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Samsara~愛の輪廻~Ⅱ  作者: 二条順子
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04.ときめきの時間(2)

亜希の “秘密の花園” 行きがスタートした。

金曜午後の二時間、それは亜希にとってまさしく至福の時だった。

主婦であり母であることに不満はない。ただ週に一度、生活感のない

非日常的な空間で、音楽に浸って過ごす豊潤なひと時ーー

それは、疲れた肌に高価な美容液を一滴垂らすと、翌朝しっとりと潤いを

取り戻してくれるように、毎日の生活でちょっとくたびれた心と身体を

リフレッシュし活力を与えてくれる。

病院のボランティアで出会った子供たち、亜希のピアノを瞳を輝かせ

聴いてくれたあの子たちが、ピアノを弾く喜びを教えてくれた。

崇之は、忘れかけていたその喜びを再び亜希の中に呼び戻してくれた。


「じゃ、あっちにいるから、適当にやってて」

崇之はそう言うと、いつも三十分ほど姿を消す。亜希が気を遣わずに

自由に弾けるようにとの、彼のやさしい心遣いだった。そして、

頃合いを見計らって珈琲や紅茶、クッキーなどを携えて戻って来る。

それから、取りとめもない雑談がはじまる。海外での苦労話や失敗談など

面白おかしく聞かせてくれる。あとは、彼のバイオリンの伴奏をしたり、

美貴が遺した楽譜のコレクションの中からピアノとバイオリンの為の曲を

選んで合奏したり・・・

時間はいつもあっ、という間に過ぎて行く。

母の厳しいレッスンが始まった幼い頃から音大を中退するまで、こんな風に

純粋に音楽を楽しんだことは一度もなかった。



崇之のところへ来るようになって半月余りが過ぎた頃だった。

「なーんか、きょうはイマイチ乗らないなあ…。」

ずっと窓際の揺り椅子に座ったまま雑誌を捲っている。

バイオリンに触れようともしない。気分に左右されるなんて、彼はやっぱり

芸術家なんだ、と亜希は変に感心していた。手持ち無沙汰だが、一人で

ピアノを弾く気にはなれない。崇之の前での独奏は、やはり気後れがする。

彼がその気になるまで読書でもと、書棚を物色した。

木戸美貴はかなり本格的にピアノをやっていたようで、専門書をはじめ、

ピアノに関する書物が本棚の中にぎっしりと詰まっている。その中の一冊に

目が留まった。五年前に行くはずだった、イタリアの音楽アカデミーの写真が

表紙を飾っている。

(もしあの時、留学していたら…… 拓也に出逢うことも、耕平と結婚すること

もなかった。いったい、どんな人生になっていたのだろう… )

