第五十五話
これ以上余計な噂を立てられないために、私はローブを羽織ったランスの腕に抱えられていた。
やはり淑女が、それも五歳の他国の王女が牢に向かうのを見られるのはまずいと、私の姿を隠すことになったんだけどね……
何でそこでランス?とお思いのみなさん、私は声を大にして言おう。
常識なんて欲望の前では塵に等しいのだと!
そんなことない?
ふふ……と先程果てしない諦観に身を任せた自分を思い出す。果てのない諦めなんてものがこの世にあることを思い知ってしまった、数十分前の自分を。
もうこれで察してほしいと思う。
ランスは大人げなく分別というものを放り投げたのだ。星の彼方まで届くほどの豪速球で。
…………元々あったかどうかは不明だけど。
ローブの隙間から見えるランスの顔は満足げだ。
満足してもらえて何よりだよ、ランス……
そして五歳にして達観の境地に至った私は、その原因であるランスの腕の中で少し困っていた。
いや違う、かなり困っていた。
完成されたとは言いがたいながらも、引き締まった胸の筋肉が顔の横にある。
そう、私の顔の横に、胸がある。
お と こ の む ね が !
これに困らない女はそうはいない。
これにときめかない乙女は、そうはいないよ!と誰にともなく自己弁護しながら、密着せざるをえないこの状況を呪う。
呪い先は私の運命とシーナ、そして自分だ。ときめく自分が一番呪わしい。ああ呪わしい!
私はまだ五歳まだ五歳五歳五歳五歳……
男の胸にときめいたら何か間違ってる気がする。いや、恋に歳は関係ないとは言うけどね?言うけど、五歳で男の胸にときめくのはなんか違うと思うんだ!
怨念すら込めて自己暗示を施し、それが功を奏し始めた頃、小さくため息を吐いてからローブの合わせ目から顔をのぞかせると、それに気づいたレオヴィスが傍に寄ってくる。
何かと思い目を瞬かせると、手短に昨日のことを話してくれと言われ、否応なく意識しそうになるランスの魔の手(胸)から逃れるべく脳裏に昨日の朝を思い出していった。
朝から贈り物が届いて辟易していたことからシグマやノエルのこと、ランスが助けに来てくれたまでを短い間で話せるだけ話すと、レオヴィスは納得したように一つ頷いた。
「……そうか、それならもっと簡単かもしれないな」
何が?
法務官に話をするのが?それとも減刑か、もしかして牢から出すこと?
後者ならどれだけ嬉しいだろう、と薄い期待と重すぎる不安で心を満たす。
シグマは、恨むかな……恨むよね。
濃いブラウンの目が強い非難を込めて私を射抜く。そんな想像をして、こめかみと胸の奥がツキツキと痛んだ。
小さなため息をこぼし、牢へと続く階段を下りていった。
王城の牢は地下五階まであり、罪状の重い者ほど下の階に入れられ、三階と四階で明確に待遇に区別がつくのだと言う。―――いずれ処刑を待つ身か、そうでないか。恐ろしいほどはっきりとしたライン引きは、いっそ清々しいほどに徹底していた。三階まではそれなりに清潔にされてあった牢も、四階へと続く階段の途中から刺激臭が鼻につくようになったのだ。見れば牢の中は汚物がそのままに放置されていたり、明らかに息をしていなそうな…いや、腐敗し始めているだろう死体が転がっていたりした。
その牢にレインとシグマがいる。とは言え、レインは貴族なので特権で五階に入らなければならないところを三階になり、そして身元不明のシグマは五階だという。
なんで身元不明の孤児であるだけで、そうも冷遇されなければならないの……
