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十二話

 森の中をさまようヴァシルに、もう時間の感覚はなくなっていた。一日歩き続けている気もするし、まだ数時間しか経っていない気もする。春の陽気が濃い緑を茂らせ、陽光をさえぎっているせいで、森の中は一日中暗かった。空腹に耐えかね、ただ苦いだけの草を食べ、岩から染み出る湧き水を飲みながら、昼だか夜だかもわからない時間をさまよい続けていた。

 自分は人殺しを追っていたはずだった。だが今は自分も人殺しになってしまった――なぜこんなことになってしまったのだろうと、ヴァシルは木の根元に座り込みながら思う。剣しか取得のない自分は、傭兵となって稼ごうと、軍の仕事を引き受けた。たった一人の男を捕らえるだけの簡単な仕事のはずだった。それなのに、どうして自分はこんな暗い場所にいる? なぜ悲嘆している? とっくに報酬を貰って、いい生活を送っていてもおかしくないのに、現実は真逆へ向かおうとしている。自分は、一体いつから……。

 ヴァシルは広げた手のひらを見下ろした。この手が、エリエを殺してしまった。永遠に戻らない命を、奪ってしまった。ラスカーと同類だ。やつと何も違わない。罪に汚れた、人殺しの手――ヴァシルは硬く握り込むと、額に押し当て、唇を噛む。この罪からは逃げられない。あの衛生兵はすでに報告しているだろう。きっと人数を集めて捜し回っているはずだ。ミレスクも、雇った傭兵が殺人犯になったのをいずれ知ることになる。その被害者が、捜してほしいと頼んだ女性とわかったら、ひどく失望するに違いない。利用しようとしていたのかと……。

 もう誤解などという言葉は聞いてもらえないだろう。たとえ認めてもらっても、命を奪った事実は残る。罪からは逃れようがない。だがヴァシルはそこから逃げるつもりは、はなからなかった。エリエにしてしまった仕打ちは、自分が償うべきことで、この先も背負い続けなければいけないものなのだ。それを果たすためなら、どんな罰であろうと、ヴァシルは受ける覚悟をすでに持っていた。

 しかし、その前に片付けなければならないことがある。ラスカーと、あの女――野放しにしておくには、あまりに危険すぎるあの二人を、ヴァシルが仕留めることが最初のすべきことだった。これは自分の中の復讐であり、エリエへの償いの一つでもあって、仕留めるまでは、まだ罰を受けるわけにはいかないのだ。

「絶対に……見つけ出してやる……!」

 疲れ切って、ふらつく足で立ち上がると、ヴァシルは当てもなく森の中を突き進んだ。どこをどう歩いているのかさえわからない。それでも足を止めるわけにはいかなかった。この手で仕留める――その執念だけが、ヴァシルの体を突き動かしていく。

 すると、目の前の茂みが、ガサッと音を立てたのを見て、ヴァシルは咄嗟に身構えた。まさか、追手がもう来たのかと焦るヴァシルだったが、次に現れた人影を見て、そうではないと気付く。

「……ん? あんた誰だ?」

 茂みから現れたのは、四、五十代に見える男性だった。小さな帽子をかぶり、シャツにチョッキ、ズボンにブーツと、ごく普通の格好をしている。その背には矢筒を背負い、左手には小ぶりの弓を持っていた。

「……あなたは?」

 警戒しながら聞くヴァシルを、男性はきょとんとした表情で見つめる。

「見ての通り、狩りに来たんだ。……あんた、迷ったのか?」

「どこから、来たんですか?」

「どこって、すぐそこの集落だけど……やっぱ迷ったのか」

「少し、水と食料を分けては――」

 言うヴァシルの足がふらつくのを見て、男性は慌ててその肩を支える。

「おおっと……大分体力なくなってるみたいだな。集落まで歩けるか? 俺の家で休んでけ。いっぱい食べさせてやるから」

 安堵から力の抜けたヴァシルを片腕で支えながら、男性は来た道をゆっくり引き返していった。

 五分ほど進むと、目の前が突然開けて、暗かった景色が橙色に照らされた。ヴァシルが空を見上げると、そこには雲のたなびく夕焼け空が広がっていた。その眩しさに目を細めるヴァシルは、空の色にしばらく見入っていた。

