10.逃避行(1)
亮の葬儀からあっという間に一か月が過ぎた。
弔問に訪れる人の数も減り、昼間一人になると、どうしてもあの日の
事を思い起してしまう。
あの時、亮を一人にさえしなければ、あの封筒さえ開けなければ・・・
突然我が子を奪われた悲しみと夫への不信感で亜希の心は重く沈んでいた。
崇之に逢いたい。何度も携帯を握りしめる。が、そのつど思いとどまった。
今、崇之に逢ったら、闇雲に彼の胸の中に飛び込んでしまいそうで怖かった。
コンサート会場で彼の名を呼んだ若い女の存在も心に引っかかる。
「もしもし、亜希ちゃん、一緒にお昼しようと思って、今、駅まで来て
いるんだけど、これからそっちへ行ってもいいかしら?」
志津江は亜希のことを心配していろいろと気遣ってくれる。
今週末から姉の家に行く予定があり、ちょうど舞の小学校の開校記念日と
重なるので一緒に連れて行くという。
「あなたもいっしょに東京まで出て、耕平さんと美味しいものでも食べて、
ゆっくりしてくるといいわ。結婚記念日は散々な目にあった分、取り返して
いらっしゃいな」
イブの夜のことが頭を掠めた。
「じゃあ、お母さんのお言葉に甘えて、耕平さんにあの時の埋め合わせ、
させちゃおうかな」
とてもそんな気分にはなれないが、志津江の優しい思いやりに亜希はわざと
明るく応えた。
耕平はこの一か月、判で押したように金曜の夜は “直帰” している。
“あの事” を確かめる良いチャンスかもしれないと思った。
今まで亮のことで頭がいっぱいで耕平を問い詰めるようなエネルギーは、
亜希の中に残っていなかった。だが、「耕平と杏子が不倫…」 という、
あの文面は片時も頭から離れない。もし本当だとして、そのあと具体的に
どうするかは、まだとても考えられない。ただ、事実かどうかだけでも
確かめてみたかった。
* * * * * * *
金曜の午後、亜希は志津江と舞と三人で東京へ向かった。
耕平には志津江たちと一緒に千葉へ行くことにしてある。
「ママのサプライズ、パパ本当にびっくりするかなあー?」
「そりゃ、千葉に行ってるはずのママがいきなり目の前に現れたら、
パパ驚いて腰抜かすかもよ」
「楽しみぃー!」
何も知らない二人は新幹線の中で会話を弾ませていた。
東京駅で二人と別れた。
耕平が成都医大を出るまで、まだだいぶ時間がある。
亜希も千葉に行くと知ると、今日はこっちに泊まると言って朝自宅を出た。
不倫が本当なら、病院からまっすぐホテルか杏子のマンションに行くだろう。
時間潰しに街をぶらついた。都心を一人で歩くのはあのイブの夜以来だった。
いたるところに聖バレンタインデーのディスプレーが店のウィンドーを
飾っている。
ーー「バレンタインデーに生まれる男の子なんて、超ラッキー!」
「ラッキー!」ーー
今年の二月十四日、その日は家族にとって特別な日になるはずだった。
弟の誕生を心待ちにする舞と亮の無邪気な姿が脳裏にちらつく・・・
バレンタインの贈り物を買い求める賑やかな人波から逃れるように
亜希はタクシー乗り場へと急いだ。
六時を廻った頃、耕平が職員専用の通用門から出てきた。
携帯で何かを確認してから大通りで客待ちをしているタクシーに乗り込んだ。
亜希は少し遅れてその後を追った。車は都心にあるホテルとは逆方向に
走っている。暫くすると高層マンションが立ち並ぶウォーターフロントに出た。
その一つのマンションのエントランスでタクシーは停止した。
耕平は手慣れた様子で暗証番号を入力すると、ドアの向こうに消えて行った。
杏子のマンションの詳しい所在地は知らないが、東京湾を一望できる場所だと
聞いたことがある。あのワープロの文面が事実だと確信した亜希はこれ以上の
追跡は止めようと思った。が、耕平の乗って来たタクシーはエンジンをかけた
ままいっこうに動く気配がない。車を待たせておいて二人でどこかへでかける
つもりかもしれない。亜希はタクシーを降りてマンションの入り口まで歩き、
物蔭からそっとガラス張りのドアの向こうを窺った。
浮気の追跡調査をする探偵の真似事をしているような自分がひどく惨めだった。
暫くして、耕平の腕を掴みゆっくりとドアに近づいて来る女の姿が見えた。
コートの上からでもはっきり確認できる大きなお腹を抱え、妊婦特有の
歩き方をする島崎杏子を目の当たりにし、亜希は耕平が待たせておいた
タクシーに飛び乗った。
慌てて車の後を追いかける夫の姿が、サイドミラーの中でどんどん小さく
なって行った。
* * * * * * *
週末で賑わう都心の雑踏の中を彷徨っていた。さっきからずっと携帯の
着信音が鳴り続けている。
二人の不倫は半ば予測していたが、杏子の妊娠は想定外だった。
どうしても許せなかった。夫の愛人の妊娠、二度と子供が産めない妻に
とってこれ以上の屈辱はない。
気がつくと高速バスのターミナルまで来ていた。どこ行くあたてもなかったが、
一刻も早く東京を離れ、できるだけ遠くへ行きたいと思った。
また携帯が鳴った。電源を切ろうとして発信先が夫でないのに気づいた。
「亜希… 今、話しても、いいかな?」
躊躇いがちな優しい声が亜希の耳元で囁いた。
「逢いたい… 逢いたい、あなたに逢いたい!」
夫の裏切りを知った今、崇之への想いを制するものは何もなかった。
崇之は世田谷の自宅を出て新宿駅へ車を走らせていた。
電話の悲痛な声が彼女に何があったかのすべてを物語っている。
あの日以来、亜希のことばかり考えていた、彼女のことしか頭になかった。
高村に亜希を愛する資格などない。ただ、最愛の息子を亡くした男に
追い打ちをかけるような行動だけは取りたくなかった。が、もはや
二人の間を阻むものは何もない・・・
「ずっと、逢いたかった…」
「私も…」
人目を憚ることなく二人は熱い抱擁を交わした。
「どこか、遠くへ行こう…」
崇之の胸の中で亜希は大きく頷いた。
二人だけの居場所を求め、崇之の車は、首都高、東名、名神、…と
闇の高速道路を突っ走った。
夜明け前、朝靄に煙る二条城を臨む古都のホテルに到着した。
自制を解かれた二人の躰は、奪われた時間を取り戻すかのように
激しく求め合い、愛を交わし… ようやく一つに結ばれた。




