第二十話
ユーリトリアへは、当然ながら大河を渡るルートだ。
山脈のルートは命知らずか頭足らずか自殺志願者、ごくごくまともな人間が通るとすれば一人か二人の少人数のルートになる。
前者は登山で、後者は飛行魔法だ。
登山での山越えはほぼ不可能だと言われている。昔、ユーリトリアが五百人の兵を向かわせ、戻ってきたのが数名、無事ファスカに辿り着いた者はたった一人だと言う。だがこの兵が二度と故郷の地を踏むことはなかった。故郷へ戻るルートがなく、また山越えによる著しい体力の消耗と死を目前にした極限の恐怖で精神を壊し、治療の甲斐もなく数日後に亡くなったと記録されていた。
現在はもう少し生存率は上がるだろうとされているが、やはりそれを試す勇気のある者は少なく、いまだに登山でのルートが全くの未知の秘境だと言われている。
飛行魔法での山越えが少人数なのは、飛行魔法がそもそも高難度のものであるのと同時に、天候に左右されないためにかなり高度を上げねばならないこと、そのために他に複数の魔法が必要になってくるため、飛行魔法が使える魔法使いの中でもさらに限定された者でなければならず、それでも別に連れていけるとすれば一人か二人が限度なのだそうだ。
レオヴィスはそんな希少な魔法使いの一人だが、彼は一人でもなければリィヤと二人でスリファイナに来たわけでもない。魔道の普及のために使節団として訪れているので、二人の他に多くはないものの、十人前後のお供がいる。そのうちの数人は普及と視察のためスリファイナに残ることになっているが、それでもレオヴィス側だけで十人足らず。
今回は私が道中を一緒にすることになったので、私の従者としてアーサーとランス、ユーリトリアの船までだが侍女が二名と女騎士が五名。計十名がそれに加わる。
もはやこうなれば山越えのルートなど考える余地もないほど馬鹿らしい。
そんなわけで、急遽私のユーリトリアへの留学…ということになっている…が決まり、嵐のような忙しさで支度が整えられ、今朝王都を出立した私たち一行は、スリファイナとユーリトリアを隔てる大河へ向かっていた。
「……飽きた」
予想してましたよ、シーナ様。あんたが一番初めにそれを言うってことは。
しかしね。しかしだよ、シーナ様。
まだ王都から出て半日もたってないと思うんですけど。
あんた一番緊張感もなく気ままに寝てただけなんですけど。
猫が喋るなんて現象を説明するのに四苦八苦してる私を、ニヤニヤ笑いながら楽しむだけ楽しんで、最後に爆弾投下して「起こしたら殺す」と告げるなり寝に入った、あんただけは言っちゃいけなかったセリフだと思うんだ!!
何で言っちゃいけないのかって?
ふ、ふふふふふ……なんで?何でですって?何でもへちまもへったくれもないのよ、あんただけはダメなのよ、決まってるのよ!あえて言うなら道徳的に言ったらダメだ、常識だ!
人として踏み込んじゃいけない良識…いや、悪識だろ!!
たとえあんたが三大ドのつく鬼畜S悪魔の死神様だったとしてもね!!
「……まだ着かないのか?ああ面倒だな、俺が飛ばしてやろうか?面白くもないし気が進まないから、五体満足のままかどうかも、どこに着くかも保証できないが」
五体揃って着けないかもしれないこと、言うんじゃないわよ!!
ギロリと睨むが、膝の上の黒猫様はしれっとしたお顔でどこ吹く風だ。
くっ、中身がアレだと知ってても可愛いと思ってしまう自分が悲しい!!
そしてそんな私と黒猫のシーを、やや引きつりながらも興味深そうに見ている二人がいた。
レオヴィスとリィヤだ。
ちなみに私の身代わりで死んだはずの黒猫そっくりのシーのことは、気が付いたらベッドで寝ていたの、と侍女たちに説明した。説明が面倒だったのか、なんて聞かないでほしい。その通りなんだから。
私がもう少し成長していればそれでは苦しかったかもしれないが、所詮五歳児なので驚かれただけで済んだ。女子供って便利だなぁ…としみじみ思った瞬間だ。
そのシーは、今朝まで確かに猫だった。そりゃそうだろ、なんて突っ込まないで。私しかいない状況以外では、それはもう、気持ち悪いくらい猫らしく振舞っていたのよ。
鳴き声こそ出さなかったが、ゴロゴロとのどを鳴らしさえしていたのだ。
それが突然、レオヴィスとリィヤが話がしたいから、と私の乗っていた馬車に相席した途端、喋りだした。
何でこのタイミング?え、正体バラしていいの、なんて説明するの、どうするの!と私の頭がパニックを起こす中、ヤツが言った第一声は「玩具の手駒らしく、しっかりこいつを巻き込めよ」だ!