「もう少しで着くからな」

 男性が言った通り、集落はすぐに見えてきた。平坦な野原の中に、木造の家がぽつぽつと建っている。近くには池もあり、小さな子供が水面を叩いて遊んでいる。その奥では、たき火の上に鍋をかけ、女性がかき混ぜながら味見をしていた。夕食の時間かと感じながら、ヴァシルは漂ってくる匂いに空腹を刺激される。

 民家の並びの一画に男性の家はあった。見た目にも小さく、中も居間と台所しかない狭い部屋だった。

「ちょっと待ってろ。食べるもの、用意してくるから」

 男性は居間の椅子にヴァシルを座らせると、足早に台所へと向かった。

「一人、なんですか?」

 ヴァシルは男性の背中に聞く。

「ああ。昔はいたんだけどな……街の暮らしがどうも合わなくて、俺だけこっちに来たんだ」

 てきぱきと手を動かしながら、男性は食事の用意を進める。かすかにいい匂いがしたと思うと、それから三分ほどで男性はヴァシルの前に皿を置いた。

「おかわりが欲しけりゃ、遠慮なく言ってくれ。まだあるから」

 コップに水を注ぎながら男性が言う。机に置かれたのは、豆と野菜のスープと、薄く切った肉の燻製、それとパンだった。

「スープは昨日貰って食べた余りもんだけど、味はうまかったから。あと、その鹿肉は俺が捕って作ったやつだ。売りに行くと評判いいんだよ」

 ランプに明かりをともしつつ、少し自慢げに言う男性の声を聞きながら、ヴァシルはスプーンを手に取って、まずはスープから食べてみる。

「……うまい」

 それからヴァシルの手は止まらなかった。空腹を満たそうと、一心不乱に口へ運ぶ。肉とパンを水で流し込み、おかわりしたスープを飲み、また肉とパンを頬張る――そんな繰り返しを四回終えたところで、ヴァシルの腹はようやく満たされ、最後に水を飲み干すと食事は終わった。窓の外はすでに日が暮れて、夕闇が広がっていた。

「満足したか?」

「はい。ありがとうございます」

 礼を言うと、男性はにこにこと笑顔を浮かべた。そして机の横にあるベッドに腰掛ける。

「そういやあ、名前聞いてなかったな。俺はブラガだ。あんたは?」

「ヴァシル、です……」

 ためらうように言ったヴァシルに、ブラガは続けて聞く。

「俺と同じ狩人には見えないが……森に入って何してたんだ?」

 当然の疑問に、ヴァシルは視線を泳がすことしかできない。殺人犯として追われているなどと言えるはずもない。この様子に、ブラガは気を遣うように言った。

「……言いたくなきゃ別にいいが、何か、大変な目に遭ったみたいだな。誰かに襲われたのか?」

 え、と顔を上げたヴァシルは、ブラガの視線が自分の肩に向けられているのに気付き、そこを見下ろした。左肩、切られた袖の下には、赤いものが滲み出ていた。軍医に縫ってもらった傷だが、森の中を逃げ回っていた最中に、いつの間にか傷口が開いてしまったらしい。頬の傷はどうだろうと、手で軽く触れるが、こちらは大丈夫なようだった。