衛生環境は最悪と言うに相応しい地下牢五階で、ノエルを抱き締めたまま力ない視線をこちらに向けるシグマに胸が締め付けられた。
「牢番、鍵を」
「殿下!?」
言外に開けろと命令するレオヴィスに、牢番と呼ばれた壮年の男性が青い顔で狼狽の声をあげた。
シグマは子供だけど、地下五階に入れられるような罪状をかけられているのだ。どう考えたところでここで牢を開ける選択はない。
ないけど、悲しいかな、この世界の身分制度は絶対だ。
牢番には、権力者に逆らうだけの気概も頑固な使命感もないようだった。
恐る恐るこちらを窺いながら牢の鍵束を手繰り、牢の鍵を開ける。戸惑うシグマを今すぐに抱きしめて、大丈夫だ、と安心させてあげたかった。
カチャン
「シ……」
開け放たれた牢の扉に駆け寄ろうとするのを、私を抱えたランスの腕が、そしてその前にさりげなく出されたレオヴィスの制止の手が止めた。
意味がわからずに戸惑う私を、ランスは牢番に気づかれないように再びしっかりと抱え直す。
「出ろ」
レオヴィスの命令に恐怖さえ浮かべながら、それでも権力者には逆らわない弱者の本能で、震える足を牢の扉へと向けた。
心底怯えきった目は卑屈だ。だけどそれが力ある存在に対する普通の反応なのだろう。貧困層で育った彼には、例え自分と同年代に見えても牢番をも従えるような圧倒的な権力者であるレオヴィスに、それ以外の視線を向けられない。
「お前の担当法務官は誰だと言われた?」
「たんとう…ほう、む…かん?」
「言われていないのか?牢番、どうなっている」
無表情に淡々と聞かれ、牢番は恐怖に慄いた。
燃えるように赤い瞳は、しかしその色とは真逆に凍えそうに冷たい。
―――下手なことを言えば首が……本物の首が飛ぶかもしれない。
そう本気で思えるほどには、権力者というものは理不尽だと牢番は知っていた。それも、この王子に至っては……
頭の中に漏れ聞いた様々な逸話を思い出す。
ごくり、と生唾を飲み込み、しきりに唇を舌で潤しながら牢番は言葉を探すように口を開いた。
「は、はい、いえ、あの……」
「言っておくが、聞いてもいない言い訳ほど私の機嫌を損ねるものはないぞ」
「っ!」
途端に固まる牢番の顔は青白かった。もう少しレオヴィスが追い詰めたら土気色になるんじゃないかと思うほどに。
これはまさしく弱い者いじめ……
ローブの隙間から彼らを見ていて、そう思ってしまった。
と、そこへ、
「おや?これはこれは……。レオヴィス殿下、なぜこのような場所へ?それも私の担当する捕囚を牢の外へ出して。私はまだ聴取もしないまま、このコートを脱がなくてはいけませんかな?」
大袈裟なくらい驚いているような声音で、ゆったりとした紺のコートの男がこちらへ向かって来た。
どこかお堅い紺のコートは、男のセリフから察するに法務官の制服なのだろう。胸に三つの星と杖の形をしたバッジが嵌められている。
「お前が担当か……」
面倒な。レオヴィスの顔を垣間見て、そんな言葉を飲み込んだのだなと思う。
……簡単に言えば、かなりのしかめっ面だったのだ。
これは私にとっても面倒な事態になったのかも、とランスのローブの隙間から様子を見守る。
「この者の罪状に疑問があってな」
「罪状と言うと……王族への不敬罪及び売買禁止物の売却未遂罪、窃盗罪もしくは強盗罪と言ったところでしょうか?」
あれ、と首を傾げた。
一番の罪状がない。指輪の売却とか、そういうのはこの際どうでもいいことではないだろうか。だって彼は私の誘拐に関わっているのに。
眉を寄せて男の言葉を吟味する。
王族への不敬、売買禁止物の売却未遂、窃盗もしくは強盗……
……窃盗!?
