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Samsara~愛の輪廻~Ⅱ  作者: 二条順子
9/18

09.愛しい我が子

新しい年を迎えた。

今年は暖冬の影響で長野地方も雪のない新年となった。

志津江は姉の快気祝いと新年会を兼ねた親戚の集まりに出席するため、

明日から泊りがけで千葉に出かける。甥夫婦が子供とディズニーランドへ

行くというので舞を一緒に連れて行くことになった。祝いの品や、

舞に持たせる土産物を買うため亜希は駅前のデパートに立ち寄った。

 

「亮ちゃん!? まあ、こんなに大きくなって…」

品物を見繕っていると初老の女性が亮に話しかけてきた。

木戸家の別荘の管理を任されている夫婦の妻、滝だった。

「滝さん、お久しぶりです」

「あら、亜希さん、すっかりお元気になられたようね」

入院中、知人の見舞いに来ていた滝と偶然出くわした。

「おかげさまで… 源蔵さんお元気ですか?」

「はい、丈夫なだけが取り柄ですから… そうそう、崇之さま、昨日こちらへ

おいでになりましたよ。亮ちゃん、またママといらっしゃいね」

「うん」

亮は嬉しそうに頷いた。

もう二度と会わない決心をしたはずなのに、崇之が別荘に来ているという

滝の言葉に亜希の心は揺らいだ。



翌日、亜希は下校した舞と亮を連れ長野駅に向かった。志津江とは新幹線の

ホームで待ち合わせていた。

「亮もいっしょに来ればいいのに。おばあちゃんもそう言ってるのに……」

舞は自分だけディズニーランドへ行くことに少し気が引けるようだ。

「亮はまだちっちゃいから迷子になったら困るでしょ。今度パパが一緒の時に

みんなで行こうね」

「うん、おみやげ買ってきてあげるね。亮、何がいい?」

「ミッキーマウシュ!」

亮は回らぬ舌で姉に言った。

「オッケー、分かった。ママは?」

「ママはいいから、思いっきり楽しんできてね」

「うん!」


志津江と舞を見送り、マンションに着くとすでに日はどっぷりと暮れ小雨が

降り出していた。エレベーターの前まで来て郵便物を取り忘れていることに

気づいた。「お手紙取って来るから、ここで待っててね。」 亮にそう言い

聞かせロビーの椅子に座らせた。そして、エレベーターの向こう側にある

メール室まで引き返した。請求書やダイレクトメールに混じって、差出人の

住所も名前もない亜希宛の封書があった。東京都内の消印が押してある。

不審に思ってその場で開封すると、コピー用紙の中央にワープロ打ちで

短い一文があった。

“貴女の夫、高村耕平と島崎杏子は不倫関係にある”