「傷薬は、街で買うか、薬草採ってくるしかないんだが――」

「へ、平気です。血はすぐに止まりますから……」

 ヴァシルは袖を傷口に押し当て、滲む血を拭う。

「そうか? 無理はすんなよ。結構大きい傷みたいだから」

 そう言うと、ブラガは空になった皿を重ね、台所へと運ぶ。そして再び戻ってきた手には、赤い液体の入った瓶とコップを持っていた。

「酒、飲めるだろ?」

 ブラガは二つのコップを机に並べる。

「まあ、一応……」

 ヴァシルが答える前に、ブラガはすでに赤い酒を注ぎ始めていた。甘い果実の香りがふわりと舞い上がる。

「大して酔えない酒だけど、まあ、ないよりはいい」

 なみなみと注がれたコップを渡され、ヴァシルは仕方なく口を付けた。これまで数えるほどしか飲んだことのないヴァシルにとって、酒はおいしいものという認識はなかった。できれば遠慮したいところだったが、厚意を無下にするのも悪いと思い、我慢しながら喉の奥へ流し込む。だが、想像よりも意外に飲みやすく、酒というよりは果物を搾ったジュースに近く、甘い味わいに、気付けばコップ半分ほどを飲んでいた。

「気に入ったか?」

「はい。飲みやすいですね」

「若いもんには、これくらいがいいのかねえ……俺は物足りないが」

 愚痴るように言って、ブラガは酒を一口飲む。

「……ところで、あんた兵士か剣士なのか? 鞘が見えるけど」

「そんな、ところです……」

「鞘があるのに、中身の剣がないな。……森でなくしたか」

 言われて、ヴァシルの脳裏にエリエの横たわる姿がよみがえった。青白い顔で、目を細めて涙を流している。記憶の中のエリエは、これから先もずっとこの姿のまま残るのだろうか――いや、残さなければならない。自分への戒めのためにも。そして、元凶となったあの女を、必ずこの手で仕留めるまでは……。

「普段はどんなことしてるんだ? 街の見回りとかか?」

 ブラガの何気ない質問に、ヴァシルは低い声で答えた。

「今は、ある女を捜してます」

「へえ、女か。何やったんだ?」

 興味津々にブラガが聞く。

「脅しに傷害、殺人……この傷は、その女の仲間にやられたんです」

「おいおい、男にも勝る凶悪ぶりだな。大層ふてぶてしいやつなんだろうな」

 こくりとうなずき、ヴァシルは続ける。

「でもそれだけじゃないんです。あの女は幻術を操るんです」

「……何? げ、げん……?」

「幻術。幻を作り出すんです。それで人を騙して、人を、殺させる……まるで罪悪感の欠片もなく、笑って……」

 女の憎い笑顔が浮かびそうになって、ヴァシルは頭を振ってそれを消す。

「いやあ、すごい話だな……」

 反応に困ったように、ただ口を開けているブラガに、ヴァシルは苦笑しながら言った。

「嘘みたいな話ですけど、これは本当に――」

「嘘とは思ってない。ちょっと似た話を思い出してな……」

「……似た話?」

 首をかしげるヴァシルに、ブラガは顎を撫でながら言う。

「俺のひい爺さんから、この地域に言い伝えられてる話だ。実際のことかどうかは知らないがな」

「どんな、話なんですか?」

「大した話じゃないが……聞くか?」

 ヴァシルがうなずくと、ブラガはゆっくりと口を開いた。

「……昔、森の奥に不思議な狼が住んでて、その狼と出くわすと、誰もが恐怖心をなくして、その狼に近付いちまうんだ。そこを狼はガブリ、とやる。人間の血をすすった狼は知能を付けて、さらに大勢の人間を襲った。狼の不思議な力に魅了されたやつは、家族や友人を襲い出して、村を混乱に陥れた。犠牲者が絶えない状況を見兼ねて、領主は弓の名手の男に狼狩りを命じた。神木と呼ばれる木から矢を作った男は、早速森に入って、現れた狼の土手っ腹目がけて矢を放った。見事命中して、狼は森の奥へ逃げ去った。それからは誰も狼に襲われることはなくなったとさ――っていう話だ。どことなくその女の話と似てるだろ?」

