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Samsara~愛の輪廻~Ⅱ  作者: 二条順子
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08.聖夜の再会

東京の夜景をタクシーの窓越しにぼんやりと眺めていた。

成田からスムーズに流れていた車が、都内に入るや否やひどい渋滞に

巻き込まれた。この分だと世田谷の自宅までまだかなりかかりそうだ。


「お客さん、お疲れのところ申し訳ないです。師走に入ってから、

忘年会やなんかが増えたんですかねぇ、金曜の晩はずっとこうですよ」

空港からの上客に初老の運転手は愛想が良かった。

「かまいませんよ、別に急ぎませんから」

そう言うと崇之はシートにもたれ目を閉じた。


家路を急ぐような気分ではなかった。

  --「とても良いお話なのよ。相手のお嬢様、小さい頃からピアノを

     習ってらして、あなたともきっと気が合うと思うの。お父様も

     あれ以来、気弱になられたみたいで、あなたの将来のこと

     とても心配なさってるの…。」--

母親からの話を始めのうちは強硬に拒んでいたが、父の事を思うと心が痛んだ。

父の祥吾は、自分が引退するするまで好きな事を存分にやれば良いと、崇之の

音楽に理解を示してくれている。そんな父が倒れて以来すっかり弱ってしまった。

もう一つ、崇之に帰国を決心させた理由がある。

この半年間、儘ならぬ恋を忘れるため崇之は悶々とした日々を送っていた。だが、

亜希への想いは募る一方。このままではいけないと、彼女への想いを断ち切る

ためにも今回の見合い話を受け入れることにした。


突然、タクシーが急ブレーキをかけた。

「すいません、前が急に停まりやがって!」

前の車が赤信号で急停止したため、危うく追突しそうになった。

崇之は我に返って窓の外を見た。一帯に高層マンションが立ち並んでいる。

その一角から一組の男女が出てきた。女は男にぴったりと寄り添っている。

街灯の下で明るく映し出された男の顔を見て、崇之はあっと小さな声を上げた。

信号が青に変わり車が動き出した。

一瞬ではあったが、あれは確かに、高村耕平だった。女はもちろん亜希ではない。

二人は一見して只ならぬ関係と分かる男女だった。


『今、あなたに抱かれたら、私は……』

別れ際に残した亜希の言葉がずっと耳元から離れない。

彼女の肌のぬくもり、髪の匂い、息遣い… たまらなく恋しい。

人妻であるがゆえに、苦しめたくないがために、あの日以来ずっと彼女への

想いを封印してきた。それなのに、高村は亜希を裏切っているというのか・・・

崇之の身内に言い知れぬ激しい感情が湧き上がった。



* * * * * * *



杏子との “不本意な不倫関係” は順調に続いていた。

耕平が週一回のマンション通いを怠らない限り杏子の機嫌は良かった。

安定期に入ると彼女の食欲も性欲も増大した。亜希のような華奢な体形とは

異なり、もともと上背もあり肉感的な杏子の身体はすでに服の上からでも

はっきりと妊娠が確認できる。


「今日ねえ、検診に行って面白い話、聞いちゃった」

大きなドーナッツを頬張りながら聞きたい、と言うように耕平の顔を覗き込んだ。

彼女がどこの病院に通院しているのかさえ耕平は知らない。

「どこで、産むつもり?」

「奥寺レディースクリニック。ほら、知ってるでしょ、広尾にある

奥寺総合クリニック?」

耕平はあっと声を上げそうになった。それは、亮の実父、奥寺拓也の父親が

経営する病院である。拓也のことは耕平以外は誰も知らない。志津江にさえ

亮の実の父親の名は明かしていない。それにしても、あそこを選択するとは

杏子らしいと思った。

