとしていない。
そこにあるのは古代の石板だ。
僕には興味がない。
故に、理解できない。
そう考えると、胸の奥が高鳴る。
しかし、同時に耳障りな音が聞こえてくる。
頭? いや、もしかしたらもう一人の自分だ。
そいつが必死になって僕に叫ぶのだ。
「はやく、はやく、はやく――――――早くしないと宿題が終わらないよ。」
その言葉を頭が理解したのだろうか、心臓がどくどく鳴り響いてくる。そのあまりの鼓動の大きさに頭までくらくらしてきた。
やらないと・・・・・・。
やらないと・・・・・・。
頭ではわかっている。やばいって。このままでは宿題が終わらせられないって。
だが、僕には分かる。分かってしまうのだ。
終わらない、と。
今日中にはこの宿題は終わらない。
自殺しよう。
そう考えると、心臓の鼓動がゆっくりとおさまる。あつくて苦しかった胸の中が内側から包み込まれる。
とても心地いい。
もう宿題のことは考えなくていいんだ。
思い残すことを考える時間なんていらない。この心地よさの中でいたいんだ。
足音を殺しながら階段を降りる。リビングにいる親に気づかれないように。
ドアをゆっくりと閉め、電灯が照らす夜道へと駆けた。
すごい、すごいぞ。
僕は今、してはいけないことをしている。
見慣れたはずの道が夜になると姿を変える。
静まりかえった夜道を駆けながら、僕は興奮していた。
少し疲れた足を止める。近くの公園まで来ていた。
夜の公園。
滑り台、ブランコ、シーソーを置いただけの小さな公園だ。
ぐるりと見渡し、まず最初に目に留まったのはブランコ。
ホラー映画では、こいつがひとりでに動く。
ブランコがひとりでに動かないかなと、おどおどしながらブランコに注意を向ける。
「ねぇー!」
「ひっ!?」
突如聞こえてきた女の子の声にびっくりする。見ると、滑り台の上に人がいる。
「遊びに来たの? なら遊ぼう!」
無邪気な声の主はそう言うと、こっちにやってきた。
「・・・・・・、なんだ、織谷さんか。」
知っている人間であることにほっとした。
織谷はきょとんとしながら、
「うん。わたし、織谷愛佳っていうの。」
と、嬉しそうに答える。
「で、何して遊ぶ?」
「・・・・・・。」
こいつと遊んだらどうなるか・・・・・・。
「・・・・・・もうすぐ迎えがくる。僕も今日はもう帰るよ。」
「んーそっか。それじゃあ明日またね。」
次の日の学校。
自殺しようとしていたことなど無かったかのように学校に向かう。
宿題は五時に起きてなんとか終わらせた。
「はーい、席に着いて静かにね。」
「朝の会」に遅れてきた先生が織谷さんを連れてやってきていた。
先生が来ないということで騒いでいたクラスメイトだが、再び喧騒が強まる。
「今日からこのクラスにやってきた新しい仲間よ。」
「織谷愛佳です。・・・・・・あっ。」
おどおどしく名前を告げた織谷が僕と目が合うや笑顔になった。
「ねえ、何で私の名前を知ってたの?」
織谷が転校してきて一週間。
「先生から聞いていたんだ。」
嘘。過ちに気づいた転校初日から考えていた回答だ。
「ふーん。」
「で、なんでお前はまだ教室に残っているんだ?」
出された今日の宿題を学校でやっている僕の前の席に座って織谷は話しかけてくる。
「今日、当番を押し付けられたから。」
知ってるよ。
未来予知なんかしなくても知っているよ。誰でも分かるよ。みんな分かるから、こうなってるんじゃないか。
沈黙の時間がしばらく流れた。
「終わった?」
「うん。」
「・・・・・・そう、じゃあね。」
「・・・・・・待つよ。」
織谷が目を見開く。
「いいよ。」
面倒だ。
「あと二十分だろ。」
席を立ち、窓際に向かい夕日を見る。
「日本はすげえよ。」
真っ赤な夕日だ。こういう美しいものを見ると、どうも自分に酔ってしまう。
「どんな馬鹿でも『空気を読める』ようになる。特にこういう悪い空気はな。学校の教育のせいなのか、日本人だからなのか・・・・・・。少なくともその点でこのクラスに馬鹿はいない。」
織谷の方を振り返らずに言葉を続ける。