(まさか…)一瞬、亜希の脳裏に二人の姿が過ぎった。が、すぐに悪質な

悪戯だと思い、握りつぶしてバッグの中に押し込んだ。

ロビーに戻ると亮の姿が消えていた。辺りを見回したがどこにもいない。

マンションの出入り口は自動扉になっていて、入る時は暗証番号が必要だが、

出るのは小さな子供でも一人で簡単に出られる。

亜希は外へ飛び出した。さっきまでの雨が雪に変わっている。亮の名を呼び

ながら必死で探し回ったが見つからない。不安と焦りが次第に募っていく…


通りの向こうがやけに騒がしく人だかりができていた。

「子供が轢かれた! 救急車!」

亜希が駆け付けた時、亮は頭や耳から血を流し道路の上に倒れていた。



* * * * * * *  



崇之は安易に見合いをしたことを後悔していた。

相手の松宮麗子は名門女子大の仏文科卒、目下花嫁修業中、家柄も経歴も

申し分ない良家の子女である。母の雅子がたいそう気に入り積極的に

この縁談を進めている。イブのコンサートも雅子が勝手にセッティングし、

明日はここでの食事会に両親ともども招待しているらしい。

崇之は自分の意思とは無関係なところで事がどんどん運ばれていることに

困惑していた。亜希への想いを断ち切るための見合いのはずが、彼の心は

すでに大きく揺らいでいる。タクシーの中から目撃した光景が頭から

離れない。もし高村が本当に亜希を裏切っているのなら、彼女を諦める

理由がなくなる。お手伝いの滝から彼女が入院していたことを聞かされた。

コンサート会場で見た亜希はどこか淋しげだった。

崇之はピアノの前に座り鍵盤を指で弾じいた。ここで過ごした亜希との

濃密な時間が蘇る。彼女のピアノがもう一度聴きたい・・・


「崇之さま、さっきからずっと電話が鳴っていますよ」

「ありがとう、滝さん」

滝から受け取った携帯の着信履歴を見てすぐにかけなおすと、

亜希の取り乱した声が返ってきた。

「木戸君、亮が… ごめんなさい電話なんかして、車に轢かれて、

私のせいなの、高村と連絡が取れなくて… 亮が、」

「亜希、落ち着くんだ! どこの病院? 分かった、これからすぐ行く」

電話を切ると崇之は別荘を飛び出した。



病院に到着すると亜希は手術室の前のベンチでうな垂れていた。

「亮ちゃんは?」

「頭を強く打ってて、意識がなくて… 私がいけないの、亮を一人にして…

私のせいなの… 亮に、もしものことがあったら…… 」

目に涙を溜め亜希は自分を責め続けた。そっと肩に腕をまわすと崇之の胸に

顔を埋め、堪えていたものが堰を切ったように声を出して泣いた。

雪に濡れて冷たくなった身体が小刻みに震えている。


「お父さん、お母さんのどちらか、親戚、お知り合いの中にABRHマイナスの

方いませんか? 輸血が必要なんです!」

若い看護師が慌てた様子で二人に向かって早口に言った。

亜希が何かを言おうとする前に、崇之が立ち上がり看護師の後に続いた。

暫くして崇之が戻って来た。



「木戸君、ABRHーだったの!?」

亜希は信じれないと言う顔をした。

AB型RHマイナスは非常に稀な血液型で、日本人では二千人に一人くらいの

割合しかない。亮が生まれた時はじめてこの血液型の詳細を知った。

「ああ、けっこう珍しいからな…。それより、高村先生からまだ連絡ないの?」

息子が瀕死の重傷を負っているのに父親がこの場にいないばかりか、連絡すら

取れないことに崇之は憤慨していた。

「ずっと携帯がつながらなくて、メールも入れてるんだけど…。」

成都医大に電話をしたが、耕平は定時に病院を出ていた。常泊しているホテル

にも今夜はまだチェックインしていない。耕平はいったいどこで何をしている

のだろう。夫と連絡が取れないことに亜希は苛立った。

「どこか、先生の立ち回りそうなところに心当たりは?」

亜希は首を横に振った。が、少し考えてからバッグの中の例の封筒を取り出し

崇之に渡した。

「ここかもしれないわ……」

感情のない醒めた言い方だった。

最初は単なる悪戯だと思ったが、無言電話の件もあり、今はもしかしたら

と言う気持ちになっていると、亜希は淡々と話した。

タワーマンションから出てきたあの男女の姿が崇之の脳裏に鮮明に甦った。

そして、高村の亜希への裏切りを確信した。


手術中を示す赤いランプが消えた。ドアが開き中から険しい表情の医師が

