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短編、SS集

scent ‐雨の匂い‐

作者: 銀花


 雨の日の満員電車程、苦しいものはない。

 立ち込める湿気のお陰で息もしづらい。




 朋代(トモヨ)はギュウギュウ詰めにされた車内で短くため息を吐いた。

 ドア付近に立っているため、窓の外を流れる景色を眺められることが細やかな救いだ。しかし空らしき空には重たい雲が覆っていて、その下は誰かが大泣きしているかのような土砂降りである。

 社会人になって二年、通勤と帰宅時の混雑には既に慣れている。しかし梅雨時期の満員電車はやはり嫌いだった。周りと密着して、ベタベタして、気持ちが悪い。


──帰ったらソッコーお風呂入ろ……。


 頬をくすぐる髪をもがくように払いながら、再度ため息を吐く。その時だった。

 電車がガタンと大きく揺れ、朋代は体勢を崩した。更に背中に誰かがぶつかり、勢いで目の前の男にしがみついてしまった。


「「………………」」


 朋代と彼は数秒間、そのまま静止した。端からは二人は抱き合っている形に見える。


「………………あの」


「はっ、すすみませんっ!」


 彼の困ったような声に慌てて謝罪し、手を放した。継いで身体をも放そうとするが、今まで立っていた場所には既に別の人が立っているらしく、身動きが取れない。


──マズイ!動けないじゃん!


 ぎゃあぁぁぁ、と内心激しく嘆きながら、朋代は彼が背にしている壁を必死に押して身体を放そうとした。


「ごめんなさい今離れますから!」


 ムギギギギ、等と唸りながら歯を食いしばって両腕を突っ張る。


「あの、そこまで頑張らなくても……」


 なだめるように言った彼の顔を、朋代はやっと見上げることが出来た。

 薄い茶色に染めた髪がまず目についた。それから綺麗な二重瞼の眼。プリントTシャツ姿と言うラフな格好だから、大学生か専門学生だろうか。


「混んでるんだからしょうがないですよ」


 その唇が苦笑を形作った。朋代は視線を落とした。


「──私次の駅で降りますので、それまで……すみません……」


「いえいえ」と彼は笑った。


 朋代は持っていた傘を壁に立掛け、バッグからハンカチを取り出して頬に当てた。


 しがみついてしまう前から実は気付いていた。あの人と同じ匂いの香水を、彼も付けていると言う事に。今でもあの匂いに敏感でいる自分は、まだ完全に吹っ切れていないのだ。


 朋代は俯き加減で彼のTシャツのプリント柄を見つめながら、無意識にハンカチを口元に当てる。無言のまま、朋代は呼吸を繰り返していた。


 朋代が降りる駅に着く車内アナウンスが流れ、程無くして電車が停まり、ドアが開いた。


「じゃあ……すみませんでした」


 ペコと軽く頭を下げて、朋代はそそくさとドアをすり抜けた。

 ホームに立って車内と違う冷えた空気にホッと息を吐いた。雨の日独特な湿気の匂いを吸い込みながら、エスカレーターを上る。

 改札口に向かいながら、さっきの彼の事を思い出していた。あの人と同じ匂いがして動揺したためか、彼の事が頭から離れない。

 定期券を改札口に通して駅を出て、雨空を見上げた時に漸く自分が傘を持っていないことに気付いた。


──げっ、置いたまんま!!


 はぁ、と大きくため息を吐いて肩を落とす。そしてまた雨の落ちてくる先を見上げた。


「……最、悪」


 そう一人言ちて、コンビニへ行こうとトボトボ歩き出した。


「──あ! ちょっと待って、そこの人!」


 背後から大声がし、朋代は振り返った。

 先程の彼がこちらへ走り寄ってくる。彼の手には朋代の傘が握られていた。驚いて目を見開く朋代の前で、彼は一息吐いた。


「良かった……傘忘れてたから」


 差し出された傘を朋代は受け取った。


「あ……ありがとうございます、貴方もこの駅だったんですね」


 朋代は僅かに微笑んだ。


「や、俺は二駅後だったりする……」


 照れたように彼が頭を掻き、朋代は再び驚愕した。


「うそ! わざわざすみませんっ、じゃあ電車代を……!」


 朋代は慌ててバッグを開いた。


「あ、すみません……電車代貰えると実は有難いです。今財布の中三十円しか入ってなくて。しかも今日傘持ってきてないんですよ」


 朝は曇りだったから、と彼が笑い、朋代もつられて笑ったが、その表情はすぐに凍り付いた。バッグを探る朋代の手が止まる。そうだった、今日は財布を忘れて出てきたのだった。