「ああ、あのセレブが通うとかいう、ゴージャスが売りのところだろ。」

「そうそう、耕平、案外詳しいじゃない。あそこの院長の奥さんって、

例の木戸家の娘らしいわ」

「どういうこと? 三人姉妹じゃなかったのか?」

「何でも、先代が外に作った子供らしいわ。そういう訳アリの娘だから

かなりの額の持参金付の結婚だったんじゃないの。あそこの資金源の

バックは木戸財閥だったのね…。」


杏子の話を頭の中で整理した。

木戸崇之と奥寺拓也の母親同士が姉妹なら、二人は従兄同士ということになる。

ということは、つまり、亮と崇之は血が繋がっている? だとしたら、

杏子がいつか口にしたように、亮が崇之に似ていても不思議はない、なぜなら、

二人は同じ遺伝子を共有しているのだから。もしかしたら、亜希は崇之の中に

かつての恋人の面影を見ていたのか・・・

(ダメだ、ダメだ、俺はまた同じ過ちを繰り返そうとしている…)

耕平は慌てて首を大きく左右に振った。


「へえー、そうなのか。 ところで、再来週なんだけど…」

杏子がこれ以上木戸の話を蒸し返さないよう話題を変えた。

「再来週って、クリスマスイブ?」

今年のイブ、つまり耕平と亜希の三回目の結婚記念日はちょうど二週間後の

今日になる。

「その日は、ちょっと無理みたいだ。クリスマスの日に子供たちをディズニー

ランドへ連れて行く約束、ずっと前からしてたから。そのつもりで金曜の晩は

ホテルも取ってあるし…。」

耕平は恐る恐る杏子の反応を伺った。

「せっかくイブの夜は豪華なディナーでも、と思ってたのに…

ま、子供との約束じゃ、しかたないか…。」

「わるい、この埋め合わせはするから!」

口を尖らす杏子に手を合わせ拝むような格好をした。


実は、耕平には別のプランがあった。

その日は志津江に子供たちを預け、亜希と二人で結婚記念日を祝うつもりで

いる。クリスマスコンサートに行き六本木のホテルで食事をし一泊するーー

三年前、亜希と初めて結ばれた夜と同じコースだ。

こんなことは口が避けても杏子には言えない。だから、ディズニーランド行き

をあっさり了承してくれたことに内心ほっとした。



* * * * * * *



クリスマスイブ、耕平は三年前と同じコンサートホールに来ていた。

亜希は今日も先に来てロビーで待っていた。

あの日、眩いばかりの彼女の若さに戸惑い、すぐに声がかけられなかった。

耕平はあの時と同じように大理石の柱の陰から妻の姿をそっと眺めた。

この日のために新調したベルベットのドレスに身を包んだ亜希は輝いていた。

真紅のドレスは彼女の肌の白さを強調し、同色のルージュが整った顔立ちを

いっそう際立たせている。

三年の歳月は確実に、完全に、彼女を蛹から美しい大人の蝶に変身させた。


「ごめん、待った?」

「ううん、ひと足ちがい、私も今着いたところ」

「そっか」

「でも、このチケットよく取れたわね。高かったでしょ?」

「大丈夫、クリスマスとアニバーサリーのダブルのお祝いだもんな」

この半年、心労を重ねた妻へのせめてもの労いと感謝の気持ちだった。

「亜希…」

「?…」

「綺麗だよ、すごく良く似合ってる」

「え? ありがと…」

夫の突然の言葉にはにかむように微笑んだ。

「で、子供たち、大丈夫?」

耕平は照れを隠すように話題を変えた。

「お母さん、ケーキとフライドチキン買って早めに来てくれたの。

枕元に置くプレゼントも準備できてるし明日の朝、二人ともきっと

大喜びよ。お母さんにも何か素敵なプレゼント買って帰らないとね。」

「そうだな」

今夜の二人のために志津江は孫たちの子守を快く引き受けてくれた。


開演十分前のベルが鳴った。同時にバイブレーターモードに切り替えて

おいた耕平の携帯が胸ポケットで動いた。

(いったい何なんだよ!?)

