第五十九話
何を言ってるんだろう。
私は真剣に、そう思った。
ノエルが、我が王家の一員?
我が王家……ユーリトリア王族の、一員?
呆然とした。
ぽかんとレオヴィスを見つめる。
何を、言ってるんだろう。
そんなに、狂気じみた顔で。レオヴィスは、何を。
今や込み上げる笑いを隠す気はないのか、レオヴィスが片手を顔に当てて俯きがちに肩を震わせながら唇の端を吊り上げている。
狂気。
歓喜を超えた、それはもはや狂気だった。
「まさかこんな……」
くつくつと笑うその姿に、背筋がぞくりと震える。
レオヴィスは、いつでも冷静沈着だった。ほとんど表情も変えない、年齢にそぐわない大人びた様子に安心感を感じてもいた。
それが。
「ははっ、まさかこんなことがあるとは!ユリフィナ、お前の運命はつくづく本物だ!!」
不安。
私は、レオヴィスのその様子に、強い不安を感じている。
普段とあまりにも違う、その姿に。
「レオ…ヴィス……?」
「シグマ、と言ったか。悪いがこの赤子はこちらで引き取らせてもらう。父親の系譜の者だ、文句はあるまい?」
いまだに狂気の片鱗を残して傲慢に言い放つ姿は、これまでうっすらとしか見なかった支配階級に立つ大国の王子そのものだった。
レオヴィス・ラウ・ル・シーグィ・ユーリトリア。
私が極力歯向かいたくないと思っている人。けれど彼の描く未来によっては、歯向かわなければならない時もあるかもしれない、たった九歳の、だけど私にとっては絶対的な支配者。
―――アレクスシスに感じた怖さとは段違いな、威圧感。
彼が正真正銘、支配者階級に属していると知れる姿だった。
「そんな……そんなわけ、ない!」
恐怖に首を振ってあがくシグマに、レオヴィスは残酷に笑う。
「間違いなど起こらない。これに限ってはな。……我が王家は、国王から見て三親等までの親族に系譜の者と知れる特徴が現れる。男は完全な赤、女は赤の混じった瞳によってな」
言われ、そういえばと思い返した。
国王もレオヴィスもアレクスシスも、濃淡こそ違いはあれど赤い瞳だ。エシャンテ様は飴玉のようなオレンジ色だが、光の加減で赤く見える。…そう、ノエルのこの黒い瞳のように。
そういうものかと思っていた。国王陛下からの遺伝なのだろうと。
だけど考えてみればおかしなことだ。
そこまで強い遺伝情報なのに、私は彼ら以外に赤い瞳を知らない。この国の有力な貴族たちには少なからず王家の血が混じっているだろうに、似たような色さえも見かけなかった。
「その昔、ある王の代に魔女にかけられた魔法だ。今もって原理が解明されていないが、必ず国王から見て三親等までの親族がその目の色を変える。国王が変わればその通りにな」
魔女。
魔法を発展させ、一般市民でさえ気軽に魔法を使うのに、「魔女」とわざわざ呼ばれる存在に興味を引かれた。
酷く奇妙な感じを受ける。魔法を、魔道を知らない私に、その意味はまだわからないけれど。
「魔女」は、どうしてそんな魔法をかけたのだろう。意味もなくかけたのだとすれば、蛮勇にすぎる。血筋に不安がある、と皮肉に取られる可能性の高い行為だからだ。
国王が変わるとその通りに変わる、など、将来に渡って続く魔法としたのにも疑問だ。
しかも国王の三親等まで、という条件などなぜ付けたのだろう。「王族」という括りではいけなかったのだろうか。
直系なら曾祖父母から曾孫まで、傍系ならおじおば、兄弟から甥姪。しかしいとこは入らない。なぜなのか。
疑問は尽きない。
その原理も内容も、何もかも。
血筋を確かにするため?