 チラッと彼へ目をやると、彼は何かを察したのかハッとした表情になった。


「もしかして……」


「……その……もしかしてです」


 朋代がおずおずと呟くと同時に、彼はガクリとうなだれた。朋代は両手で頭を抱えた。


「きゃーっ、ホントにごめんなさい!!」


「いや……いいんですよ……歩いて帰ります」


 彼は両膝に手をついてがっかりしたように俯いた。朋代はおろおろしながら少し身を屈めて彼の顔を覗いた。


「歩いてって二駅もですか!?」


「二駅ぐらいならすぐ着きますよ」


 渇いた笑い声を上げ、彼は背筋を伸ばした。


「そんな……あっ、じゃあせめてこの傘使ってください!」


 朋代は勢い良く傘を差し出した。彼は首を傾げる。


「え? でも──」


「大丈夫です! 私の家すぐそこなので、走って帰ります! だから、どうぞ!」


 困惑している彼の手に無理矢理傘を押し付け、朋代は深々と頭を下げた。


「今日は本当にすみませんでした! それでは、また!」


 朋代は踵を返し、バッグを傘代わりに走り出した。


「あっ、ちょっと!」


 後ろで彼が何か言っていたが、朋代には聞こえなかった。

 雨の中を走りながら、せめて名前は聞いておけば良かったと少し後悔した。しかし、「また」等と言ったが、彼と会うことは二度とないだろう。だから聞いておく必要はなかったのだと、そう自分に言い聞かせた。




* * * * *




 あの日から一週間が過ぎた。

 未だ梅雨は明けず、いつもならバイク通学している彬(アキラ)は濡れるのを嫌って電車通学をしている。朝から満員電車に揺られるお陰で、毎日一限目で既に疲れてしまう。今日も疲れと共に、最後の講義を何とか乗り切った。

 学生皆がガタガタ立ち上がる中、彬は机に突っ伏した。


 窓の外は相変わらずの雨。


「終わった……」


「彬ー、俺ら何か食ってから帰るけど、お前どうする?」


 既に立ち上がっている友人達が、彬を見下ろしている。彬は頭を起こし、伸びをした。


「んー、俺はもう帰るよ」


「──あぁ、はいはい、その傘の持ち主を探す訳ね、はいはい」


 友人の一人がニヤリと笑って彬の傍らを指差す。そこには傘が二本、立掛けられている。一本は彬ので、もう一本は名も知らない女性の物だ。これを借りた次の日から、いつでも彼女に返せるようにと常に持ち歩いていた。


「彬君てば、顔しか知らない子に恋しちゃってんだから」


「え、マジで?」


「でも最寄り駅しか分からないんじゃ、望み薄じゃねー?」


 友人達がニヤニヤと、口々に言う。彼らのからかいに、彬は顔が熱くなるのを感じた。


「そんなんじゃねえよ」


「またまたぁ、そんなこと言って」


「その傘ずっと持ってる辺り、また会いたいって思ってんだろ?」


「…………っ」


 核心を突かれ、彬は言葉を詰まらせた。それを見た友人達が笑う。


「ほらみろ」


「今日何か成果があったらまた教えろよ、ないと思うけど」


「アハハ、また明日な」


 それぞれが手を振り、講義室を後にした。


「違うっつのに」


 誰もいなくなった講義室で、彬は怒ったように呟いた。そして彬も立ち上がった。


 電車の混み具合は相変わらずだ。一週間、彼女の姿は見掛けなかった。

 一週間前と同じ時間の電車に乗れたため、今日はいるのではないだろうかと淡い期待を抱いていた。しかし次が彼女の降りる駅だと言うのに中々見付けられず、内心焦ってそして半ば諦めていた時、ドア付近に彼女の横顔を見付けた。

