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傾国の姫  作者: 安田鈴
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第六十話

 馬車の窓から揺れる景色を眺める。

 首都の煩雑としながらもどこか調和のとれた美しい街並みを遠く離れ、今はレオヴィスが将来治めるシーグィ地方に向かっていた。




 私が誘拐された事件の顛末は、レインに辺境地での生涯の幽閉が決まったこと、シグマがレオヴィスの口添えで一定の保護が認められたこと、そして私にノエルの養育を任せたことで締めくくられた。

 初めはどういうつもりかと疑い、その説明を受けても信じ切れずにいた。

 彼が言うにはノエルは王弟殿下の娘になるらしい。いや、はっきりとそれ以外にあり得ないと断言した。

 国王陛下から見て三親等に当たる親族のうち、所在不明の王族が一人いるのだと。王位継承権を争い、他の腹違いの兄弟姉妹は全て処刑された中、ただ一人多くの犠牲を払い逃げおおせた王族。それが、先代国王陛下の生涯のほとんどを正妃として支えた女性の、たった一人の息子。

 正統な王位継承者だといまだに囁かれる、ジーニアス王弟殿下だ。

 国王陛下はその弟を探し続けている。

 もちろん失踪した弟を案じて、などという理由ではないのだろう。それは腹違いの兄弟全員が処刑されていることからもわかる。

 その王弟殿下の娘……

 不穏分子でしかないノエルを、いったいどうしてレオヴィスは引き取ろうとしているのだろう。

 引き取るからには重要な意味があるはずだ。そんな存在を、どうして私に……いや、スリファイナ(・・・・・・)に養育させようとしているのだろう。


 理由など色々考えられる。だけど、私はもう考えたくなかった。

 もういやだと思った。

 レオヴィスの考える未来など知りたくないし、この世界の運命など知ったことかと唾棄したかった。

 無責任?

 もうそれでもいいと思った。私の運命は私が決めたことなんかじゃないし、私の言動が国を傾かせるのだとしても、傾くだけの何かがあったからそうなるのだ。それは私だけのせいではない。

 もう……いい加減、私の心が悲鳴を上げている。

 考えたくないと、私の頭が現実を拒否し始めている。

 弱いもののことを考えろと私の理性が叫ぶけれど、それを高らかに嘲笑う声が響くのだ。

 なぜ考えなくてはならない?と。

 死神は言ったではないか。世界が変わる時に犠牲にならない命などないのだと。

 正義も慈愛も善悪も考える必要などない、と。

 嘲笑う声を、今はもう抑えようと思うことすら億劫だ。なけなしの良心が限界ギリギリまで削られてしまったように思う。

 そうすると悪魔が囁くのだ。

 思うように生きてしまえ、と。誰が犠牲になろうと、どれだけの犠牲が出ようと、自分の望みさえ叶えばいいじゃないか…と。


 ……私は、どうしたらいいのだろう。

 私の心には弱者を忘れるなと叫ぶ理性があって、だけどそんなことを考えれば考えただけ自分の心が削られていくだけだ、と淡々と冷静に考える理性もある。

 だんだんと心が何かに浸食されていく。それが、決していいものでないことはわかるのに。

 止められない。今までは何とか抑え込んでこれたそれを、今は少しずつ侵入を許してしまっている。

 まるでバケツ一杯の水に墨汁が染み出していくような、そんな感覚。いずれバケツの中の水は黒く染まり、何も見えなくなるのだろう。

 わかっているのに、止められない。

 止める力を―――失ってしまった。そう思う。

 それに……私は思い知った。

 いくらあがこうとこの運命は過酷な選択を私に強要する。

 そして私にどれだけの能力があったとしても、この運命を受け入れて認めなければ、その能力を振るう一手すら下せないのだと。

 もしも今回のことで私の運命をレオヴィスに捧げていたら、なりふり構わず使える者はすべて使っていれば、おそらくシグマは助かったのだ。少なくとも、シグマだけは。

 私がこの運命を託すことに怯えなければ……私の意思など後でいくらでも取り返せる、取り返して見せると、思いきれていれば。

 ―――もはや、今更ではあったけれど。




 シグマを取り返しのつかない事態に追い込んだ私の顔は青白く、きつく握りしめた手も冷たく固まり、立つことも碌にできなくなっていた。

 エシャンテ様に誘われていた午後のお茶会も、体調不良で欠席にしてもらった。

 レオヴィスはアーサーとノエルのことについて話し合うべく南宮の自室の執務室へ、私はランスに抱き上げられて部屋に戻った。

 ランスは珍しく何も騒がずにベッドに私を下ろすと、ほんの少し躊躇った後、私の足元に跪いた。


「……ランス?」

「姫様。……俺は、姫様が好きです。全てを捧げてもいいと思えるほどに、愛しています」

「な、なに?とつぜん……」

「姫様が俺に死を願うなら、今すぐにこの首を斯き切ってもいい。骸を積んで城壁にしろというなら、どんな虐殺もするでしょう」

「……」

「姫様。姫様は……今、逃げたいとお思いですか?」

「……」

「心お優しい姫様。……臆病な、俺の小さな姫様。逃げたいと、俺にそう願うなら……」

「ランス」

「そう願ってくれるなら。俺は」

「ランス!」

「……姫様」

「……ごめんなさい……」

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 繰り返す私に、ランスは跪いたまま私を見上げた。

 ヘーゼルの瞳が仕方なさそうに笑う。

「優しくて臆病で、誰よりお美しい姫様。俺はいつだって貴女のものです。貴女の物であることが何よりうれしい。貴女のためならどんなことでもできる。覚えていてください、俺が貴方の物であることを。貴女が望むことは全て叶えて差し上げたいと思っていることを。それを何の苦にも思っていないし、むしろ喜びだと思っていることを」