出て来た。

「手術は一応、無事に終わりましたが… 非常に危険な状態です」

と言うと一礼して引き揚げて行った。

亜希はその場に崩れそうになるのを危うく崇之に抱き留められた。



* * * * * * *  



耕平は東京発最終の「あさま」に飛び乗った。

イブの夜の埋め合わせにと杏子にせがまれ都心のホテルへ食事に行った。

携帯をうっかり彼女のマンションに置き忘れ、気付いた時はすでにタクシー

の中だった。九時前になってようやく亜希のメールで亮の事故を知った。

今しがた担当の医師と直接連絡が取れて詳しい説明を受けた。

頭部を強打したことによる脳挫傷、及び頭蓋底骨折だった。脳内にかなりの

出血と浮腫があり、大部分は手術で摘出したが、依然として昏睡状態が続き

予断を許さない状態だった。担当医は耕平が脳神経外科の専門医だとわかると

患者の父親であることも忘れ、自分の所見を率直に述べた。


耕平は座席のシートにもたれ目を閉じた。

家にいるといつもまつわりついてくる亮の姿が瞼の裏に浮かぶ。

例え一命を取留めたとしても、二度と再び、あの愛くるしい笑顔を見ることは

ないだろう。父子で楽しむはずだったキャッチボールも、サッカーも、釣りも、

キャンプも、・・・

目頭を押さえながら耕平はふーと大きく息を吐いた。



麻酔が覚めても亮の意識は一向に回復の兆しを見せなかった。

「ごめんね亮。ママがいけないの、あなたを一人にしたばっかりに…

亮、お願いだから目を覚まして…」

小さな手を握りしめ、物言わぬ子にずっと語りかける亜希の姿が痛々しい。

崇之はなす術もなく、そんな彼女を傍で見守るしかなかった。

やっと連絡が取れ、高村は最終の新幹線でこっちへ向かっているという。

顔を見れば殴りかかりそうで、できれば彼がここへ来る前に病室を出たい

と思った。だが、今の亜希を一人にすることはとてもできない。


深夜近くになってようやく高村が病室に着いた。亜希の傍に崇之がいる

ことに少し驚いたようだが、すぐに息子の枕元に駆け寄った。

「亮、遅くなってゴメンな、なんでこんなことに…」

高村は絶句した。

「…母親が付いていながら、どうして亮をこんな目に… 」

自責の念で打ちひしがれる妻に追い打ちをかけるような残酷な言葉だった。

崇之は思わず拳を握りしめた。これ以上ここにいると、本気で高村を

殴りそうで、黙って病室を出た。


「亜希、遅くなってすまなかった。…さっきは酷いことを言ってしまって、

本当に悪かった」

変わり果てた息子の姿を目の当たりにして、つい口走った妻への

暴言を詫びた。


「木戸さんに、世話かけたみたいだね」

耕平はさっきまでいた木戸の姿が見当たらないのに気づいた。

木戸が何故ここにいたのか、間接的に聞くような言い方になった。


「あなたと全然連絡が取れないし、お母さんも千葉に行ってるし、

どうしていいかわからなくて木戸君に電話したの。きのう駅前で

お手伝いさんに会って、こっちに来てること聞いていたから。」

亜希の言葉の中に(あなたさえもっと早く来てくれたら、また

疑われるような真似はしなかったわ!)という夫に対する強い非難と

抗議の気持ちが表れている。

「そっか… 礼も言わずに悪いことしたな…」

耕平は心底そう思った。

「…お義母さんには知らせたの?」

志津江は亮のことを実の孫、いや、それ以上に可愛がっていた。

亮の容態を考えると一刻も早く、志津江と舞に逢わせてやりたい。

「いいえ、まだ… 耕平さん、お母さんや舞に知らせるの明日の夜まで

待ってほしいの。ディズニーランド、明日なの… 」

亜希は今日別れ際に舞と亮が交わした会話の内容を伝えた。

「…亮、お姉ちゃんがミッキーマウスのぬいぐるみを買ってきて

くれるのとっても楽しみにしてた。だから、きっと、舞が帰って

来るまで頑張れると思うの……」

あとは涙で言葉にならなかった。



結局、亮は意識が戻らないまま志津江と舞が来るのを待っていた

ように、二人が千葉から駆けつけた後すぐに息を引き取った。

三歳の誕生日を目前にした短い一生だった。

小さな棺の中には、約束通り姉が買ってきてくれたミッキーマウスの

ぬいぐるみが納められた。







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