 髪型もスーツも前と違ったが、彼女だとすぐに分かった。


 嬉しさにも似た安堵感を覚えながら、彬は乗客の間を無理矢理掻い潜って彼女に近寄った。こちらの存在に気付いた彼女が顔を上げた。その隣に立って彬は微かに笑う。


「ふぅ、もう見つからないかと思っ…………?」


 急に彼女の手がTシャツの裾を掴んだ。

 突然の事に最初驚いた彬だったが、彼女が切羽詰った顔をしているのと、何か言いたげに口を動かしているのに気付いた。それを聞き取ろうと、彬は身を屈めて彼女の口に耳を近付けた。

 彼女の困惑しきった視線が揺らぐ。


──────ちかん。


 それを聞いた次の瞬間には、彬は彼女のスカートの中にまで入っていた誰のとも知れない腕を掴み、頭の高さまで持ち上げていた。その腕は中年の男のものだった。どこからどう見ても、普通のサラリーマンだ。驚いた顔で彬を見ている。


「おいオッサン、大事にしたくなかったら次で降りろ」


 彬が睨み付けながら低く言うと、その男は観念したのかすぐに頷いた。痴漢する度胸はあるくせに弱いやつだと思いながら、彼女へ目をやった。


「大丈夫?」


 彬のその問いに彼女はコクコクと何度も頷いた。彼女の手はTシャツを掴んだままだ。




 駅の外に、朋代は立っていた。その隣には彼が立っている。


 今日も雨脚は激しい。


 痴漢は駅員が警察へ引き渡してくれ、その時に朋代も警察に色々聞かれていたため大分時間が過ぎてしまった。その間も彼は側にいてくれた。朋代にはそれが嬉しかった。


「……はい」


 彼がそっと差し出した傘を朋代は受け取り、同時にフッと苦笑した。


「すみません、貴方には何だかお世話になるばかりで」


「えっ、いやいや俺の方こそ出しゃばったことして」


 罰の悪そうに彼は頭を掻いた。


「いえ、とても助かりました。ありがとうございます」


 朋代は頭を下げた。

 それから暫く、二人は無言でそこに佇んでいた。朋代にはこのまま立ち去るのが惜しく思われた。


「──じゃあ、俺そろそろ帰ります。今日はちゃんと金持って来たんで」


 彼は笑ってそう言った。


「えっ、私が出します!」


 ちょっと待って下さいと、朋代は慌ててバッグを開けた。彼も慌てた様子で両手を振った。


「良いです良いです、数百円だし」


「でもこの前のこともあるのに……」


「大丈夫ですって。バイト代出たばっかなんで、今俺金持ちですよ」


 ニカと歯を見せて彼は笑った。朋代は自分の胸が鳴るのに気付いていた。


 朋代もクスリと笑う。


「そうですか……今日は遅くまで付き合ってくださって、本当にありがとうございました」


「いえいえ。じゃあ、また」


 そう言って彼は踵を返し、駅へ引き返して行った。朋代はパチパチと瞬きをして彼の背中を見ていた。

 一週間前、朋代が言ったように、今日彼も言った。「また」と。


 次の瞬間朋代は彼を追いかけ、Tシャツの裾を掴んでいた。彼の足がピタと止まり、振り返る。彼と目が合って朋代は我に返った。


「はっ、ごめんなさいっ! つい……」


 つい何だよ、と内心自分で自分を突っ込んだ。しかし次の機会がいつになるか分からない今、この機を逃してはならないと頭が急かす。


「えっと……わっ私っ、朋代って言いますっ。浅井朋代! 貴方の名前聞いてなかったから……」


 そこまで言って顔が熱くなるのを感じた。緊張と興奮で自分の顔は真っ赤なのだろう。朋代が余りに必死だったためか、ポカンとしていた彼は急に吹き出した。


「そういや俺も聞いてなかったわ。彬、堀口彬です。よろしく」


 朋代はパッと笑顔になった。


──堀口、彬くん、か。


「良かった、恩人の名前も知らないってすっきりしなかったから」


「アハハ、実は俺も知りたかったりして」


 さりげない彼のその一言に朋代はドキッとした。


「──じゃあ今度こそ、気をつけて帰ってね」


 彬は手を振って、切符販売機の方へ行った。


