第五十七話
酷い吐き気と戦っている私に何の助けもないまま、張りつめた空気は続く。
唾を嚥下する音さえ響きそうだった。
「……あの?この御令嬢は……」
そんな中、法務官の男が戸惑ったような顔で私とレオヴィスの顔を交互に見やる。
突然少女がマントの中から出てきたのだ、訳がわからないのも無理はない。
しかし私は今まだ喋れるだけの気力が回復しておらず、さらに蛇に睨まれた蛙のようにレオヴィスの無表情な顔から…凍りつくような炎の瞳から目をそらせなかった。
「……彼女のことは忘れろ。とにかく書類を作れ、今すぐに」
平坦なその声は無感情に聞こえるけど、わかる。彼は、怒っている。それもものすごく。
それが私の全身を震わせた。
怒らせた。とうとう怒らせてしまった、この少年を。
この国の、この大国の王子を。
……終わった。
心の中で灰になりかけの私が、せめて楽に死にたいと土下座している。
あれだけレオヴィスだけは怒らせないように、機嫌を損ねないように、慎重に空気を読んでたのに。
バカバカバカ、私の特大バカ。
せめて……いや、何をどうしても今よりマシな状況って黙って見てた場合だけだ。やっぱり怒らせるのは必至だったな。どうしようもないな、私。
つらつらと考えるのは後悔と自分への罵倒。それ以外に思い返すとしたら、シーナへの乙女にあるまじき悪態の数々だ。
あの野郎さえ私の前に現れなければ、今頃退屈で平凡な毎日が送れていたかと思うと……
殺
…………ちょっとR指定な猟奇殺人が脳内を駆け巡る。見るも無惨だったな、あの自慢の美貌が。ああ、もったいないもったいない、いい気味いい気分……ふふっ
……………………なんでだろ、背筋がぞくぞくする。
恐ろしい背筋の震えを感じてしまったけど、美貌の死神の無残な姿を思い浮かべたのがよっぽどよかったのか、恐怖が鬱屈した妄想に押されて体の震えを解き始める。
何かが詰まったような喉も、滑らかに唾液を飲み込めた。
今なら、進んでしまいそうな話を遮れる気がする。
「レオヴィス様、お待ちください。私の要望はどうなるのでしょう?」
私の言葉に一つ、ため息にもならない小さな呼吸が漏れた。
「……ユリフィナ、どうしてそうこだわる?刑罰が軽くなるんだ、その方がいいだろう?」
そう、レオヴィスの言う通り、あのまま見守っていれば処罰は私の考えていた最悪のシナリオからは想像も出来ないほど、軽い刑罰で済んだだろう。
私もシグマも、誰もが後味の悪い思いをすることなく、終わる。
恨まれもせずよかったと心から笑うことができ、感謝だってされる。レオヴィスの側室問題もあるけど、それ以外は何も悪くない、いいことづくめの。
「―――でも、私はシグマにこの国から出ていって欲しいの」
「何?」
「私は、その子にこの国に居て欲しくないの」
どういうことだ、とレオヴィスの目が細められた。
私の真意を探るその視線は、戸惑いを含みながらも厳しい。
恐らく、生半可なことでは納得してくれない。
だけど私にはこれ以上を語る気はなかった。
「……二人の喧嘩に仲裁役は必要かな?」
私にとって気の遠くなるような睨み合いは、意外な人物によって中断させられた。
「……アレク兄上」
「ふふっ僕がここにいるのが不思議?僕もとんだ厄介事を押し付けられて、ちょっと後悔してるんだ。下手に好奇心など出すものじゃないよね」
やれやれとでも言いたげな顔は、しかし年相応な好奇心に満ちていて、とても後悔しているとは思えない。
深紅の瞳が興味深そうに私とレオヴィスを見ていた。