発信先を確認すると、亜希に先に行くように促しロビーで電話を受けた。

「もしもし耕平、今すぐ来て!」

ヒステリックな杏子の声だった。

「どうしたの?」

耕平はうんざりとした口調で言った。

「クリニックに行ったら、血圧が高くて少し尿タンパクも下りてるから、

今夜は大事をとってこのまま入院した方がいいって言われたの…。」

典型的な妊娠中毒症の初期症状である。あれだけ不摂生を重ねれば

当然かもしれない。

「おとなしく病院のベッドの上で安静にしてれば大丈夫だよ」

杏子を宥めるように言った。

実際、万全の医療スタッフに囲まれているのだから心配する事はない。

こんな事くらいで、妻との大切な記念日を台無しにされてたまるかと、

大声で叫びたくなった。

「お願い耕平、すごく不安なの… 今夜だけでいいからそばに

付いてて、ディズニーランドは明日なんでしょ?」

杏子に嘘をついていることをすっかり忘れていた。

「とにかく、また後で連絡するから」

電源を切りホール内に入ろうとした。が、急に足が止まった。


耕平はこの数週間、自分の気持ちの中に変化が生じているのを感じて

いた。それは杏子に対してではなく、お腹の子供に対してである。

妊娠を聞かされた時、正直おぞましいとさえ思った。だが、杏子の

腹が迫り出し胎動が始まり、自分の分身がそこに確かに存在すると

いう事実を目の当たりにして、その子に対する愛情が芽生え始めた。

亮の時は、血の繋がりはなくても愛する女の分身として愛おしむ

ことができた。母親は誰であれ、この子は血を分けた、まぎれもなく

自分の分身である。耕平はすでに、生まれることなく二人の息子を

失くしている。

杏子のように高齢出産の初産で妊娠中毒症になった場合、確かに

流産や早産のリスクは高い・・・


「すまない、急患なんだ。あとで電話する」

亜希の耳元にそう言い残し耕平はコンサート会場を後にした。



* * * * * * * * 



亜希はロビーのソファに座り夫からの連絡を待った。

コンサートが終わった直後は着飾ったカップルたちで賑わっていた

ロビーも、それぞれのイブの夜を過ごすため皆足早にホールを後に

した。今はひっそりと静まり返り、色とりどりのオーナメントで

飾られた大きな樅ノ木のツリーだけが、誇らしげにロビーの中央を

陣取っている。


携帯の着信音が鳴った。

「そう… じゃ、しかたないね。いいわよ、お仕事なんだから、

そんなに気にしなくても…。」

緊急オペになり今夜の食事は無理だと言う。

(それはないでしょ!)と言いたいことろだが、すまなそうに何度も

謝る夫にそれ以上何も言えなかった。イブの夜に一人でフルコースの

ディナーなんて侘しすぎる。こんなことなら、家で子供たちとチキン

とケーキのディナーにすればよかった・・・

亜希はふーと小さな溜息を漏らした。

ソファから立ち上がった時、ツリーの向こうで誰かがこっちをじっと

見つめているのに気づいた。互いの視線が合った。

亜希は金縛りにでもあったようにその場に立ち尽くした。

崇之の唇が「アキ」と動き、ゆっくりとこちらに向かって歩き出した。

それを制止するように、背後から若い女が突然彼の名を呼んだ。

崇之は振り返ると、そのまま出口の方へ消えて行った。



亜希はレストランの予約をキャンセルした。

チェックイン済みのホテルに戻りルームサービスで簡単な夕食を取った。

テーブルの上に耕平がリクエストしておいたのだろう、シャンペンの

ボトルとメッセージ付の薔薇のブーケが置かれている。

「Happy Aniversary!」と印刷された文字が亜希の目に空々しく

映った。

ホテルを出て小雪の舞い散る夜の街をどこ行くあてもなく歩いた。

クリスマスカラー一色に塗り替えられた街は活気に満ち溢れている。