 朋代はその場に佇んだまま、自分の両手を握り締めた。


「あのっ」


 彬が振り返って首を傾げる。


「また……また会えますか?」




* * * * *




「で、会うことになったのか!?」


「うん」


 昼の十二時を回った大学の食堂は、学生でごった返している。

 そこの隅のテーブルでカレーをつつきながら彬は頷いた。その周りの男友達共がそれぞれ一斉に嘆きのポーズを取る。


「くっそ、羨ましすぎて涙が出てくる!」


「俺らだって出会いがなくて困ってんのに!!」


「何お前、何なのお前、どんな手を使ったんだよ!?」


 隣に座っている友人が彬の肩を掴んで揺さぶる。彬は少しうんざりしながらスプーンを口に運んだ。


「チクショー! それでどんな女なんだ!?」


 彬の肩を揺さぶっていた友人が叫ぶように聞いた。彬はスプーンをくわえたまま暫く考え、口を開く。


「…………OL?」


「おぉぉえる!!」


「お前は年上派なのか姐さん女房なのかぁぁぁ!!」


 再び彼らは訳の分からない事を言って嘆いた。おいおいと泣き真似をする者もいる。


「そんなに離れてるとは思わないけど、せいぜい二三歳上なくらいじゃない?」


 空を仰ぎながら彬は呟いた。あのちょっと落ち着きのない感じでは、まだ若いだろうと思っていた。


「二三歳でも年上は年上だろ!」


 そーだそーだ、と彼らは騒ぐ。そこで彬は首を傾げた。


「でも何で俺とまた会いたいとか思ったのかな」


 彬の疑問を聞いた友人達は顔を見合わせ、やれやれとため息を吐いた。


「ダメだな彬」


「分かってない、分かってないよ彬」


「あれか、自分のことになると鈍くなるってやつか彬」


 馬鹿にされたようで彬は少しイラッとした。友人達は軽い口調で続きを喋る。


「そんなん、あれだよ」


「そうそう」


「一目惚れ」




* * * * *




 日曜日の天気は曇りだった。しかしいつ雨が降ってきてもおかしくない空の色だったので、傘はしっかり準備した。

 改札口の前で朋代は何度も前髪をいじった。

 今日の朋代は、大きな花柄のワンピースに白のパンプス姿だった。私服で彼と会うのは初めてだ。少し緊張する。昨夜、部屋をかなり散らかしながら服選びをした。中々決まらず、結局遅くまで一人ファッションショーしたのだった。

 彼をランチに誘ったのは朋代の方だ。しかし彼と会うだけの事に自ずとここまで緊張するのは不思議だった。


 私はきっと、彼を好きになってしまったんだ。今時珍しいくらいの優しさを持っている彼に、惹かれてしまった。でも彼に一目惚れしたと言って良いのか、私には分からない。

 だって彼は、あの人と同じ匂いがするから────。


 駅の構内にある時計にチラリと目をやって、約束の時間の十五分前だと知り、更に緊張は高まった。

もうすぐ、彼が来るんだ。


「こんにちは」


「きゃーっ!」


 すぐ後ろから声がして、朋代は思わず叫んだ。心臓をバクバクさせながら振り返ると、そこには驚いた顔をした彼が佇んでいた。


「ごめん、驚いた?」


「えっ、あっ、ちょっとだけ……アハハ」


 朋代は苦笑を浮かべた。


「朋代さん早かったんですね、絶対俺のが早いと思ってたのに」


 少し拗ねたように彼は唇を尖らせる。朋代はクスリと微笑んだ。


「だって私の最寄りですから」


「そうそう、俺ここら辺あまり知らないけど、大丈夫ですか?」


「大丈夫! プランばっちり!」


 そう言って朋代は握り拳を作った。彼はすぐに笑った。


「じゃあ今日はヨロシクです」


「はい! じゃあ早速行きましょう!」


 朋代は出口の方を指差し、二人は並んで歩き出した。




* * * * *




 彼女と入ったのはランチ、と言うよりも定食屋だった。照明はちょっと薄暗い感じで、席数も少ない店だ。しかし値段が安い割にボリュームもあって、彼女は何度もここに足を運ぶくらい気に入っているらしい。