それを尊ぶような民族意識があるようには思えないのに。
……いいや、そんなことより。
ノエルは……どれに当たるだろう。まさか直系とは思えない。歳の離れた妹でもないだろう。先代の国王陛下が身罷ってもう十年は経つし、先王妃は六十近いお歳だったはずだから。となると、姪。
そこでふと、『教育係』に叩き込まれたユーリトリア王族の系譜が思い浮かぶ。
何かが引っかかった気がした。
それが何か分かる前に、レオヴィスの話が進んで慌てて考え事を中断する。
レオヴィスはやや自嘲じみた顔だった。
「魔女は目印だと言ったらしい。何のための目印だったのかまでは語られていないが、貴族階級はもとより一般市民でもユーリトリア王族は赤い瞳だというくらい知っている」
そして、我が王家以外に赤い瞳はこの世界に存在しないと言うことも。
淡々と話される内容は、どれほどシグマに衝撃を与えているだろう。
ありもしない罪に対する罰以上の絶望など必要ないはずだったのに。
私がレオヴィスの注意など引かなければ。いや、ミルクを上げようなどと余計なことを考えなければ。
たらればのことを考えればきりがないことなどわかっている。
わかっているけれど、自分の愚かしい言動のせいで自分以外の人が苦しむ様は、吐き気を催すほどの後悔で頭がおかしくなりそうだった。
シグマは……私のせいで必要のない罰を受け、唯一の肉親、心の支えさえ奪われる。
私はいったい何がしたかったのだろう。
こうではなかった。前世の弟と重なる年齢の子供を助けたかった。
ただ、それだけだったのに。
助けたかった、のに。
「ま……って、待って!」
「ユリフィナ、こればかりはお前のどんなおねだりも聞けない。この駒の一手は、私の願いを大いに成就へと向けてくれるだろうからだ。もっとも……」
すぐさま否定された願いの捌け口はなく、たっぷりと間を取った後に言われた言葉は私の躊躇を煽る。
「……お前が今後、私の言葉に従順になると言うなら……最大限、私の権力を振るってやることもやぶさかではないが」
できないだろう?
そう、言われた気がした。
……そうだ、私にはその言葉に頷くことはできない。利己的だと罵られても仕方ない。だけど、誰かの言いなりになることは……できない。
誰かの言いなりになるということはつまり、『私』の意思が消えるということだ。
それだけは、したくなかった。私は『私』のままでこの生を生きていきたいのだ。それが私にできる精一杯の抵抗なのだから。
この憎むべき運命に対する、私の精一杯の。
吐き気は酷い。
悔しくて悲しくて恨みがましくて、…憎悪さえ浮かぶ。
手酷く裏切られたような気持ちで、涙をにじませながらレオヴィスを睨んだ。
レオヴィスは、驚くでも悲しむでもなく、静かにその視線を受け止める。
静かな、本当に凪いだ湖面のような静けさで。
「……だが、そうだな、この子供と縁を結んだという点において、私はお前に感謝している。この感謝には、やはりお前の願いをささやかでも叶えてやらねばならないだろうな」
レオヴィスは先ほどから自分のことを『私』と名乗っている。
私的な場所では『俺』と口調を砕けていたのに。
……もう、その自称を聞くこと、その心の内を垣間見ることは、できないのかもしれない。
どこか近しかったはずの心の距離が、今は測れないほどに……遠い。
思わず縋りそうになる自分の心が、彼の身分に対する恐怖のためなのか、密かに育て始めていた信頼のためなのか。
もはや知ったところで、縋れはしないけれど。
「お前の願いはいくつか知っているが、私が今与えられるものは一つ。その少年…シグマとやらの待遇を上げてやることだ。罰も刑期も変えることはできないが、無事に生き残れるだけの生活待遇にしてやろう」
「……無事に……本当に、無事に?十年後、どうなったか私が調べても、いいのね?」
「ああ。保証してやろう」
言い切った姿は、その責任を背負った者の姿で。
私は逡巡して、…小さく頷いた。
「絶対に、約束して。シグマを生き残らせて。もしこれを破ったら……どんなにレオヴィスに責任のないことだったとしても、十年後、シグマが生きてなかったら、私は私にできる最大限の抵抗をさせてもらうわ」
「もちろんだ。その時は、私は公私においてお前にその代償を払うことを約束しよう」
公私において。
その言葉の重さを、私はまだ正確には理解できてない。だけど、それが恐ろしいほど力のある言葉だということはわかる。
そして馬鹿な私は、後悔しかない選択をする。
シグマから……たった七歳の子供から唯一の肉親を奪い、助けようと思えばできた罪を負わせた。
―――私は、この酷い罪悪感から逃れる術を、知らない。