またもや叫び出しそうになった私の口をランスの手が抑える。……五歳児とはいえ、左腕一本で簡単に抱えられてしまうことに胸がもやもやした。忘れたはずの魔の感触まで思い出しそうになり、激しく頭をどこかに叩きつけたい気分になる。
そんな場合じゃない、と頭の中身を入れ替える勢いで首を振り、またローブの隙間から周りの様子を見た。
なぜそんな罪状が?あれは私があげたものだ。盗まれたなんて、そんな事実は全くない。強盗も論外だ。
やはり言わねば、とランスの腕をどかそうとする…が、私が非力なのかランスの筋力がどうかしてるのか、微動だにしなかった。
「窃盗もしくは強盗というのは?」
「畏れ多くも王族の持ち物を持っていたのです。それも貧困層の子供が。それ以外に考えられますまい?」
「……単純に拾ったのではないか?売ろうとしていた指輪はスリファイナのユリフィナ王女の物だ。彼女は付けていたはずの指輪がいつの間にかなくなってしまった、と言っていたぞ?」
「ですから、盗まれたのでしょう。スリをする子供の中には何の感触もなく盗めるのだと言います」
「ではそれはいつだ?彼女がいつ平民とすれ違うような機会があった?それも貧困層の子供がどうやって彼女に近づける?彼女が護衛も付けずに町へ行って掏られてきたと言うのか?王宮の警備が甘いといいたいのか。その警備に私も携わっているのだがな」
「それは……」
「彼女は指輪を落としたのだ。首都に入った際街並みを馬車の窓から眺めていたのだろう。おそらく、その時窓に手をかけていて、その手から指輪が外れて落ちたのに気付かなかった。それほどにこの首都の街並みに見惚れていたのだろう。結構なことではないか」
男に反論させずに淡々と推測を(推測というには力のある断言口調だったけど)言って、真実がそうであったように思わせる。
牢番はもはやレオヴィスの言葉を信じ始めた目をして、男もうまい切り返しが出来ないのか、渋い顔で口許をモゴモゴさせていた。
見事な方便……もとい、見事な弁舌だ。絶対レオヴィスとは口喧嘩しないと心に決める。
私が首都に入った時に落とした。確かに私が浚われなければそれで通じたかもしれない。だけど私は浚われたのだ。レインもそれを認めるだろう。
そしてあの屋敷にはシグマがいた……
レインに面通しをさせれば簡単につながってしまう、私とシグマの関係。
それをごり押しするのは無茶だ。レオヴィスにしては話が拙すぎる。
綱渡りをしている気分で体を強張らせた。どこでバレるか、指先がしびれるように冷たくなっていく。
「……なるほど、殿下はよほどこれに何かあるご様子。窃盗でも強盗でもない、いいでしょう。それで納得しようではありませんか」
が、そんな心配をよそに男はどこか忌々しげに、そして何かを確かめるようにレオヴィスを見下ろしながら話に乗ってきた。
そんな男にレオヴィスは無表情のまま一つ二つと瞬きする。
「ですが、お忘れではありませんかな?王家の紋章の入ったものを売買することは、どこの国であれ厳罰に処する。例え拾った指輪に紋章が入っていることを知らなくとも、むしろ拾ったものであれば自警団へ持っていけばよかっただけのこと。それをせず、自分の懐にしまおうとしたならば、これは罪深き事ではございませんかな?」
歌うように、何かを噛んで含めるような男の物言いに眉根を寄せた。
レオヴィスも微かに片眉を動かしたように見える。
「……遠回しな物言いはよせ。それでお前はこの子供にどんな刑罰を下すつもりだ?」
「さすがそのお歳で我が国きっての比類なき賢者と誉れ高い、レオヴィス殿下。私は慣例に従って裁くことを誓いましょう」
「誓う誓わないはどうでもいい、それがお前の職務だろう。禁止物の売買はその状況によって刑罰に大きく開きがあったと思うが、慣例に従うと言うのはどういう意味だ」
「ええ、それぞれの状況により判例は大きく変わります。二、三カ月の奉仕作業で終わることもあれば、十年以上の永久追放、…極刑もありますな」
いかにも神妙な顔で重々しく告げられた言葉にひゅっと喉が鳴った。
極刑。……死刑。それを子供の目の前で告げるのは、惨いと思わないのだろうか。
シグマは話している内容を子供ながらに理解したのか、顔色は酷く悪い。
「……私は遠回しな物言いはよせ、と言わなかったか?何が望みだ」
淡々としたレオヴィスに男は一転しておもねるような顔つきになった。
「いえいえそのような畏れ多いことは……」
「ないのだな?では順当な刑罰を下せ」
「お、お待ちください!……いやはや殿下は実直なお方だ」
苦笑いを浮かべながら肩をすくめる仕草がうっとうしい。なんて白々しいんだ、と眉間のしわが深くなっていく。
「そうですね、殿下のご気性に沿うことに致しましょう。私の姪を殿下の側室候補に入れて頂けませんか?王太子殿下は側室を娶らないと公言しておいでで、正直困っていたのですよ」
側室!?