 彼女は唐揚げ定食、彬はとんかつ定食を頼んだ。料理は確かに美味しいし、そして彼女の意外な一面を見た気がした。


 他愛ない会話をしていた時、味噌汁をすすっていた彬は急にむせた。


「げほっ……えっ、朋代さん俺と同い年!?」


「あ、やっぱり老けて見えてた? それは悲しいなー、でもしょうがないよねスーツ着てたし。うん。彬くん大学二年生でしょ?私高卒で就職したんだ、社会人二年目」


 左手の指を二本立てて、彼女は言った。彬は胸を擦りながら、思わず彼女をまじまじも眺めてしまった。


「いや、老けては見えないけど……普通に年上だと思ってた」


「まぁ、私も彬くんのことパッと見で高校生かと思ってたから」


「……そんな幼く見える?」


 がっかりしたように彬が言うと、「そんなことないよ」と彼女は優しく微笑んだ。

 彼女の纏う雰囲気は朗らかだ。何かに例えるなら、向日葵と言ったところだろうか。そう考えて、そう考えてしまった自分が恥ずかしくなった。

 クサい、クサ過ぎる。


「でも痴漢から助けてもらった時、彬くん頼もしかったよー。ホントにありがとう」


「──あぁ、あれから痴漢遭ったりしてない?」


 彬は首を傾げた。実は心配していた事だった。


「うん、大丈夫。私、基本はパンツスーツなんだけどね、あの日はスカートにしちゃって。運が悪かったのかな」


「あー、スカートの人って狙われ易いらしいからね」


「そうなのよ、だからいつもパンツスーツなのに……ってこんな話してたらご飯美味しくなくなっちゃうね、ごめん」


 彼女は罰の悪そうに口を押さえた。彬は首を左右にゆっくり振った。


「別に良いよ、無事で何より」


 彬は皿に視線を落として、添えられたキャベツの千切りに箸を伸ばした。


 彼女が微笑んでこちらを見ている事には気付かなかった。




 定食屋を後にした朋代と彬は、まるで観光客のように駅周りをぶらぶら歩いて回った。

「プランばっちり!」と彬に言ったけれど、昨日は服選びに没頭していたため実はプラン等立てていない。何とも色気のない定食屋に連れて行ってしまったが、彬に幻滅されたりしていないだろうか。こんな時に色気より食い気を選んでしまった自分を嘆いた。

 しかし彬もただの散歩のような行動を楽しんでくれているようで、「あれ何?」等と良く質問もしてくれて二人の会話が尽きることはなかった。勿論、朋代も楽しんでいた。


「────朋代?」


 急にすれ違い様に声を掛けられ、朋代は立ち止まった。声の主の男を見て、朋代は少し顔を曇らせた。

 彼女の微かなその表情の変化を彬は見逃さなかった。


 朋代は苦笑して、男に向けて軽く手を振った。


「お久しぶりです……」


「久しぶり。何だ、デートか?」


 男はニヤリと笑って朋代の隣の彬に目をやった。すぐに朋代の顔に赤みが差す。


「でっデートじゃなくてっ、あのっちょっとお世話になったのでお礼してただけで」


 朋代はワタワタと両手を動かしながら説明した。その隣で彬は若干凹んでいた。


「ハハハ、まぁ何にせよ羨ましいな。俺は家族サービスで大変だ」


 疲れたように男がそう言った時、彼の妻らしき女が遠くから男を呼んだ。彼女の周りで子供が二人アイスを食べている。


「ほらきた。じゃあまたな、たまには遊びに来いよ」


 男は朋代の頭をクシャクシャと撫で、彬には意味あり気に目配せしてから妻の元へと戻って行った。


 彼がいなくなってすぐ、朋代は彬の腕を掴んで足早に歩き出した。彬は不思議に思いながら、朋代について行った。



「──さっきの人、知り合い?」


 朋代の歩くスピードが弱まった時、彬は尋ねた。


「……うん……知り合いのお兄さん、の方が正確。かな」


 朋代は苦笑して彬を見上げた。彼女の表情の暗さに彬は思わず息を飲んだ。


「何か……訳あり?」


「………………元カレのお兄さんなの」


 今にも泣き出しそうな程小さい声で、朋代が呟いた。

 彬はその声にも、内容にも衝撃を覚えた。返す言葉が見つからない。


 逆に疑問が浮かんできた。

 何故、元カレの兄が今でもあんなに朋代と親しそうにしているのか。兄が朋代を家に招く程の仲なのだから、元カレとも仲が良かったはずではないだろうか。元カレとは縁が切れて、しかしその兄とは切れていない。

