03.ときめきの時間(1)
木戸家の別荘でのガーデンパーティーは、庶民が庭で楽しむようなささやかな
バーベキューパーティーとは桁違いの、豪勢なものだったーー
一流ホテルのシェフが肉や魚介類を大きな炭火のグリルで豪快に焼き、目の前で
切り分けてくれる。外国人招待客を意識した焼き鳥や寿司の屋台もあり、職人が
注文に応じて江戸前寿司を握ってくれるーー
さながら、在外日本大使館や総領事館の園遊会といったところだ。
子供同伴を心配していたが、庭の一角に遊び場が設けられ、保育士の資格を持つ
派遣のベビーシッターたちが、招待客の小さな子供の相手をしてくれる。
杏子の広告代理店は木戸グループの関連会社とも取引があるらしく、木戸一族の
事情に精通していた。何でも、現当主である崇之の父、木戸祥吾は婿養子らしい。
先代の崇正には男子はなく三人娘の長女、雅子が跡を継いだ。次女の節子は、
前政権で大臣まで務め上げた大物政治家の息子に、三女の妙子は、皇族とも血縁の
ある旧大蔵省の官僚にそれぞれ嫁がせている。旧態依然とした政略結婚が今もなお
続いているというわけだ。今回祥吾が倒れたことで俄然、二十六歳の若き後継者、
崇之の花嫁候補に注目が集まっているらしい。
「高村先生、その節は大変お世話になりありがとうございました。
先生がいらっしゃらなければ、今頃どうなっていましたことやら…」
「いいえ、すっかりお元気になられたようで何よりです」
「まあ、崇之の言う通り、ほんとうに素敵な奥様ですこと…。
どうか、ごゆっくりなさって下さいましね」
亜希のことを上から下までじろりと見て言った。
「今日はお招き頂きましてありがとうございます」
丁重に礼を言うと、軽く微笑みを返し慌ただしく次の客のところへ向かった。
雅子は根っからの社交家らしく寡黙な夫に代わって、招待客の間を蝶のように
飛び廻っている。
「まさに、“ソーシャルバタフライ” だな」
「ああいうタイプ、ちょっと苦手かも」
小声で囁くと亜希はくすっと笑った。
「?…木戸さんのお母さんとは初めてだったの?」
「ええ…」
亜希の話によると学生時代の崇之は、親しい友人でさえ自分の家や別荘に
招いたことはなく、家族の話をするのを極端に嫌っていたと言う。
貧乏人が自分の親や家のことを隠したがるのと同じ心理かもしれないと、
耕平は思った。
* * * * * * *
亜希が一人になるのを見計らったように崇之がそばにやって来た。
「見せたいものがあるんだ」と言って、いきなり亜希の腕を掴み走り
出した。
パーティー会場の庭から少し離れたところに、そこだけちょっと趣の
異なる一角があった。鉄製の扉を開け、足を一歩踏み入れると、そこは
まさしくバーネット夫人の小説 “秘密の花園” にでも出てくるような
イングリッシュガーデンだった。五月の暖かい光を浴びて、赤、白、
黄色の薔薇が咲き乱れ、甘い香りが辺り一面に立ちこめている。
花たちに囲まれるように白いフレームで縁取られた全面ガラス張り、
ヴィクトリアン調のコンサバトリーが半円状に突き出ている。
亜希は一瞬、英国の田舎町にでもいるような錯覚に陥った。
崇之に促され中に入ると、二十畳ほどのスペースの中央に、その存在感を
アピールするかのようにどっしりとした構えの年代物のグランドピアノが
置かれていた。かなり古いもののようだが、手入れが行き届いていることが
一目でわかる。
「三年前に亡くなった祖母が、とても愛したものなんだ…。」
いとおしむようにピアノに触れた。
崇之の祖母、木戸美貴は外交官だった父親の仕事の関係で少女期の大半を
英国で過ごした。幼少の頃からピアノをはじめ、亡くなる直前まで弾いて
いたという。晩年はこの別荘に移り住み、ここでアフタヌーンティーを
しながら崇之のバイオリンを聴くのを何よりも楽しみにしていた。
「何か、弾いてみて?」
「……」
亜希が戸惑っていると、崇之は、さあ、と言うように目で促した。
躊躇いがちにピアノに向かい小さな深呼吸を一つして、鍵盤の上に
十指を滑らせた。きちんと調律された古いピアノは、その外観からは
想像もつかないような美しい音を奏でる。
「凄いわ!」
感嘆の声を上げると、同時に手を止めた。
「続けて… 」
「ダメ、今の私じゃ、このピアノが可哀想…。」
亜希はピアノから離れ外の景色に目を遣った。そして、ふーと小さな溜息を
ついた。
「実は、頼みがあるんだけど……」
崇之はおもむろに切り出した。
「…来月にはヨーロッパに戻る。それまでの間、ここへ来て、昔のように
伴奏してもらえないかな?」
「ダメよ!そんなの絶対、無理!」
とんでもないと言うように亜希は首を左右に大きく振った。
「週に一回、一時間でいいんだ、君の都合のいい時に。高村先生は
確か、金曜は東京泊りだよね? 舞ちゃんが学校から帰るまでの間、
亮ちゃんは今日みたいにベビーシッターにここへ来てもらえばいいし。
頼む、このとおり!」
崇之は一気に捲し立てると懇願するように両手を合わせた。
「ち、ちよっと待って、木戸君。そういう問題じゃなくて、今の私じゃ、
とてもあなたについて行けないわ」
「君なら大丈夫、すぐに取り戻せる。さっきの聴いただけで僕には
わかるよ」
崇之の顔は真剣だった。
強く拒んだものの、家事や子育ての日常から離れ、こんなところで
ピアノが弾けるなんて夢みたいな話だと思った。
「亜希が言い出しにくいなら、僕から直接、先生に頼んでもいい」
崇之の真剣さに亜希の心は揺らいだ。
「ほんとうに、私でいいの?」
「君以外には考えられないよ」
「わかった。じゃ、高村には私から話してみる…」
その夜、耕平に昼間の話をした。夫がどんな反応を示すか不安だったが、
意外とあっさり「いい話じゃないか」と賛成してくれた。
毎日家事や育児に追われて大変なんだから、週に一度くらい自分だけの
時間を持つのは良いことだ、とも言ってくれた。
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亜希からその話を聞かされた時、正直ほっとした。
相変わらず杏子との関係は続いている。妻を裏切っている罪悪感から、
これで少しは解放されるような気がした。だがその一方で、何か漠然と
した不安もある。
今日、木戸邸で偶々耳にした招待客の会話のせいかもしれない・・・
ーー「あら、崇之さん、お相手お決まりになったのかしら。
綺麗な方ね。どちらのお嬢様か、ご存じ?」
「いいえ、でも、とてもお似合いね」ーー
二人の中年婦人が、亜希と崇之を遠目に見ながら話していた。
確かに二人は似合いのカップルだ。
崇之は音楽や文学をやる芸術家タイプにありがちな、少し神経質で繊細な
感じはするが、端正な顔立ちとすらりと伸びた肢体は、いかにも今風の
若者らしい。普段は化粧っ気がなく、Tシャツにジーンズというラフな
格好の亜希も、今日のように薄化粧をし花柄のワンピースなど着ると、
ぱっと人目を引く華やかさがある。とても子持ちの主婦には見えない。
妻を信じてはいるが、杏子と自分がそうであったように、男と女の関係
なんてちょっとしたきっかけで始まる・・・
亜希の前では理解ある夫の台詞を口にしながら、心底では妻の浮気を心配する
小心者の自分が、少しばかり可笑しくなった。