第六十七話
人が驚愕から憤怒を経て無になり、最後にゆっくりと笑顔を浮かべる瞬間を見たことがあるだろうか。
私はある。今まさに、極寒のブリザードの中で、それを見る羽目になった。
今の気分?常夏の島だと勘違いして夏服のまま氷の大地で凍え死ぬのを待つ最低な気分だよ。ガクブルだよ。いっそさっくりと殺してほしいよ。
それなのに私の背後の人は…いやホントに人なのかな…背後にいるというのにそのご機嫌さが手に取るように分かる。
なんだろう。おかしいな、ブリザード吹き荒れてるはずなのに背後の人だけ常春?
羨ましい。心底妬ましいくらいに、羨ましい。その精神力どこで鍛えたの。あ、まさか目の前の人と生まれた時から一緒だからとか言わないで。鍛える前に死ぬ。
現実逃避にそんなことをつらつらと考えていたら、髪に違和感を覚えた。
「姫様の髪は本当に綺麗ですね……」
「ひ…っ」
ぞわぞわぞわっと悪寒が駆け抜ける。
い、息が!息が耳!声!ひーーーー!!!!
硬直した私の視界に、地獄の鬼もここまでサディストじゃないだろうというくらい、つり上がった唇が惨劇を予感させる笑顔のアーサー。
終わった……なんかもう、今死んだ。頼む、もう気を失わせてくれ。私の小さい脳よショートしろ!今だ!今しかないんだ!!ほら早…
「…………貴様はよほど俺の実験台になりたいらしいな」
あ、あれぇ!?おかしいな、まだ意識がある上に幻聴!?幻聴だよね!?『実験台』なんてそんな……、いやもうそんなことは果てしなくどうでもいい!それよりも何よりもまずしてもらいたいことがある!
「た、助けて……」
もう恥ずか死寸前です!チーン……
脳内に昔懐かしいおりんの音が鳴る。ああ、前世のおばあちゃんの家にあったなぁあれでよく遊んで怒られたんだよねお坊さんが鳴らす木魚も一度叩いてみたかった……
……。
………………うん、そう簡単に意識も無くならないし死なないよね。私って神経太い。
現実逃避しよう。
何でアーサーの凍える視線を浴びなければならないかといえば、私がランスの腕の中にいるからだ。
もっと言えば、ランスの膝の上にいるからだ。
さらに言えば、さっき怒られたばかりだというのによりにもよってそんな状態でベッドに座っているからだと思う。
あはは、現実逃避にならないや。精神的に致死率が上がっただけだな。おりんの音色が頓珍漢なリズムで私を天国に誘ってるわあはははは。
……さあ殺してくれ!恥ずか死なんて妙な死に方したくない!すっぱりとこの世とおさらばしたいんだ!
そうすっぱりと……!
シュシュシュッ!!
カツカツカツッ!!
「…っ、いつになく、冴えわたってるじゃんアーサー……俺が避け損ないそうになったの、初めてだぜ?」
「結局あたっていないのでは話にならん」
睨みあう二人に挟まれた私は魂を飛ばしかけていた。
「………………」
や、やっぱり、すっぱりとやっていただくお話は無しの方向で……
人間穏やかに寿命で往生するのが一番だよね!うんうん!…うん。危うく臨死体験するとこだった…
意識は完全にあの美貌の死神様が最高の笑顔で鎌を振る姿さえ見えてた。思わずその姿を探した私は調教されたんじゃないと主張したい。……違うよね?まだ踏み込んでないよね?ね?
