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Samsara~愛の輪廻~Ⅱ  作者: 二条順子
15/18

15.好きだから(2)

「崇之ったら、本当に信じられませんわ。きっと、あの女に誑かされているに

決まってますわ」

収入源を絶たれた息子からその後、何の音沙汰もないことに雅子は苛立って

いた。

「あんな虫も殺さないような顔をして、やはり “お里” は隠せませんわね。

あなた、この報告書をごらんになって… 私生児ですって、汚らわしいわ」

身震いするような大げさな格好をして、祥吾の前に亜希の身上調査書を

広げて見せた。美沙子が妻に愚弄されているようで祥吾は不快だった。


「わたくし、あすにでも葉山へ行ってみようと思いますの。少し纏まったものを

渡せば別れてくれるでしょう、きっと。崇之に同席されると困るので、あの子を

ここへ呼びつけていただけませんかしら?」

「いや、私が行って話をつけて来る」

美沙子に瓜二つの娘がこれ以上妻に侮辱されるのは耐え難い。

直接、亜希と言葉を交わしてみたいという思いもあった。


「なにもあなたがわざわざ出向いて行かれなくても… 

でも、そのほうがよろしいかもね。それじゃ、わたくしが崇之をここへ

呼びますわ」

いつになく夫が息子ではなく自分の味方に付いてくれることに、雅子は

満更でもない様子だった。





「とにかく行ってみるよ。もしかしたら僕たちのこと認める気になったのかも

知れないしな…」

話があるからと、母から突然自宅に呼びつけられた。

一向に降参しない息子に業を煮やし条件交渉にでも入るつもりなのか、

崇之は母の真意を測り兼ねた。


「あ、待って、私も下の店まで一緒に行くわ」

「やっぱ、車ないと不便だよな。」

「いいじゃない、運動不足にならなくて。お金のかからないエキソサイズだと

思えば」

崇之はついに愛車のBMWを売却した。

亜希は二人で腕を組んでこの坂道を歩くのが好きだが、彼が大の車好きで,

特にあの車に愛着を持っていたのを知っている。

こうして木戸家の経済制裁はじりじりと崇之を追い詰めていた。





坂道を上って家の前まで来ると急に激しい動機と息切れに襲われ、亜希は

堪らず玄関先でうずくまった。

「大丈夫かね?」

初老の男は心配そうに亜希の顔を覗き込んだ。

「ええ、もう平気です」

右手にステッキを持つその男が崇之の父、木戸祥吾だとすぐに分かった。

「ちょっと、中に入れてもらってもいいかね?」

亜希は慌てて玄関の鍵を開け祥吾を招き入れた。



「酷い親だと、思っているだろうね… 」

ソファに座った祥吾は眼下に広がる海を見ながら独り言のように呟いた。

その横顔は苦渋に満ちている。

「もうお分かりだと思うが、今日は君にお願いがあって来ました」

目の前の亜希に視線を戻すと、静かに切り出した。


「それ以上おっしゃらないで下さい。私、崇之さんとはお別れするつもりで

いますから… やっと決心がつきました」

きっぱりと言い放つ亜希に祥吾は困惑したような表情を浮かべた。

「どういう事か、聞かせてもらえるかな?」

亜希は頷くと、祥吾に背を向けるように窓際に立ち遥か彼方の水平線に目を

遣った。その美しい立姿に祥吾は絵画の中の女を見ているような気がした。


「私… 崇之さんのこと愛しています。それと同じくらい、いえ、もしかしたら

それ以上に彼のバイオリンが好きです。

もうご存知かもしれませんが、私の父は売れない絵描きでした。

理想と現実の間で苦悶し最後は自らの命を絶ってしまった。生活苦が父の才能も

人間性も蝕んでしまった。崇之さんは絶対に父のようになってはいけない。

でも、私がそばにいれば… 」

亜希は声を詰まらせた。

「…崇之さんのバイオリンの音色はすでに翳りを見せています」

亜希は窓際を離れ祥吾の前に跪いた。

「私は彼の前から姿を消します。だからお願いです、崇之さんにすべてを

返してあげて下さい」

目に涙を溜め懇願する亜希の姿に祥吾は込み上げてくる感情を押し殺した。


「崇之は決して承服しないだろう。そして君の後を追い続けるだろう… 」

「大丈夫です。彼は必ず木戸家に戻ります」

亜希はきっぱりと言った。

「君は、どうするの? 高村先生とは離婚したと聞いたが…。」

「私は… 私は、こう見えても結構タフなんです。一週間カップ麺だけでも

生きて行ける人間なんです。でも崇之さんには絶対無理ですよね…」

そう言うと、亜希は何かを思い出したようにくすっと笑った。


「…ごめんなさい。なんか、格好のいいことばかり言っちゃいましたけど、

もしかしたら、これが別れを決心した本当の理由かもしれません」

「ぜひ、聞きたいね」

「崇之さん、カップラーメンとカップ焼きそばの作り方の違い、

知らなかったんです。あっ、こんな事お話ししてもお分かりになりませんよね」

「知ってますよ。カップ焼きそばは、湯を入れた後小さな穴をこじ開けて湯切を

してからソースと青のりをいれるヤツでしょ?」

亜希は信じられないと言うように祥吾の顔を見た。

「私もかつては貧乏学生だったからね」

祥吾は人懐っこい笑顔を浮かべた。


「亜希さん、君はそれで本当にいいんだね?」

亜希が大きく頷くと、祥吾の顔から笑みが消え懐から封筒を取り出し

テーブルの上に置いた。

「手切れ金って、ことですか?」

亜希は顔を強張らせた。

「それはちがう! 気を悪くしないでほしい、だが君にもこれからの

生活がある。これだけは、ぜひ受け取っていただきたい」

祥吾は深々と頭を下げた。

「お気持ちは有難くいただきます。でも、これを受け取ったら、私は、

崇之さんを本当に裏切ったことになります」

亜希はテーブルの上の封筒を押し戻した。

その毅然とした態度に祥吾は封筒を懐に納めざるを得なかった。

「もし、私でできることがあれば、いつでも知らせてほしい」

名刺の裏に携帯電話の番号を記し亜希に手渡した。


「最後にもう一つ、お願いしてもいいかな?」

「?…}

「ショパンの夜想曲、弾いてもらえないだろうか、知っているよね?」

祥吾は窓際のピアノに目を遣りながら言った。

「ええ、母の好きな曲でしたから…」

意外な祥吾の言葉に亜希は戸惑いながらピアノに向かった。


郷愁を誘うような美しい旋律が流れる・・・

ピアノに向かう亜希の姿に祥吾はかつての恋人の面影を見ていた。










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