第三十一話
「もうすぐキールに着きます。入る前に検査がありますが、先触れをしてあるので簡単なものになるはずです。少々お待たせいたしますが、ご容赦ください」
「うん。大丈夫よ」
馬車の外にいるアーサーにそう答えながら、とうとう着くのか、と少し…いや、かなりわくわくしながら紗のかかった窓から外を見る。
大して代わり映えのない街道の景色だが、人の手が加わって整然と並ぶ街路樹に大きな町が近いのだと実感した。
スリファイナ唯一の港町から王都までを結ぶ、広く整った道。何台もの大きな荷馬車が、隊列を組んで行きかっていた。
王家の紋章が入ったこの馬車が通る時は、その荷馬車たちも止まり御者や護衛の剣士までもが深く頭を下げている。それに義務感などはあまり感じられなかった。全員が、通り過ぎた後どこか恍惚とした表情でこちらを見送る姿があったからだ。
スリファイナの民は王族を信頼し、崇拝している。
レオヴィスが言っていたことは、本当だったのだ。信じていなかったわけではないが、実際に自分でそれを見るのとではやはり違う。
だけど……ここまで慕われているなんて。
元々土地は肥沃なのだ。代々の王族にここを統治する賢さがあったのは、確かに喜ばしいことかもしれない。でも、この豊かな恵みを持つ土地を耕作していったのは民自身。
王はそれを導いただけにすぎない。
なのに民は王族を敬う。……理想と言えば素晴らしいけど、人はここまで理性を保てるものでもない。ささやかな不満が大きくなって、やがて国全体を覆うことなど数多くある。
人は不公平を嫌う。王族など、不公平の極みのようなものだ。
それなのにどうして、と不気味さえ感じてしまう。
……そんなことを思うのは、あまり宗教に触れる機会の少ない日本で生まれ育ち、その記憶を持ったままだから、なのかもしれないけれど。
なんにせよ、ここまで慕われているのだ。
ここで王妃様に反乱など起こされて、この信頼を失墜させるのは馬鹿らしい。もったいないでしょ。こんなに信頼してくれてるなら、統治者が多少馬鹿でも許してくれるかもしれないのに。
シーナは民のことなど気にするな、と言っていたけど、私はそこまで非情にはなれない。前世で普通の一般人だった記憶が、踏みつけられる弱者の気持ちを捨てさせない。
でも……私に救える命が少ないことはわかる。混乱するだけだ、という言葉は、たぶんその通りなのだとも思えるから。
差し支えのない程度に救っていく。王妃様の謀略もそれとなく崩せるなら崩してしまおう。
あくまで、それとなく、だけど。……真っ向からいったら、それこそ国が荒れるだろうし。
さすが小心者、とシーナにでも知られたら馬鹿にされそうな考えだ。それでも、私にはこれが精一杯。もっといい方法を一緒に考えてくれる人がいたらな、と小さくため息を吐いた。
どうするにしても、私に迷っている暇なんかない。シーナが言った言葉が頭の中に蘇る。
数年後、私が戻った時に戦えるための知識と力を付ける。そのための、ユーリトリア行き。
やるしかない。
ぐだぐだと考えて、眠って起きた時には、そう決意できた。
膝の上で寝ている黒猫を撫でつつ、外の景色から視線を戻す。
「……」
目の前には金髪、ヘーゼルの瞳の優しげな風貌でにこにこと微笑む男が一人。
「…………ランス、そろそろ満足した?」
「いや、まだです」
「……」
まだなんだ……どうしよう、もうキールに着いちゃうんだけど……
さすがに王女の馬車から、従者とはいえ男が出てきたらまずいだろう。ちらりと窓の外のアーサーを見る。……うん。かなりイライラしてる。
シーはランスに絡まれるのが心底イヤなのか、起きようともしない。
しかし私だってランスに下手に絡まれるのは嫌だ。だからこうなった、ともいえるけど……
遠い目をしながら思い出す。事の発端は朝だった。
ガタン、という派手な音が聞こえ、目を覚ますと、そこにはわなわなと肩を震わすランスの姿があったのだ。
起きぬけの頭でも、あー……面倒なことが起こったな、と思える光景。
そしてそれは間違いなかった。
「どうして……どうしてその猫が姫様の腕の中で心地よさそうに眠っているのですか!?そんな特権をその猫が独り占めできるなんて、あんまりです!俺にも分けてがふっ」
「俺はお前がなぜここにいるのかぜひとも聞きたいなぁ、ランス!?躾・説教・拷問コースどれがいい!?それともフルコースでやってやろうか!!」
……拷問コースはちょっと見たくないな……
ランスは後頭部を銀製のトレーで思い切り殴られたにも関わらず、すぐに立ち直ってアーサーに振り返った。
あのトレー、結構重いはずなのに。その回復力、ホントに人間なの?