 ヴァシルは目を丸くしてうなずいていた。確かに似た部分がある。何人もの人間を襲うのはもちろんだが、不思議な力というのは、女に置き換えれば幻術のことだと言える。そして何より似ているのは、自分の手ではなく、人間の手で他の人間を殺させているところだ。女はラスカーの手で人々を殺させ、エリエをヴァシルに殺させた。このやり方は、ブラガの話とぴったり重なる。これは偶然と言えるだろうか。あの女とブラガの話は、どこかでつながっているのではないだろうか――ヴァシルの考えは、まだ疑惑の域を出ない。だがもし、つながりがあるのなら、話には重要な描写があった。

「その、神木、というのは……?」

「この地域で信じられてる、神の宿る木だ。悪いもんを追っ払う力があって、人形とかお守りなんかに使われてるよ」

「どんな木なんですか? 今もあるんですか?」

 前のめりに聞いてくるヴァシルに、ブラガは少し驚きながら答える。

「あ、ああ。そこいらに腐るほど生えてるよ。成長すると、幹に白い筋が入るから、簡単に見つけられる木だ……そんなもんに興味があるのか?」

 不思議そうな目で聞かれたヴァシルだったが、それには答えず、一点を見つめ、思考していた。話では、なぜわざわざ神木から矢を作ったと言っているのか。狼を撃退したことを伝えたいのなら、ただ矢を射ったと言えば済むはずなのだ。それを、神木で作った矢だと言っている意図は……?

 まず考えられる一つは、悪いものを追い払うと信じられている神木で、恐ろしい狼、つまり悪を撃退したことを強調したかったのかもしれない。普通の矢では敵わず、神木の矢を使わなければ追い返せないほどの強い狼だったと伝える意図だった。

 もう一つ考えられるのは、その狼を撃退するには、神木の力が絶対に必要なものだったという事実を伝えるため。何の誇張もなく、今後またこの狼が現れたら、必ず神木の力を使えという教訓を伝えたかった――

 ヴァシルはブラガの話と、あの女を強引に結び付けるつもりはなかった。ではなぜこんなことを考えるかと言えば、以前、ヴァシルが女を切り付けた時、確実に切ったはずの女の体には、傷一つ付けられないことがあった。作り出した幻なのかとも思ったが、触れてきた女の感触は、それとはまた違う、冷たく奇妙な感触だった。人、なのだろうかという疑問は、ヴァシルの中から今も消えてはいない。不思議な力を使う、得体の知れない何かだったら、人間以外の何かだったら――そう考えると、自分の剣で傷付けられなかったのもわかる気がした。あの女を仕留めるには、きっと特別な何かが必要なのだ。そしてそれは、そこいらにあるものから作れるかもしれない――

「――い、おい」

 呼ばれていることに気付いて、ヴァシルは慌てて目線を上げた。ブラガは腕を組み、心配そうに見る。

「やっぱ疲れてるみたいだな。もう暗いから、今日はここで寝てけ」

「あ、ありがとうございます」

 礼を言うヴァシルを横目に、ブラガはベッドの上の枕と毛布を整える。

「ここでゆっくり寝ろ」

「いいんですか? ベッド使って」

「気にすんな。俺は下が木だろうが土だろうが、どこでも寝れるから」

 ブラガは壁にかけられていた上着を取ると、それを自分の胸にかけ、部屋の隅に腰を下ろす。

「あ、悪いが明かり消してくれ」

 天井から吊るされたランプの火を、ヴァシルは息を吹きかけて消す。真っ暗になった部屋の中に、窓から月の光が差し込んでいた。

「じゃ、おやすみ」

 ブラガの声が響く。ヴァシルは防具やブーツを脱ぐと、静かにベッドの上に横たわった。明日、その神木と呼ばれるものを探してみよう――そう思いながら、眠りに落ちていった。

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