……まあね、「手駒って何よ!しっかり巻き込ませるな!!」と私が即座に突っ込んだのも悪かったのかもしれない。私が素知らぬフリをすれば、猫が喋ったなどと思わなかったかもしれないのに。
レオヴィスとリィヤは一瞬呆けた顔をした。
うんうん、猫が喋ればそんな顔するよね、しかも私がそれに突っ込むなんてね!
私が慌てて何か言い訳しようと意味不明なことを言ったりするのを、ひとしきり笑いながら楽しんで中身がド鬼畜様のシーはこう止めを刺してくれた。
「言っとくが俺は猫じゃない。人間の姿にもなれるが、人間でもない。こいつの人生を面白くしてくれるなら歓迎するが、そうじゃない場合、そのちんけな命刈り取ってやるからな」
その時の私の心境……わかってもらえるでしょうか?
灰になって消えてしまいたい気分でした。
しかも言うだけ言って「俺は寝る。起こしたら殺すぞ」と美猫の姿で脅迫し、気まずい車内の空気にさせてくれたのです。
レオヴィスとリィヤがまじまじと私の膝の上で眠る黒猫をしばらく見つめ、説明を求めるかのように私に視線を向けた時にはもう……
いっそ殺してくれと思えました。
大国ユーリトリア。スリファイナの主国。その第三王子にして王位継承権第二位の、正真正銘この大陸で逆らう人間が馬鹿だと言われる王子様ですよ、レオヴィスは!
なのに、それなのに!あの暴言!
私関係ない、この猫が全部悪いの、無関係です、罰を与えるならどうぞこの猫に!と言いたいのに言えない私の膝の上という黒猫を、どれだけ恨んだことか!
言い訳したいのに、「起こしたら殺す」の声のトーンが案外本気だったことを思い出して言えず、手を祈りの形にして口をパクパク動かすことで、何とか私の状況をわかってもらうことに成功した。
レオヴィスはあんな暴言を吐かれたにも拘らず、不快な顔一つせず、むしろ哀れなほど青ざめた私に気にしなくていいと首を振って微笑んでさえくれる。ああ、ホントにいい人!大人だわぁ!もうキュンキュンするよ、レオヴィス!!貴方が悪魔の手から助けに来てくれた王子様に見える!!
その隣のリィヤはやや引きつった顔をしつつも、何かに思い至ったのか私に同情の視線を投げてくれた。
そうです、こいつが私の苦労の原因なんです、あなたを笑い飛ばせない大元凶なんです。
深い同情の眼差し。がしっとお互いの両手をつかんでその苦労を分かち合いたいが、またしてもここで黒猫が私の邪魔をする。そんなことしたら、間違いなく起こしてしまうだろうから。
遠い目をする私に、涙が出そうなのか目元を抑えるリィヤ、いまだに興味深そうにシーを見つめるレオヴィス。
話がしたかったはずの三人が、無言のまま馬車に揺られること数時間。
昼食を挟んだ休憩がもう少し先の町であります、と馬車の外から聞こえた。
その声で起きたシーが、大きなあくびと共に言った言葉が、
「飽きた」
の一言だった。
……ね!?私があんなに力説した理由、わかってくれるでしょ!?
この世界の誰よりも、こいつだけは言っちゃいけないセリフだと思うの!
ていうか誰が許したとしても、私は許さない!!末代先まで恨みぬいてやる!!
許したやつも同罪でね!!