レオヴィスの、側室……
また胸がもやもやしそうになり、首をふってそれを頭から追い出す。
「側室候補は私の一存で決めることではない。私の言葉があったとしても、王家議会が否認すればそれまでだ」
「否認されるような状況下ではありませんから、大丈夫ですよ」
「……私がお前の姪を側室候補にと言えばそれでいいのか?」
「ええ。実際に否認されても結構ですよ。殿下が私の姪を側室候補に、と推して頂いたことで既に箔が付きますから。年頃も姪は今年六歳、殿下に似合です。何と言っても必要なのは、殿下に相応しい知識と采配を振るえる器量。美貌などそこそこあればよろしいでしょう?」
……なんでだろう。馬鹿にされた気分になるのは。
先ほどとは別の意味でもやもやする。
『美貌などそこそこあればよろしい』?
なるほど、レオヴィスの婚約者として噂される私はこの美貌ばかりが先行している。いや、それ以上の噂など出るわけもないけど。だって私は今現在何もしてない。
私の魔力が暴走したことを知っていれば知能が高いことはわかるかもしれないが、知能は鍛えなければ使い物になることはない。
知能は鍛えてこそ、深遠な知識となって身につくのだから。
私の今の状況は、知能が高いかもしれない他国の王女で、美貌ばかりがもてはやされる五歳の少女。
それだけだ。だからこんなことを言われるのは確かに仕方ない。仕方ないし、美貌だけでももてはやされているのは贅沢なことだ。
被害妄想かもしれない。自意識過剰なのかもしれない。
だけど、遠回しに馬鹿にされたのだと直感した男の言葉を、私は冷静に納得できるほど人間はできていないのだ。
―――この野郎。
男が現れてから少しずつ積み重なった苛立ちが、ここにきてふつふつとした怒りに変えられていく。
「……そこそこの美貌、か。だが私はもう多少の美貌では心は動きそうにないな。彼女は類稀な才覚を持つ女性を逃してでも、と乞うほどの美しさだ。だが、彼女の魅力はそれではない。お前が知る由もないだろうがな」
そこへレオヴィスがうっすらと微笑んで言った。
「っ」
ローブの中で小さく息をのむ。
言われなくてもわかる。『彼女』が誰かなんて。
レオヴィスが私を庇おうとしている。それも、私の容姿に最大の賛辞を、そしてそれだけが私の魅力なのではないと。
正直私の顔なんてあのド鬼畜野郎の死神が作った、言ってしまえばヤツのナルちゃん精神を発揮したヤツのための顔だ。
自分の姿を鏡で見て殺人的に可愛いな、とどこか突き放すように他人事として思っていた。
だけど、生まれながらに美しいものを見慣れていて、あまり美醜にこだわらなそうなレオヴィスがここまで褒めてくれるのなら……
嬉しい、と小さく笑んだ。
―――すぐに思いなおすことになってしまったけれど。
『彼女の魅力はそれではない』
……なら、私の魅力はなんだろう?
傾国の運命を持っているところ、だろうか。
やっぱりレオヴィスにとって私は、その運命を持っていることだけが重要なのかな……
この運命がなければ乞われもしなかった、ただ顔だけが秀でた女。顔だけなんて贅沢な話かもしれないが、それが妙に悲しかった。