街路樹のイルミネーションが闇の中で暖かい光を放ち、幻想的な世界を

創り出している。聖夜を恋人たちが肩を寄せ合い語らいながら行き交う。

同じ空間にいながら自分一人だけが取り残されているような、寂しさと

惨めさが込み上げてくる。

バッグの中の携帯が鳴った。画面に「木戸崇之」の名前が表示された。

彼の番号を消去していなかったことに初めて気づいた。

亜希は躊躇った。が、着信音はなり続ける・・・


「もしもし…」

「亜希、今、大丈夫かな?」

耕平がそばにいないことを確かめるように言った。

「ええ…」

「さっきは驚いたよ」

「私も… 木戸君、日本に帰っていたんだ」

「うむ… 亜希、元気だった?」

「……」

この半年間のことが胸に去来し言葉に詰まった。

「もしもし?」

「ええ… あなたの方は?」

「……」

崇之はそれに応えようとせず、長い沈黙が流れた。


「…逢いたい」

その一言に凝縮された崇之の切ない想いが、彼の息遣いと伴に電話の

向こうから伝わって来る。亜希の心は高鳴り、思わず、(私も)と言い

そうになるのを必死で堪えた。

「私たち… もう、逢わないほうがいいわ、逢ってはいけないのよ」

自分自身に言い聞かせるように言うと亜希は電話を切った。

胸の奥に大切にしまっておいた感情が一気に溢れ出し頬を伝わった。



* * * * * * * 



ホテルの部屋に着くと深夜を廻っていた。

耕平はひどく疲れていた。そばを離れようとするとヒステリックに

興奮し、血圧を上昇させる杏子の腕を振り切って帰ることもできず

結局、妻との大切な夜を台無しにしてしまった。

携帯にメールが入っていた。

  「お疲れさま、ホテルに戻ったら今夜はゆっくり休んでね。

   薔薇の花束ありがとう!」

彼女の優しさが今の耕平には辛かった。杏子のように感情を露わに

責め立てられたほうが、ずっと楽かもしれない。

亜希を誰よりも愛している。彼女を絶対に失いたくない。

杏子との間には初めから愛だの恋だのという感情は存在しない。

幸福な結婚生活の中でふと、魔が差したとしか言いようがない。

あくまで浮気のつもりだった。だが本気ではないとからといって

不倫が許されるわけはない。現に今も不本意とはいえ、週に一度

杏子を抱き、亜希を欺いている自分に激しい嫌悪感を抱いている。


耕平はベッドに潜り込み、小さな子供が母親に甘えるように、

自分の身体を背を向けて眠る亜希の身体にぴったりと密着させた。

洗いたての髪の匂いフローラル系の甘い香りが耕平を優しく包む。

何もかも忘れ、今はただ、妻の肌のぬくもりを感じながら朝まで

ぐっすりと眠りたかった。




日に日に醜く崩れていく自分の体形を鏡で見ながら、杏子は大きな

溜息をついた。体重が急増し浮腫みのせいで自慢の足が象のように

腫れている。耕平を自分のものにする最後の手段として選んだ

苦肉の策とはいえ、予想以上に辛い妊婦の現実に辟易している。


杏子はもともと子供が苦手で、自分の子供を欲しいと思ったことなど

なかった。だが、子煩悩な耕平が自分と血を分けた子供の存在を知れば

必ず気持ちが傾くという確信があった。現に少しづつ彼の態度に変化が

生じている。幸いなことにお腹の子は男だった。亮がいくら愛する女の

子供とはいえ所詮は他人の子、遺伝子を共有する実の息子に適うわけが

ない。はじめの計画では、子供が生まれてから認知を要求するつもりで

いた。が、杏子の中でも我が子に対する気持ちの変化が現れてきた。

血縁関係のない亜希の子が戸籍の上では耕平の実子で、自分の子が

私生児扱いされるのはどうしても納得がいかない。

(計画を変更しなくちゃ……)杏子の口元から不敵な笑みが零れた。










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