第六十九話
女神イリアと魔女イリーナ。この二人は呼び名こそ違えど、数々の残された書物などから同一人物だと推定されている。
しかし実際には、二人が同一人物であると知っている人は少なく、また女神と魔女で受け取り方に真逆の印象を抱く人や国が多いため、その事実をあえて伏せて教えられることがあるからだ。
多くの国々で女神は崇敬と思慕を、魔女は畏怖と好奇の象徴として語られることが多い。
女神イリアは混迷した古ユーリトリア王朝末期に現れ、数多の絵師がその姿を描くことを求め、しかし正確に描ききれた者はないと伝わるほどの美貌だったという。真偽はわからないが、彼女の姿を描いたと思われる絵画が多く存在するのは事実だ。そして、その時代の絵師の多くが彼女を描いた後、筆を断っているのも。
この大陸に住む大半の人々が彼女の聖教画を一度は目にしていて、元々の宗教の一神教ガロスとは別に、女神イリアを信奉する存在として見ていることは間違いない。
ただ、女神イリアの場合、ガロスとは違ってより民に近い存在だ。なぜなら彼女は魔法を世に広め、多くの災害から人々を救い、腐敗した国を滅ぼし民を導いたなどの多大な功績をあげたことで神格化され、信奉され始めた元人という経緯があるから。よくある神話、英雄譚だ。
しかし魔女イリーナは同じ人物であるのに、国によっては女神イリアと同一人物である事実すら否定され、さらには酷い差別の対象でもある。
それは、彼女が数多くの功績をあげつつも、それと同じくらい災いを周囲に振りまいたからだ。
振りまいた、という表現はよくないかもしれない。いずれの災いも、彼女の意思であるとは考えにくい状況で起こった事故のようなものだからだ。
ざっくり言ってしまえば、類稀な美貌に惑わされた男たちが取り合って血で血を洗う争いを繰り広げたのだ。当時彼女にはすでに夫がいたにもかかわらず。
その夫は数多くの嫉妬を浴び三年という短い結婚生活を終えた。…自分の人生と共に。
そんなこともあり、夫殺しの毒婦と言われ、魔女イリーナは忌み嫌われることもある。
これらを踏まえて歴史家たちは彼女を、歴史上最高の偉人とも最高の妖婦とも呼ぶ。彼女の存在は魔法史にも世界史においても、大きな影響を残し歴史の分岐点だったと口をそろえて評するのだ。
また、ガロス教の神官たちは女神イリアをガロスの遣わした使徒と呼び、魔女イリーナをガロスから与えられた試練であった、という。
だが、魔法使い達にとっては、女神も魔女も歴史上最高の偉人に他ならない。なぜなら彼女は魔法を世に広め、多くの古代魔法を復活させ、民の暮らしを飛躍的に安全で便利にしたからだ。たとえその古代魔法の中に大量殺戮も可能なものが混じっていたとしても。
その功績の前では、妖婦だの毒婦だのの蔑称は塵芥だった。
「なるほど……」
いたたまれないほど注目を浴びた食堂から逃げるように自室に戻り、リーナと一緒にシギルの顔を確認しに行ったアーサーが戻った後、女神イリアについて大まかに説明をしてもらった。
アーサーは実に優秀だ。スリファイナでは魔導を教わる機会などないのに、いつの間にやら知識を増やし簡単な講義ができるほどになっている。
「私も詳しい魔法史までは手を付けていないので、これ以上の説明は出来かねるのが心苦しいですが……」
「ええ?そんなことないよ、すごいよ!さすがアーサー!」
満面の笑みで讃えれば、アーサーは生真面目な顔にやや照れを含ませてほんの一瞬微笑んだ。
「―――ありがとうございます」
「……………」
私はばかみたいにぽかーんとその顔を見上げてしまった。
まさしく脳が麻痺したような状態だった。
いつも心労を重ねたような深い眉間のしわに、鋭すぎて本当に切り殺せるんじゃないかと思うような視線、唇は常に怒鳴り声を抑え込んでいるのか不機嫌な形に引き結ばれているのに。
本当に、本当に珍しい、アーサーのその歳に見合った笑みだった。
可愛い……なんて言ったらどうなるんだろう。
怒られるだろうか、それとも更に照れた顔を見せてくれるだろうか。
後者は見たい。ものすごく見たい。本当に珍しいのだ、アーサーの恐ろしくない歳相応の笑顔は。
しかし……怒られるのは絶対に嫌だ。あの死神の高笑いと同じトラウマを抱えてしまう。
まさに天国と地獄。私の見積もりでは照れてくれる方に分があると思っているけど、もし怒られたらと思うと口は自然と閉じてしまう。
複雑すぎる……。素直になりたい、いや、素直にさせてほしい。こんな歳から感情表現を躊躇わなきゃいけないなんて、可哀想でしょ。ああ、不憫な私……
自己憐憫に浸るくらい、許してほしい。
しかし、ものすごく優秀で、おそらく私にだけ優しいと思われるアーサーは物言いたげな私に気づいてくれた。
「どうかされましたか?」
「あ、……え、と。えーと、ね」
言い淀む私を辛抱強く待ってくれる。なんて、本当になんてできた従者(今は護衛)なんだ!