ま、まあそれは置いておこう。すごく大事な問題な気がするけど、とりあえず置いとかないと泣いちゃいそうだから。うん。ここで現実逃避をするのは非常に危険だ。
「あ、あの!アーサー、用は終わったんだよね?」
すると睨みあいを続けていた生真面目な青年は、ようやく私の青ざめた顔に気づいてくれたらしく目を見開いた。
「王女殿下、申し訳ありません。直ちに、即刻、その愚か者…いえ、ゴミを躾直してまいります」
「ご、ごみ…」
「これからの呼び名は害虫、汚物でも構いません」
「さすがに……呼びづらい、かな……。と、とにかく私をここから降ろしてほしいの」
「なんと不憫な……。ランス、貴様の幼少時代からの黒歴史をここで語られたくなければ、今すぐにその手を離せ」
私を人形のように抱えているランスは、その言葉にも動じない。
「黒歴史?そんなもん覚えてねーわ。お前の捏造歴史じゃねーか?」
「ほぅ……。なるほど。お前がそのつもりなら、俺も存分に語ってやろう。まずはそうだな、あれは四歳の頃だったか。お前は俺が夜一人でトイレに行けるようになり、オムツから普通の下着に変わったことで駄々をこね、試しにとオムツをしなかった夜、半ベソで寝ている俺を起こしておねしょをしたことを言ってきたな」
「っ!?」
「親にはバレたくないのだろうと親切にも下着を履き変えさせ、濡れたシーツと布団はこっそり話のわかる侍女に頼み新しいものに変え、朝には何事もなかったかのようにしてやったというのに、お前は俺がおねしょをしたことにして両親に告げ口を……」
「う、うわぁぁぁああああああ!!!!!」
「まあそれでも俺は可愛い弟が怒られるのは忍びないと思い黙っていれば、挙動不審になって最後にはまた泣きべそをかきながら俺に謝ってきたな。あれは不覚にも本当にお前が可愛いと思った……」
「ぎゃぁぁぁぁあああああああ!!!!!」
「その後しばらく俺の言うことを従順に聞いていたのは、今でもよく覚えている」
「悪かった!ごめんなさい!!頼むからもうやめてくれ!!」
「反省の言葉はこれからの行動の展望と一緒でないと意味がないと思わないか?」
「すみません!もうしま…せん。……たぶん」
「なるほど、まだ歴史は語られ足りないと」
「しません!誓います!!」
「最初から素直に謝ればいいものを、反抗などするからだ」
ランス……
初めて貴方も人間だったんだなと思えたよ。それもちゃんと子供時代があった男の子なのだと。
今までどうもおかしな言動ばかりを見てきたせいか、ランスのことをちゃんと同じ人間として見てあげられなくてごめん。そうだよね、ランスだって子供時代くらいあったよね。無邪気に笑い転げてた時代があっておかしくないよね。
それにしてもアーサーは昔からアーサーなんだなぁ……
しみじみと二人の子供時代に思いをはせていると、私の体がふわっと抱えあげられてすぐに別の腕が私を支えた。
「王女殿下、やはりランスは護衛からはずしましょう。その方が余計な手間がなくなります」
「え、えええ?」
「余計な手間って何だ!俺より姫様の護衛に向いてるヤツがいるなら連れて来い!ぶっ殺してやる……っ!」
「ぶっ……そ、それはちょっと……」
「ここはだいぶ人の出入りが厳選されているようですし、厳重な結界が張られていますし、そうそう王女殿下に手出しできる状況にはないと思います」
「それはそうだけど……」
「無視すんな!アーサー!」
「あ、あの……ランス、ちょっと落ち着いて。アーサー、話を聞いて上げ……」
間に挟まれた私がしどろもどろに二人の話をつなぎ合わそうと四苦八苦するが、そこは双子だ。見事にシンクロしている。
―――彼らは何も聞いてはくれなかった。そう、私に対して話しているのだろうアーサーさえ。
「私一人でも事足りるものだと思います。護衛対象に不埒な真似をする馬鹿な護衛など、聞いたこともありません」
「それは私も初めてだけど……」