「アーサー!お前だって思うだろう、その猫は男なんだぞ!なんで当然のように姫様の部屋で、しかも腕の中で眠るんだ!」
む。それは確かに……
あまりにも異性として気にしたことがなかったけど、シーナは男だ。
でもねぇ……
こんなド鬼畜野郎と、どう考えたところで恋愛感情が生まれるとは思えない。生まれた瞬間、私は人として終わる気がする。マゾにもほどがあるってものだ。
シーナは散々俺は男だ!と主張するが、私は人生を地獄に突き落とすヤツを好きになるほど終わってはいない。猫の姿になればますます男などという枠から外れる。
だからこれは、猫だ。抱き心地のいい美猫。それ以外の感情など、まったく、欠片も持ち合わせていない。
気にしてほしいならねじ曲がった性格を矯正して、形状記憶合金にしてから主張しろ。
そう言いたい。……言っても無駄だから言わないけど。
「お前がどう言おうと、王女殿下がお許しになっているのならその猫は猫として扱う。オスだろうが男だろうがどうでもいい、王女殿下に何もしないのならば」
何かするなら、どうなるのかな?
……あんまり考えちゃいけなかったかもしれない。
「油断を誘ってるだけなのかもしれないぞ!もしかしたら姫様が眠っている間にあんなことやこんなこと……」
「定期的に侍女に様子を見に行かせたが、そんなことはなかった。……もしそんなことがあれば、俺がそのまま寝かせていると思うか?」
定期的に身に行かせたってどういうこと?
アーサー……まさか、貴方まで暴走気味なの?
「……お前ら、人が大人しく聞いてれば好き勝手に……。誰がこんな色気もないガキ襲うか」
唖然としていると、丸まって寝ていたシーがだるそうに起きて呆れた視線を二人にやった。
色気もないガキ……確かにその通りだけど、なんか悔しい!中身は二十歳なのに!