くそぅ、これで裏の顔さえなかったら……と何度も考えてそのたびに涙をこらえた事実に今度も溜め息をつく。
「……アーサーが……」
「私が?」
「今、笑ってくれたから……。その顔が、ちょっと……可愛かった、の。ごめんなさい、年上の男の人に可愛いなんて、失礼だよね」
途端に鋭く息をのむ音が二つ。
目の前のアーサーと、背後にいるランスだ。
「……………………ひ、姫様は……可愛い男が好き、なんです、か……?」
完全に裏返って、今にも喉が潰れてしまいそうな程苦渋を含んだ声でランスに問いかけられる。
可愛い男が好きか。
まあ、可愛くない男よりは親近感は持てる。持てるけど、異性として好きかと聞かれればそれはまた違うと思う。
「うーん……好きになれるかもしれない一つではあるかもだけど、それがそのままタイプかと言われちゃうとちょっと違うかなぁ」
私の好きなタイプは爽やかで優しくて容姿はお互い卑屈にならないくらいで、なおかつ私をちゃんと愛してくれる人がいい。
欲張りすぎだろとか言われようがなんだろうが、タイプはそう言う人だ。こういう人ならすぐに好きになれる、という意味なんだから、高望みではないはず。
「なるほど……物語の中の騎士みたいな男ですか?」
「そうね、やっぱりお姫様だっこされたら嬉しいもの」
「そうですか……。……姫様が意識ない時だから、あれは数えてもな……」
ぶつぶつと何か呟いているランスに振り返り、その難しい顔を覗きこむ。
「ランス?」
「っ!……ああ姫様……姫様姫様姫様愛してますもう浚われてくれませんか一生幸せにしてみせます」
「えっ、だ、ダメだよ!」
「なぜですか?自分で言うのもなんですが、俺は姫様のタイプに合致してると思うんですが」
「え、う、うーん……そう、かな」
確かに中身はどうあれ見た目は爽やかだし、でろでろに甘くて優しいし、容姿も申し分ないし、何より私をこれでもかというくらい愛している。ちょっと勘弁してほしいくらいに。
……あれ、おかしい。素晴らしく合致している。私のタイプは注意事項が必要だったらしい。
「それならいいですよね?どこか静かな場所で二人幸せに暮らしましょう」
ランスはにっこりと天使の微笑みで、私をこれでもかと誘惑した。
……なんてこった、ランスは私のタイプど真ん中だった!爽やかとか優しいとか、そんなのは心底どうでもよくなった。『静かな場所で幸せに暮らす』これが一番の願いでなくて、何だというのか!
ものすごく揺れた。心はメトロノームの針より揺れた。もうランスに幸せにしてもらおうか、と半ば本気で考え始める。もちろん幸せにしてもらうばっかりじゃなくて、幸せをお互いに送りあえるような関係になりたい。五歳児の私に愛を囁くランスは限りなく変態だが、十年後…いや、十五年後くらいならありだ。思わず周囲の目を気にしてしまうくらいの愛を向けるランスなら、浮気なんてしなそうだし。
うん。いいかもしれない。
私の心の天秤はこの時完全に狂っていた。
「馬鹿を言うな、王女殿下を浚ってただで済むと思うなよ」
今の今まで固まっていたらしいアーサーが、危ういところで私の正気を取り戻してくれたことを本当に感謝すべきだろう。
十五年後ならありでも、今から十五年間は幼女趣味もしくは少女趣味の男と暮らさなければならないということに気づけたのだから。
「ただで済むと思わないから、誰もいないような静かな場所で暮らすんだよ。他はともかく、お前から逃げ切れるとも思えないからお前も巻き添えで」
「巻き添えとは何だ!元からお前に騎士道などは存在しないだろうとは思っていたが……。私はいったいどこでお前の教育を間違えたんだろうな」
「間違えてねーよ、姫様に仕えて姫様を守って姫様の幸せを最優先で考える。これが騎士道だろ?」
間違いないな、確かに。
感心しながらも、しかし言わせてもらえるならそこに私の生まれながらの義務を考慮してもらいたい。
どれだけ不幸になるとわかっていても、王族の一員として生まれたのならそこから逃げたらダメな立場だということだ。
王族が幸せになってはいけないというわけじゃない。だけど、民のお陰で飢えることもなくたいていの願いが叶えられる暮らしをしているのだから、その代償として自由が奪われるのは仕方ない話ではないかと思う。望む場所に生まれられたら幸せなこと、でも残念ながらそんな仕組みはこの世にない。王族に生まれたくなんてなかったと、誰にもどうしようもない駄々をこねられるほど私は我がままになれないのだ。
まあでも……こんなことは『騎士』には関係ないこと。
ランスの言う『騎士道』に間違いはない。物語の中の騎士はお姫様を守って幸せにする。それを『騎士道』と呼ばずして、乙女とは言えないだろう。
「えーと、二人とも、とりあえず私はここにいたいから。魔導を学びたいの。どこにも行く予定はないわ」
ランスの無茶にアーサーが怒る。そんな他愛無いことが大事に思えて、笑いながら首を振った。
なのに。
「本当に?」
真摯なヘーゼルの瞳に、浮かべたはずの笑みが強張る。
「え……?」
「……姫様、何度でも言いますが、俺はこの世の誰よりも貴女を愛している自信があります」
「…………」
黙っていると、ランスの手が私に伸びてきた。
私は……それを避けることもできずにただ見つめる。心のどこかで何かの期待さえしたのかもしれない。
節くれだった、剣ダコの目立つお世辞にも綺麗とは言えない手。だけど私は知っている。
―――その手が、誰より優しく温かいことを。
「姫様……本当に、浚われてはくれませんか」
指先が、その体温すら感じられるほど私の頬に近寄り……
急に離れた。
「いい加減にしろ、ランス。それ以上はいくらお前でも許さない」
聞いたこともないくらい低く暗い声がした。