「あと一か月でお前は転校する。お前が学校を嫌いになったからとかそういうんじゃない。親の都合で、だ。」
「すごい・・・・・・。何でも知っているんだね。わたしも知らないのに。」
信用はしていないようだ。
「知っているだけさ。何もできやしないよ。僕にとって人生はドラマ。ドラマみたいじゃなく、ドラマなんだ。与えられたものを演じて終わり。二十歳前半で僕は死ぬ。」
「馬鹿なんだね。」
織谷が笑う。
確かに、馬鹿みたいなことを言っているだろうな。
未来予知なんて。
「死ぬのが分かってて、何で死ぬの? 逃げればいいじゃん。」
「あはは。」
僕は久しぶりに笑っていた。
「確かにそうだ。」
織谷が来て三週間。
今日は織谷の持ち物が盗まれる日だ。
あらかじめ織谷に伝えておくのが一番かもしれない・・・・・・が。
そういう運命じゃない。
今日は織谷の持ち物が盗まれる日。
神様がもう決めたこと。
昼休み。
給食を食べ終えた生徒から、休みを返上して先に次の授業へ向かう。
食べるのが遅い僕は最後の三人の一人だ。
「早く食べて―。」
給食当番が片づけが出来ない、と急かしてくる。
もうすぐ僕も食べ終わってしまう。
あとは牛乳だけ。牛乳は外から残量が見えない。これでしばらくは時間が稼げる。
普段、休み時間は教室で一人で本を読んでいる織谷。盗むとしたら、この昼休みだと踏んだのだが・・・・・・。盗人はまだ動かない?
盗まれるのは確定事項。なら、犯人を突き止めてすぐに返してもらう。
「あれ、織谷さんは?」
先ほど教室から出ていった女子生徒が教室に再び帰ってきた。
「織谷さんならもう行ったんじゃない?」
「はあー? 当番変わってって言ったじゃん。」
普段から当番を押し付けてるのはこいつか。
ガンッ。
突然の音に、クラスメイトが音の方に視線を集中させた。
みると、織谷の机と椅子の位置がズレていた。規則正しく並んでいる教室の机と椅子だが、織谷のそれは乱れていた。
「やれやれー。」
小さい声で。別のクラスメイトがあざ笑いながら言葉を放った。
目玉をすっと動かし、目に入ったクラスメイト達の顔には、笑顔。
ただの笑顔。
よくまあ、笑顔が作れるものだ。本心からの方がましに思える。
だが、これはきっと重要なことなんだろう。
生き抜くために。強者に媚びることは。
当番を織谷に押し付けた女子生徒が織谷の机の上に上履きで立つ。
「えーい。」
体は僕から・・・・・・いや、運命から制御を離れた。
すっと立ちあがる。
その女子に近づき、降りてきたところを頭から牛乳をぶっかけた。
「やっぱり、君は馬鹿なんじゃない?」
いつもの公園で、隣でブランコに乗った織谷が笑う。
「なんだと?」
馬鹿と言われたことに腹を立てる。他人に言われるのはいいが、親しくなった人に言われると腹が立つ。
「君が言ったように、私は転校する。なのに私なんか助けるためにクラスで孤立しちゃってさ。」
「・・・・・・別に、見返りなんて求めていないよ。それに、得られたものは大きかった。僕自身は運命に縛られていない、ってね。」
「意味わかんない。・・・・・・ねえ、本当に未来が分かるの?」
「分かる。」
「二〇歳で死ぬの?」
「いや、今回の件でそれは防げそうかも……しれない。」
病気の場合は難しそうだが。しかし、『かも』などという言葉を使うと、自分も不安になってくるのだな。
「じゃあ、君のお嫁さんは君の予言を超える人が良いね。」
「どうして?」
「女の気持ちなんて分からない方がいいよ。うまく騙されてね。」
「なるほど。」
小学5年生で恐ろしいことを言うやつだな。
「しき・・・・・・愛佳。」
「ん?」
「詳しいことは分からない・・・・・・未来はどうなるか分からないが・・・・・・。死ぬかもしれないが・・・・・・」
「随分怖がりになったね。」
未来予知なんて意味のないことだ。だって、変えられないから。終わりがあることを知って、ずいぶん前から知っていたのに。どうして涙が出てくるのだろう。
「・・・・・・また会おう。」
「またね、優紀。」