本を手にしたまま亜希は宙をみつめた。


「今ごろ、どうなっていたと思う?」

いつの間にか崇之が後ろに立っていた。亜希の心の中を見透かすように言った。

「さぁ… でも、子持ちの主婦ってことは絶対にありえないな。一流の

ピアニスト? それもないか… たぶん、自分の才能に絶望して、挫折を繰り

返し、生活は貧乏のどん底、日本に帰るにも帰れず、淋しく夜の街角に立って

いる、ってとこかな」

崇之は思わず噴き出した。

「すっごい、想像力だなあ。 けど、娼婦の亜希なんて、それこそゼッタイに

ありえない!」

「それって、女としての商品価値がゼロってこと?」

崇之は大げさに大きく頷いてみせた。

「ひどーい!」

亜希は口を尖らせた。コンサバトリーの中に二人の笑い声が響く。

崇之といると、なぜかほっとする。学生時代に戻ったような、自分が自分らしく

背伸びしないで自然体でいられる。


「これから、ドライブしようか!」

「え?」

突然のことに亜希が驚いていると、「ベビーシッターにはもう延長の了解取って

ある。舞ちゃんは今夜“お泊り”だろ。今からだと、どこがいいかな……」

亜希に有無を言わせず、ガイドブックを取り出しさっさとページを捲っている。

さっきまで気分が乗らないと、気難しい音楽家の表情を見せていたのに。

もしかしたら、今日は最初からドライブに行くつもりだったのかもしれない。

だとすれば、芸術家どころかたいした役者だ、と亜希は可笑しくなった。

「今からじゃ、あんまり遠出できないから… 軽井沢くらいだな。

旧軽に南仏料理の旨い店があるんだ、どう?」

「旧軽井沢か… 確か、堀辰夫の小説に出てくる古い教会があったよね。

見てみたいなあ」

「よっし、じゃあ、決まりだね!」

すっかり崇之のペースにはまった感じだが、五月晴れの空の下、風を切って

走ればさぞかし爽快だろう・・・

亜希は満更でもなかった。



* * * * * * *



亜希は最近、生き生きとしている。“週一の別荘通い” がそうさせているのは

明らかだ。そのことをつい、ベッドの中で杏子に漏らしてしまった。


「気をつけたほうがいいわよ」

「?…」

「私たちと違って、若い二人はいったん火がつくと、始末に負えなくなるかも。 

特に音楽だの文学だのという抽象的な世界にいる人たちって、感性とか感情で

精神的に強く結ばれちゃうから、肉体関係だけの男女よりずっと厄介なことに

なるわよ。太宰?有島?だっけ、軽井沢の別荘で不倫の果てに心中したの… 

来月、御曹司ヨーロッパに戻るそうじゃない、恋の逃避行、なーんてことに

ならないよう、お気をつけあそばせ!」


耕平の気持ちを刺激し動揺するのを楽しむように杏子は言う。

確かに、近ごろ亜希がふと見せる表情の中に、恋する女を感じることがある。

気のせいだと思っていたが、杏子に指摘されると、逃避行はともかく彼女の話も

満更当たってなくはないかもしれない・・・

   ーー均整の取れた綺麗な姿態、小ぶりだが形の良い乳房、

   透明感のある瑞々しい素肌… その裸体が夫以外の男と

   重なり縺れ合う… 恍惚とした妻の顔… ーー

想像しただけでも我慢ならない。ありえないと思っていた亜希の不倫がにわかに

現実味を帯びてきた。耕平はベッドから起き上がると、気持ちを落ち着かせる

ように冷蔵庫の缶ビールを一気に呷った。


「今日は帰るよ」

耕平はそそくさと帰り支度をはじめた。

「やっと、予約が取れたのに、あの店いつも二か月待ちなのよ……」

杏子は唇を尖らせた。

(ちょっと、刺激が強過ぎたかな…)仕方ないと言うように自分も身支度を整え、

二人は別々にホテルを出た。




マンションのエントランス前に外車が横付けされている。

運転手に「ここで、いいよ」と言って少し手前でタクシーを降りた。

腕時計を見ると、九時をちょっと廻っていた。

車の助手席のシートを倒し後部座席から眠っている子供を抱き上げる男の

姿が見えた。続いて若い女が降りてきた。男は子供を女に返すと運転席に

戻りウインドーを下し、二言三言短い会話を交わした。女が軽く手を上げると、

それに応えるように男のBMWは小さく警笛を鳴らし、ゆっくりと闇の向こうに

消えて行った。


今追いかければ、マンションの中に入った亜希をエレベーター前で捕える

ことができる。が、耕平は立ち止まったまま煙草を取り出し、思案する

ようにゆっくりと一服した。何か見てはいけないものを見てしまったような

嫌な気分だった。これがもし、決定的な不倫現場を目撃したというなら、

堂々と妻を詰問することもできる。だが、今目にした光景は、妻が男友達に

車で家まで送ってもらっただけのことで、時間も際立って遅いわけではない。

が、何か釈然としない。このまま家に帰り、何も見なかったように普通に

振るまえば良いのか、見たことを告げ妻の反応を伺うべきか・・・

決めかねるように、耕平は二本目の煙草に火をつけた。


呼吸を整えるようにひとつ大きく息を吐き、ドアのチャイムを押した。

覗き穴で確認したのか、亜希はドアを開けると同時に、「あれ、今夜は泊り

じゃなかった?」と、少し驚いた様子で言った。

「急に飲み会中止になってね」

「そう、じゃあ電話してくれればよかったのに」

「新幹線に乗る前に、留守電に入れておいたけど… 」

耕平はリビングの電話に目を遣った。