 彬には訳が分からなかった。


 無言で朋代を見つめていると、彼女はおずおずと顔を上げてまた苦笑を浮かべた。


「話します……全部」




 朋代には昨年まで付き合っていた彼がいた。そう打ち明ける事から始まった。


「その人とは幼馴染で……自然に付き合い始めた、って感じだったの」


 近くにあった公園のベンチに二人は並んで座り、彬は朋代の話に耳を傾けていた。

 静かな公園だった。梅雨のせいか子供達がいない。でも梅雨が明ければ、また子供達のはしゃぐ声が聞こえてくるのだろう。

 見上げた空の分厚い雲が、今にも雨を落とし始めそうだった。


 朋代は暫く黙り込んでいた。次の言葉が喉につっかえた。


「……何で別れたの?」


 沈黙に耐えきれず、彬は尋ねた。直球すぎたかと、少し後悔した。


「別れた……とかじゃなくて……」


「……じゃなくて?」


「────去年……事故で」


 亡くなったの、と彼女の口が言ったか言わなかったか、彬は自分の耳に届いたか分からなかった。

 悪いことを聞いてしまった。彼女の辛い話を聞き出してどうするつもりだったのか、と自分を責めた。

でももうどうしようもなく、謝罪の言葉しか口から出なかった。

 彼女は静かに首を左右に振った。


「良いの、今まであまり話してこなかったから……ちょっとすっきりした」


 そう言って朋代は微苦笑した。


「それにもう一つ……貴方に謝らなきゃ」


「……俺に? 何を」


 謝られるような事をしたかと、彬は考えを巡らせた。しかし何も思いつかない。

 一方で朋代は決心し、息を大きく吸い込んだ。


「────貴方が使ってる香水、あの人も使ってた」



 雨が降ってきた。ポツ、ポツと大粒の滴が二人を打つ。


 朋代の言葉がどういう事を意味していたのか、何となく分かった。しかし彼女が謝る必要はない。何も悪くないのだから。

 ただ、朋代の想いを残して死んでいった、彼女の幼馴染が少し憎かった。


 彬は唐突に立ち上がり、振り返りもせずに口を開く。


「──正直驚いたけど、話してくれて嬉しかったよ。でも……」


 朋代は雨の向こうの彬の背中を見つめた。


「……俺にそいつの代わりは出来ないや」


 彼の言葉にギョッとして、朋代は慌てて立ち上がった。


「違う……そんなこと言ってない!」


 朋代に掴まれた腕を、彬は振り払った。その行為にショックを受けた朋代を見て胸が痛んだが、今は優しい言葉は出て来ない。


「ごめん……雨も降ってきたし……もう帰ろう」


 歩き出した彬に大分遅れて、朋代も歩き始めた。


 二人とも傘は差さずに。



 こんな事、今日話すつもりじゃなかった。

 楽しんで、たくさん笑って、それでバイバイを言いたかったのに。それなら何も言わずに隠せば良かったのだろうか。

 でも、それでも、彼の中にわだかまりが残ってしまうのは間違いないのだから、結局は同じことだったのかもしれない。

 今、彬が何を考えているのか知りたい。


 教えて、話してよ。


 滲んだ彼の背中を見つめ、朋代は静かに問い掛けた。彬は遠くて、届く事はないのだけれど、そう何度も願っていた。




* * * * *




 最後に彼女と会ってから、一ヶ月ぐらい経った。


 本日最後の講義をぼんやり聞きながら、彬は彼女の事を考えていた。梅雨も既に明け、彬はバイク通学に戻っていた。だから彼女に会うことは、殆ど無いに等しい。

 今日はあの頃とは比べ物にならない程の晴天で、向日葵が似合う天気だと思った。同時に彼女の笑い顔も頭に浮かぶ。

 彬は頭をガリガリ掻いて、窓の外から講義室前方にあるホワイトボードへと視線を戻した。


「おや、何々、彬君恋煩いですか?」


 隣の友人がからかうようにひそひそと話しかけてくる。

 実は彼らには何も伝えていなかった。あの日会って以来彼女と会っていないことや、彼女の元カレのことは勿論、何も話していない。


「最近朋代ちゃんとはどうなの?」


 友人は面白がって尋ねる。

 彬はそれを受け流すことすら億劫に感じた。


 どうなっているのか?