 そう言ってきつく握りしめたままだった私の右手を手に取り、額にこすりつけるように最上級の敬愛と親愛を示す。

 私がそれを拒否もせず怯えもせず、どこか呆然と見下ろしていると急に視界が翳る。目の前に喉仏の張った男の首があって―――

 温かな感触が額に落ちた。

 それも逃がさないと言うかのように、後頭部をしっかりと大きな手で固定されて。

 温かな感触は一度で終わらず、何度か啄んで最後にこめかみに当てられてから離れていく。

 ヘーゼルの瞳が至近距離から私を覗きこむように見下ろしている。

 柔らかで、なのに伝染させるほどの熱を孕んだ―――

「ひ、ゃ……っ!?」

「―――愛しております、姫様。この世の誰よりも」

 悲鳴を上げかけた声は沸騰する心臓に潰されて出ない。

 顔と言わず耳と言わず、頭の先から足の指先まで全身が熱い。

 ぱくぱくと声が出ない口を開閉する私をしばらく楽しげに見下ろして、後頭部に回していた手を離す。

 その指先に残った青の混じる銀髪を指先に絡めるような仕草が、そこはかとない色気を醸し出していた。

 十分に満足したのか、ランスは今度こそ体を離す。

 そうして完璧な辞去の挨拶をして部屋から出ていく。私はそんなランスを見送ることしかできなかった。

 しばらく魂が抜けたようにランスが出ていった扉を見つめ、不意に思いつく。

 思いついてしまえばそれ以外の理由など考えられなくて。


 ……ああ、私の気分を別のところに向けようとしてくれたんだ、と。


 私は、最低だ。

 想いを返す、そんなことすら重いと感じてしまった。

 だから遮った。あれ以上聞いてしまえば確実な答えを出さなければならなかったから。


 私は……


 好き勝手に甘えられる場所だけ得たいと、思ってしまったのだ。


 ランスの心には目を塞いで。




 ……最低、だ。







 馬車の中できつく目を瞑り、あの日から幾度も脳裏を埋める言葉から逃げようとする。

 どういう手続きを取ったのか、ノエルはアーサーの養子として引き取られたことになった。そしてどういうわけだか手元で育てる、ということにも。

 当たり前だが、あの目立つ瞳は魔法で黒にしか見えないようにしている。魔法で魔法を上乗せしている状況だ。

 ただ、魔女の魔法というのは特殊で、常時かけ続けていなければ他の魔法をかき消してしまうのだと言う。

 ノエルの父親もそうして隠し続けているのだろう、とレオヴィスはどこか遠くを見つめるような目で呟いた。

 その仕草に戸惑う。

 知っている、のだろうか。ノエルの父親を?

 けれど国王陛下が玉座に就いたのは十年以上も前のこと。王位継承争いが起こったのも十年以上前。つまり、王弟殿下がこの王宮にいたのは十年以上前のことで、当然九歳のレオヴィスが生まれる前の話だ。

 知るわけがない。ない、けれど……

 なぜだか私はレオヴィスがその王弟殿下を知っているような気がした。それも、かなり親しく。

 そう思えるほどには、レオヴィスの目は優しく哀切に陰っていたように見えたのだ。

 ……言及はしなかった。聞いて真実を語ってもらえるとは思えなかったし、よしんばまともな答えが返ってきても……今の私にはどうでもいいような気さえしていたから。


 心がみしりみしりと軋んで、苦しい。

 レオヴィスのことを、怖いと思いながらもどこか信頼していた。身勝手な信頼だ。わかってる。

 ―――私、わかってるのに納得できてないこと多いな。

 ふ、と小さく自嘲して窓の外を眺める。

 春の空は青く澄み、私の心を置き去りにして運命の歯車は動き始めた。

 置き去りにされた心はどこかにひびが入ってしまったようだ。にじむように浸み入る黒に抗うこともできず、補強する術も今のところ見つからず……―――

 疲弊していく。

 私は本当に、この運命に流されるだけしかないのだろうか。

 誰かを犠牲にする人生なのだろうか。

 屍の上を踏み歩かねばならない、そんな残酷な……

 こうして自問自答して、諦めるしかないのか。

 吐き気がする。真っ黒に塗りつぶされたような未来に、いったい何の希望があるのか。

 いっそ……


 ―――……いっそ、こんな世界、滅んでしまえばいいのに。




 ぽちゃん、と一際大きな水音がした。

 清らかだった水がほんの少し黒ずみを増す。

 それを愉しげに見つめる目があったことを、私自身でさえも知らない―――

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