「まあ、まずはこの場を納めようか。えーと、そこの法務官…ああ、名前は別にいいか、お前はその少年の担当から外された。帰っていいよ」
「え、で、ですが……」
「耳と頭の悪い法務官は、今すぐ頚にするよ」
あっさりと、甘い顔ににこやかな笑みを浮かべて言う。
そのあまりにも端的で軽々しい首切り発言に、法務官の男が一瞬呆けてから徐々に顔を赤くする。
……怒りのために。
「アレクスシス殿下!お戯れだとしてもそのような発言は品位を疑いますぞ!」
「そう。好きにしなよ。ただし、明日からお前の一族がこの首都で暮らせるとは思わないことだね」
「何を……」
「牢番、今すぐこの男を不敬罪の咎で牢に入れろ」
今まで空気か影のように少し離れた位置でこちらを見ていた牢番に、そう命令する。
そこに一切の感情はなかった。まるで慣れた作業のように、ごくありふれた日常の世話を侍従に申し付けるような、そんな簡単さだけがある。
―――……ぞっとした。
法務官という、庶民からすればその地位すら手が届かないであろう立派な職務に就いていてなお、王族の一言で全てが変わる。
アレクスシスが言うように、恐らく明日には彼の一族はこの首都にはいない。いられないだろう。
彼には姪がいると言った。姪を王子の側室にと言えるくらいだ、貴族の中でも高い位置にいるはずなのに。もう明日には、その姪もいないのだ。
たった一言言い返しただけ。十四、五の子供ににこやかに言われたから、本気ではないと思っていただけで。
こんなことが、本当に……?
青い顔をした男が見ていられなくて、視線をそらしてしまった。
「牢番。お前も入る?」
牢に。そんな一言が聞こえた気がして、ますます肩を震わせる。
片や甘いとすら言える笑顔で、片やこの世の終わりのような絶望した顔で、この世界の身分を縮図する。
「わ、わかりました……」
法務官ほどではないが青い顔をした牢番が男の前に進み出た。
「っ、なぜですか!?なぜ、なぜこんな……!」
「言われなければわからないようなら、どの道出世は遠かったよ。よほどのコネでも作らない限りね。……まあ、特別に教えてあげようかな」
にっこりと微笑み、男に止めを刺す。
「ちょっと考えればわかるでしょ?ここにレオヴィスがいて、僕がいる。一目見ただけで相当な貴族とわかる令嬢もいる。……その少年は厄介事の一端にあるんだってこと」
あとは牢の中でゆっくり考えなよ。
アレクスシスの笑みはそのまま男からレオヴィスに移り、私を視界に入れる。
にこりとあの甘い微笑みを向けられて、瞬間総毛だった。
ああ、と悟る。悟ってしまった。
その後男が何かをわめき散らすように唸りながら連れ去られても、彼はその視線すら戻すことはなかった。
これが……大国ユーリトリアの王子の権力。
第三位王位継承権の彼がこれだけ振舞えるのだ、王妃陛下を母に持つ第二位のレオヴィスなど考えるべくもない。
「さて、場所を変えよう?僕はこんな悪臭の中で話なんかしたくないよ」
「……アレク兄上、あの男はそれなりの家です。取り潰すと面倒なことになりますよ」
「ええ?困ったなー、まあでも、どうせあの程度の頭しかないならその内消えてたよ。いいんじゃない、余計なしがらみが増える前に潰せて」
にこにこと、天気の話でもするかのようなアレクスシスに嫌悪の混ざる恐怖を感じた。
家を一つ潰す意味を理解していない。理解などしなくてもいいのかもしれないけど、その浅慮さは子供の無邪気さに似ている。
……残酷だ。
どこか面白がる風な口調と笑みが、その思いを深くする。
そして恐ろしい。
私はもう彼のことをちゃらんぽらん王子などと呼べない。
女好きのどうしようもない王子?