「ごめんなさい、まだ見てなかった… ついさっき帰ったばかりなの。」

亜希は一瞬、あっという表情を見せたが、動揺した様子もなく言った。

「どっか出かけてたの?」

さりげなく聞いた。

「実はね、木戸君と亮と三人でピザ食べに行って、さっき下まで送って

もらったとこなの。駅の向こうにあるお店なんだけど、週末は混むみたいで、

けっこう待たされちゃった」

亜希があっさり木戸に送ってもらったことを白状したので、耕平はちょっと

拍子抜けした。それにしても、駅前のピザ屋までBMWのコンバーチブルを

走らせるなんて、金持ちのお坊ちゃんのすることは違う。

「お腹空いてる? それともビールにする?」

「いや、駅弁食ったし、なんか疲れたからシャワー浴びて、もう寝るよ」

さっきまでの緊張感から解き放たれると、耕平はどっと疲れを感じた。


疲れているはずなのに目が冴えてなかなか寝付けない。マンションの前で見た

光景が目の前にちらつく。

二人はあの別荘の中で本当は何をしているのだろう。詳しくは知らないが、

ピアノがある場所は、母屋とは離れたアトリエのような独立した空間らしい。

別荘には常時、管理を任されている初老の夫婦と若いお手伝い、それに

亮のために派遣のベビーシッターがいる。とは言え、二人は密室状態の中に

いる。ピアノとバイオリンの合奏ーーそれは互いの心と身体を一体化させ、

高揚させる最高の前戯となりうるだろう・・・

絡み合う二人の姿が耕平の脳裏を過ぎる。心臓の鼓動は激しく高鳴り、

身体中が汗ばむ。すでに股間のものは硬くなっている。

たまりかねたように、背を向けて眠むる亜希の身体を背後から荒々しく求めた。

それはまるで、夫を裏切っている妻への無言の抗議、制裁を加えるかのような、

妻の意思も感情も無視した一方的な行為だった。



* * * * * * * 



いよいよ別れの日が来た。

崇之は明日の朝、東京へ戻り夕刻の便でヨーロッパへ発つ。

最後の夜はお礼の意味も込めて、どこか静かな場所でゆっくり食事がしたい

と言っていた。耕平は朝から体調が優れず病院を休んで家にいる。

病気の夫を放っておいて食事に行くわけにもいかず、別れの挨拶をするため

亜希は別荘を訪れた。


「ごめんなさい、ドタキャンしちゃって」

「残念だな、亜希と “最後の晩餐” できなくて。けど、まっ、しょうが

ないか、(君はもう人妻だから)」

最後の言葉を飲み込み、崇之はいつもの笑顔を浮かべた。

「この一か月、ここへ来て、ピアノを弾かせてもらって、あなたとお喋り

したりお茶したり、なーんか、夢の中にいたみたい… 」

亜希は遠くを見るように庭に目を遣った。

ついこの間まで初夏の太陽の下で色鮮やかに咲き誇っていた薔薇たちが、

今は六月の雨に濡れて寒そうに震えている。

「…木戸君、ほんとうにありがとね。あなたから素敵な時間をもらったのに、

何もお返しできなくて… その代りって言うのも変なんだけど、最後にもう一度、

聴いてくれる?」

いつかの夜、公園で崇之がしたように、「Just for you」と言って、

亜希はピアノに向かった。


すらりと伸びた綺麗な指が鍵盤の上で軽やかに舞う。その繊細で力強い動きに

よって奏でられる7オクターブの音色は、まるで本物の鐘の音のように美しく、

コンサバトリー中に響き渡った。

リストがピアノ独奏用に編曲した “ラ・カンパネラ”は、鐘の音を表現した

煌めくような高音部の美しい曲だが、何度も繰り返される2オクターブの

跳躍などピアニストに高度な技巧が要求される難しい曲でもある。

五年前、この曲で亜希は幻の“イタリア留学”を手にした。あの時会場にいた

崇之は鳥肌が立つような感動を覚えた。あの頃の彼女のピアノはこれでもか、

これでもかというくらい挑戦的で力強く、聴く者の心に迫ってくるものがあった。

当時のような迫力こそないが、今はその分、角が取れたような優しさがある。

何年もピアノから遠ざかった生活をしているとはとても思えない。

そんな彼女の才能を捥ぎ取ったあの理不尽な理事会の決定に、崇之はあらためて

激しい怒りを覚える。

最後のクライマックスを迎え四分半の演奏が終わった後も、崇之は余韻を味わう

ように目を閉じ暫く動かなかった。亜希も渾身の力を出し切り、放心したように

ピアノの前から離れようとしない。


「君の“ラ・カンパネラ”は今でも凄いよ!」

高揚を抑えきれないように椅子から立ち上がると、亜希の背後に歩み寄った。

そして、彼女の身体にゆっくりと腕をまわし「ずっと好きだった」と囁いた。

熱い吐息を感じた亜希の身体はぴくりと動いた。間髪を入れず、崇之の唇が

耳たぶからうなじの辺りを容赦なく這いまわる。堪り兼ねたように亜希の

口から嗚咽が洩れた。崇之は亜希の身体を抱き寄せ激しく唇を奪う。

「君が欲しい…」これまで封じ込めていた想いが堰を切ったように一気に溢れ

出し高まる感情をもはやどうすることもできない・・・



「ダメよ! 今あなたに抱かれたら、私は、もう……」

あとに続く言葉を自ら遮るように、力いっぱい崇之の身体を押し退けた。

そして、「さようなら、木戸君」と言い残し亜希は “秘密の花園” を飛び

出した。








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