「お前が不審者に先に気づけばいいだろうけどな、後手に回ったらお前の腕で姫様守れるわけないだろ!」
「ランス言いすぎじゃ……」
さすがにそれは、と思い宥めようとすると、一段と低くなった声が私の頭上から浴びせかけるように発せられた。
「……俺の腕が、お前に到底かなわないことも、他の奴らにも負けるかもしれないのは知ってるがな……そこまで言うなら、お前のその抑えようともしない欲望をどうにかしたらどうなんだ……?不審者よりもお前に警戒しなければならないその不遇を、お守りしなければならない王女殿下に強いているのを恥じろ!」
「アーサー……」
「……っ」
こめかみがぴくぴくしていたアーサーの怒鳴り声に、ランスもたじろいで視線を落とす。
まあ……護衛に必要なのはずばり信頼だよね。間違いない。
そしてランスはその腕前は極上だ。この世界でも指折りだとレオヴィスも言うのだから、その実力はこれまで見てきた以上にすごいんだろう。腕に関しては、何の疑いもなく信頼できる。
しかしこと私の傍でただじっとしているのは、彼にはできないらしい。
すぐに私の傍に近寄ってきては触れたがる。甘い言葉を囁こうとする。私が二十歳の中身でなければ完全にどん引いて泣いて嫌がったことだろう。
……まあ、二十歳の中身だからって、どん引かないわけではないけど。
「まったく……。頭痛で目眩がしそうだ」
「だ、大丈夫?無理しないで休んでいいよ。……ランスは、たぶん何とかなると思うから」
「たぶんではダメなのです。安心して王女殿下をお任せできなければ、それはもはや護衛ではありません」
まったくだ。
「でも……」
「そこに寛容になれば、その馬鹿はどこまでも付け込んできます。駄目なものは駄目なのだと徹底的に教え込んでやらなければ、踏みこめるところまで一気に踏み込みます。王女殿下が本当に嫌がらないギリギリの線を探って、その線をいかにして奥に押し込むか、踏み越えるか、見極めるのが異常に上手いのです」
なんだかどこかで聞いたような例えだ。
そう思い記憶を巡らせると、首都へ行く馬車の中でレオヴィスが似たような言葉で例えた人物がいた。
「……アレクスシス殿下みたいに?」
あの王子様も確かに心の隙を突くように私の手を取るのが上手かった。
警戒したはずなのに、不意にほろっと崩れた心の死角から浚われたような、そんな動きだった。
まあそんな彼から後腐れなく簡単に私の手を奪い返してくれたレオヴィスも、異常と言えば異常だけど。
「そう、ですね。あの殿下もまた何かの達人であられるのでしょう。従者の方も随分と強そうな方でしたから……」
「従者?」
「はい。覚えておられませんか?アレクスシス殿下をお迎えに上がった、藍色の髪に青い目をした……。足さばきがランスと似ておりました」
従者。確か、一度…二度?くらい会ったあの真っ青な目をした人のことだろう。
顔の横一文字に走った傷がなければ、見惚れるほどに端正な顔立ちをしていた。いや、傷があっても、あるからこそ女性が惹かれない理由はない美貌とも言える。
けれどなぜか、私の彼への印象は『恐怖』だ。
それも傷があるからではなく、あの目が怖い、と感じてしまった。
二度会ったというよりは見かけただけの…しかも目が合ったわけでもない、他人の従者なのに。
……二度?
私はあの目を、三度、見たような気がする。
一度、恐怖の中であの目を見上げたことがあるような……
「王女殿下?」
「あ…………何でもない。……それより、そろそろミネアが来る頃かな。部屋着じゃない方がいいよね?」
「そうですね。食堂に行くのですから、多くの人の目につきます。部屋着姿はせめて女子寮内まででおやめください」
「はぁい」
思い出しかけた何かはぷつりと切れ、もはや影も形もない。そうなればそれ以上今どうにかしようとしてもしょうがない。
そのうち、きっと思い出すだろうし。大事なことならなおさらだ。
のんきにそう思っていたこの時の私を、未来の私が呪い殺さんばかりに思い出すのは……
さていつか。