とんでもない。
彼は、理解していないフリをしているのに。
「お姫様?」
くすくすと笑い出しそうな甘い顔。
深紅の瞳に、残酷な子供の輝きとどこまでも冷静な大人の濁りを覗かせる。
このひとは、こわい。
動揺を最小限に留めようと顔を引き締めて、階上へと促すアレクスシスの後を追う。
先ほどとは違う震えを抑えるために、ランスのマントを握りしめた。
「それで、どうしてアレク兄上がこの件に?」
ソファーに腰を下ろすと、早々に話を切り出す。
簡潔でストレートな問いにアレクスシスがにこりと微笑む。
「好奇心は猫をも殺すって、どこかのことわざの通りだよ。あの件に関わった僕を使い倒すおつもりなのさ、我が国王陛下は」
「なるほど……飛んで火にいる、とやらですか」
「ああ、そんな言葉もあったっけ……相変わらず、頭が良すぎて可愛くない子供だね」
「兄上に可愛いと思ってもらえると何かいいことでも?」
「それはないかなぁ。何せ我が母上は蛇蝎のごとくレオヴィスが嫌いだ」
くすくすと笑い、肩をすくめてみせた。
芝居がかった仕草がとことん似合う容姿は素晴らしいけど、話は進みにくい。うんざりしたようなレオヴィスの顔がそれを如実に語っていた。
「まあ、そうカリカリしないで。僕が関わった方がお得かもよ?ねぇ、お姫様?」
突然話が振られ、先ほどの動揺をまだうまくさばけていなかった私は、びくりと背筋を伸ばしてしまった。
不自然に見える動揺は余計な勘ぐりを生んでしまう。
わかっていてもアレクスシスへの恐怖に近い不審は、すぐにはぬぐい去れなかった。
「……ユリフィナ?」
レオヴィスが一瞬目を細めてこちらを見る。それに笑って何でもないと応えなければ。
ぎこちない笑みが、こちらをにこにこと底知れない深紅の瞳で見るアレクスシスの視線によって固まってしまった。
「……お姫様はレオヴィスと喧嘩したことを引きずってるのかな?」
「そうなのか?……だが、私は争うつもりなどなかったんだが……」
「争うつもりがないならあんなに怖い顔しちゃダメだよ、女の子に対してあの顔はない」
首を振るアレクスシスにレオヴィスは不服そうに眉根を寄せて、まっすぐに私を見つめる。
「怒ったわけじゃない。ただ……どうしてあんなことを?お前はあの少年の無罪を訴えていたじゃないか」
その視線が私から、アーサーの横に立たされているシグマへ移った。
ふ、と詰まった息をこぼす。どうにか動揺を抑え込むと、私もそちらへ視線を向けた。
ノエルが先ほどから力なく泣いているのが気になる。もしかしたらまともに飲食していないのかもしれない。あの牢の囚人に、まともな飲み物や食べ物が配られるとは思えなかった。
「その前にノエルに……その赤ちゃんに、何か食べる物を。シグマは?何か食べた?お腹、空いてない?」
そっと近づくと、シグマは酷く苦しそうな顔で体を強張らせた。
黒にも近い濃い茶色の目には、……不信があった。
当然だ。
私は……彼に国外追放を願ったのだと、先ほど言ったのだから。
慕うような色さえ見せた目が、今は不信を露わにしている。それが辛くないわけがない。
苦しい。
人から嫌われること、疑われること、それがこんなにも苦しいなんて。
自然と止まってしまった足は、もうこれ以上前に動かない。拒絶されている。まるでシグマの心のバリアが具現化したようだ。
それ以上は口も閉じてしまい、俯いた。
「……その子供に何かを施すのは、まずは罪と罰を確定させてからにしようか。レオヴィス、お姫様はその子供を国外追放処分にしたいそうだけど、異論は?」
「―――特には」
「そう、じゃあ本当の罪状は付けられないから、拾得物の隠匿及び転売未遂の罪で国外追放とする。期限は十年とし、行き先は属国領ハンデラ国イーヒンデリ強制労働地区。なお、罪人が未成年であることを踏まえ、労働内容に温情をかけることを許諾する」
ついに、シグマに罪人の烙印が押されてしまった。
私の願った通りの罰を負わされて……
不信の目が、憎しみに染まった。