 そんなのこっちが知りたい。


 だから何も言わずに肩をすくめるだけで終わらせた。


 講義終了のチャイムが鳴り、学生がザワザワしながら講義室を出ていく。彬はペンケース等を全部鞄に投げ入れ、立ち上がった。


 講義室の外は蒸し暑く、すっかり夏の気候となっている。

 傾いた太陽に手をかざして、「あっちー」と彬は呟いた。鞄のポケットからバイクのキーを取り出し、構内の駐輪場へと向かう。

 ふと視線を上げて、駐輪場の入口に彼女が立っているのに気付いた。


 思わず足が止まる。最初は見間違えたかと思ったが、あの日と同じワンピースを着ていたため見間違いじゃないと確信した。


 俯く彼女を凝視したまま、暫く時間は過ぎていった。


 不意に彼女が顔を上げ、二人は目が合った。途端、彼女の表情が泣き出しそうな程に崩れ、そのままでこちらに走り寄ってきた。

 彬の心は大きく揺らいだ。


「──ごめんね、勝手に待ってたりして……」


「何で……ここに?」


 彬は必死に平静を装っていた。それでも顔には焦りが出ているはずだ。今彼女に会う心の準備は出来ていなかった。

 彼女は両手でせわしなく自分の髪をすきながら、早口で喋る。


「大学の名前聞いてたし……バイクで通ってることも……この前と同じ服着てれば、気付いてもらえるんじゃないかって…… それに今日初めて会った日と同じ曜日だから、この時間なら会えるかもと思って……その……」


 感情が高ぶっているのか、彼女の声は所々上擦っていた。

 彬は彼女に何かを言おうと口を開いたが、何も喋れずにそのまま閉じた。そして頭を掻いた。


「あー……ここじゃ話しづらいからさ、こっち来て」


 彼女の手を引いて、彬は歩き出した。




 使われていない小さな講義室に彬は入って行った。

 朋代は少し躊躇ってからそこに入った。大学なんて初めて入るから、余計に緊張してしまう。朋代はゆっくりドアを閉めた。


「──元気してた?」


 机に座った彼が不意に優しい声で尋ねたため、また胸に込み上がってくるものがあった。

 彼がそこにいると言うことだけで、とても嬉しかった。目に浮かんだ涙を慌てて拭い、朋代は大きく頷いた。彬が笑い声を上げる。


「何も泣くことないじゃん」


「だって会いたかったんだもん……」


 朋代がポツリと呟くと、彼は一瞬目を見開き、そして照れたように髪を掻き上げた。朋代は静かに彬の隣に座った。


「……あの後からずっと考えてた……俺が聞いててあの態度は良くなかったって思って……」


 ごめん、と彬が頭を下げた。朋代は何も言えずに、首を左右に振った。彬は視線を落としたまま、また口を開く。


「でも、その……元カレと重ねて見られるのは、俺も耐えられないと思うからさ……」



 あの人と彬を重ねて見る。

 そう意識したことは無かった。だけど彬にはそう感じられたんだ。無意識に失礼な事をしていたのだと、朋代は自分に嫌悪感を抱いた。


「──私、彬くんのこと好きだけど……やっぱりまだあの人のこと忘れられそうにないんだ……ごめんね」


 彬は膝に頬杖をついて、長く息を吐き出した。


「そうはっきり言われるとやっぱ傷付くなー……」


「うっ……ごめんなさい……でも今一番好きなのは彬くんだよ」


 朋代に目を覗き込まれ、彬は思わず視線を泳がせた。こう言う事は直球で言う人なのか、と内心照れた。

 照れ隠しに彬は机からストンと下り、鼻筋を掻いた。


「無理に忘れることないよ、大切な想い出なんだから……。それにゆっくりで良いよ……俺も……気持ちは同じだし」


 小さな声で呟く彬を、朋代は見つめていた。横顔がすごく照れていて、少しおかしかった。


 笑みと涙が同時に雫れた。もう止まらなかった。


「……ありがと────」



 涙を拭う朋代の手をそっと掴み、彬は彼女の顔を覗き込んだ。


 二人は視線を合わせたまま顔を近付け、ゆっくり唇を重ねる。



 まるで、雨の日の優しい匂い。




おわり

香水を変える気はないよ。いつか君が、この匂いで一番に思い出すのが俺になって欲しいから。


結構前に書いたものです。

読んで下さりありがとうございました!

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