「王女殿下を侮辱するのはやめてもらおうか!丸刈りにするぞ!」
「姫様のどこが色気がないって言うんだ!こんなに抱きしめて頬ずりして余すところなく撫でくり回したい魅力に満ち溢れてるのに!」
……うん。二人とも落ち着こう。
毛並みが気に入っているのに丸刈りにされるのは嫌だし、ランスは……
もう突っ込む気にもなれない。
「あーわかったわかった、こいつは俺の次に美しいよ。もうどうでもいいから、俺をそのバカバカしい論争に巻き込むのはやめろ。その気もないのに不審者扱いされるのはご免だし、話を聞いてるのも疲れる」
ついでに私も巻き込まないでほしいんだけど……
無理か……。
私の限りなく冷めた目に気づいたのは、やはりアーサーだった。
「も、申し訳ございません!今すぐこの馬鹿…愚弟の粛清をしてまいります」
「あー、いいのよ。慣れてきたから。それよりご飯が食べたいわ」
「王女殿下……当事者が言うのもなんですが、慣れてしまうのは避けたほうがよろしいかと……」
うんそうだね、ホントに当事者が何言ってんだって話だけど、その気持ちは受け取っておくよ。
乾いた笑みを浮かべ、ランスに視線を向けた。
「……ランス。昨日の夜も言ったけど、ホントに、まったく、欠片も、明日世界が終わるとしても、世界でこいつと二人きりになったとしても、このド鬼畜野郎とどうにかなる気はさらさらないの。どうにかなった時は、私の頭がおかしくなった時だから。その時は思う存分こいつを切り刻んで」
「俺の美貌を理解しないなんて、可哀想な女だ」
「顔だけの男を好きになるほど愚かじゃないだけよ」
「恋愛なんぞ、所詮人を愚かにする感情なのに、か?」
「ふふふ、だとしてもあんたを相手に愚かにならないだけね」
つまらん女だ、とシーナが猫の姿であくびをしながら言う。……ただの言葉遊びに付き合わされてたまるか。
しかしこの会話を聞いても、ランスの脳内では別の理解が進んでいたようだ。
「……それほどに姫様のお心を占めるその男……切り刻むだけでは足りない!」
……いったいどこをどう聞いたら、シーナが私の心を占めてるって言うんだろうか。
憎しみと愛は紙一重って?いやいやいやいや、それはない。他の人とそれはあっても、シーナとだけはない。
どうしよう。でももう訂正するのもめんどくさい。
「……ランス。それなら貴方が見張っていて。これがどれだけ私に対してそういう意味で無害か、キールに着くまでにはわかると思うわ」
にっこりとほほ笑む。
もう面倒だ。こんなに怪しむなら、いっそ見せてやれば済む。この男がどれだけド鬼畜野郎で、私に対して色気のいの字もないことを。
「王女殿下!無謀です!」
「いいんですか!余すところなくずっと見つめていられる距離に、いさせてもらえるのですか!」
……アーサー、貴方の言う事に間違いはなさそうよ。
早まった、と後悔するが、今更やっぱりダメだと言っても無駄な気がする。
「羨ましいか、アーサー!俺の姫様は天使だからな!」
天使ときたか!すごいな、さすがこのシーナが作って認めた美貌だ。どこまでも人の脳内をおかしくするらしい。
「ランス……貴様が妙な真似を一瞬でもしたら、命はないと思えよ。身体能力で勝てなくとも、お前の命一つくらい、どうとでもなるんだからな」
……アーサー。落ち着いて。血を分けた兄弟だよ?
「ふふん。なんとでも言え。俺は姫様と夢の時間を過ごす!邪魔するなよ!」
「邪魔するに決まってるだろう!」
うん。邪魔してくれないと困る。身の危険を感じるよ……
その後アーサーは酷く不機嫌な様子でランスを一発殴りつけ、それでも職務を忘れず侍女を呼び私の着替えを指示する。
騒動を聞いていたであろう侍女が恐々と寝室に入ってくると、アーサーはランスを引きずって出ていった。……半分首を絞めていた気がするけど、気のせいだと思おう。
それから朝食中、馬車の中、昼食休憩をとるために寄った町でも、ランスはずっと私の傍にいた。
朝の騒動を聞いたレオヴィスとリィヤは私に同情の眼差しをくれたが、関わるまいとそっと離れていく。酷い。助けてくれたっていいのに。
そしてキールに着く前には馬車から降りろ、と鬼のような顔をしたアーサーから言われていたにも拘らず、ランスはまだ足りないと言う。
……そのうちに落ちるだろう雷が、どれだけ激しいか。想像するだけでぞっとした。
窓の外は夕方と言うにはまだ早い。せっかくキールの街を楽しむ予定なのだ、これ以上の面倒は起こりませんように。
現実逃避に再び窓の外を眺めながら、心の底から願っていた。
……私に取り憑いた神様が、死神であることに目を背けて。