「……ユリフィナ、彼をもっとよく見てもいいだろうか」
レオヴィスが手を伸ばしながらそう言うと、シーはあからさまに嫌そうな顔をした。
「断る。誰が男の手に触られて喜ぶか。……っておい!」
「大丈夫です、自分の手が汚れるの嫌がるから爪立てないと思います。盛大に威嚇はされますが……」
「……確かに、爪を立ててこようとしないな。躾がいいわけじゃなく、ただ単に爪が血で汚れるのが嫌だと言うだけか。毛並みも骨格も申し分なく美しいな、姉や母に見つかったら間違いなく狂喜乱舞して取り上げるだろう。なるべく見つからないように気をつけるといい」
何かを検分するように体中を撫でまわし、シーを私に返した。
ばったんばったんと不機嫌全開で尻尾が揺れる。
ふふふ、いい気味。……ひっ!なんか殺気が向けられた気がする!何でわかるの!?
こ、ここは話で気をそらしてみよう!
「え、えっと!」
「それはそうと」
……あら?声が被った?
一瞬の沈黙、後。悲しいかな、私は前世の日本人気質を忠実に再現するように曖昧な微笑みを浮かべた。
「……どうぞ?」
「いや、ユリフィナからでいい」
えーと、そう言われても大した話じゃなかったんです。シーナの気をそらしたかっただけなので。
考え、
「……私は後でいい話です。世間話と変わらないことですから……」
曖昧に微笑んだまま首を振った。
そんな私にレオヴィスが微かに眉をひそめる。
……なんか……気に障ったかな?やだよ、ここにきて嫌われたくないよ、もうけっこうレオヴィスのこと好きなのに!え、なになに、なんなの、どうしてそんな顔したの!
悩む私にレオヴィスは数瞬戸惑いながらも、唇を開いた。
「……ユリフィナは……本当は、さっきの口調の方が素なのか?」
…………はい?
「その猫に答えた時、今とは違う口調だっただろう?……いや、俺の方こそ別に後でもいいような話なんだ。ただ、ちょっと気になったから」
呆ける私に言い訳のようなことを言う。たぶん、レオヴィスには珍しいことなんじゃないだろうか。
見ればリィヤも驚いたような顔をしていた。
そうよね、シーナとは違う種類のマイウェイを突き進む彼が言い訳なんて、しないだろうし。しかもこの様子じゃ自分の意見を取り下げてもしまいそうだ。
そう思っていると、レオヴィスはすごく複雑な顔で黙り込み、やがて首を振った。
「……何でもない。俺はいったい何を言いたかったんだろうな……」
ほっとくと考え込んでしまいそうだったので、私はここでようやく呆けていた頭を仕切り直した。
「いえ!そんなに考え込まないでください。えーと、要は私のこの口調が素ではないのではないかと、気になさってくださったんですよね?」
「あ、……そう、だな。俺は……そんなことが気になったのか……そうか」
「えー、と?何か気にかかることが?」
「……いや。ただ、少し考えを変えなきゃいけないことに気がついただけだ。気にしないでくれ」
なんだろう?
レオヴィスは先ほどよりはすっきりした顔で私を見つめ、苦笑じみた顔で先を促す。
不思議には思いつつも、頷いて話を戻した。
「えと。私の素の口調は確かに先ほどこのシーに向けて言ったのがそうです。王女とは思えない口汚さですよね、気をつけます……」
「ああ、そうじゃない。別に不快だったとかじゃないんだ。ただ、……少し、羨ましかったんだろうと思う。その猫は猫ではないんだろう?人間でもないと言っていたが、それでも人の姿をとると言っていた。気安い口調で話しかけ、近い距離にいるその猫が少し羨ましかった。だから、俺にももう少し素で接してくれないかと思っただけなんだ」
……うん?
あれ?あら?あらあら?
これって、えーと……私、好かれている……のかな?
それも結構な感じで。
うーん……なんで?どこがよかったんだろう?
私、はっきり言ってレオヴィスからしたらただの面倒なお荷物なんだけどな。
魔法省には連れて行ってほしくないから、最終的にどうにかしてもらおうと思ってるし、属国とはいえ王位継承権第二位…実質的には第一位と言ってもおかしくない、地位だけはやたら高くて自衛力のないひ弱で魔力の制御もできない五歳の王女。
面倒でしょ、誰がどう見ても。これ、どう考えたって私の顔がどストライクに好みだったとしても、遠慮したい物件でしょ。
私がレオヴィスを好きになるのは自然でも、その逆はちょっと考えづらい。まず理由が見当たらない。
いったい何でまた私なんかを?
あからさまに不審な顔をしていたのだろう。レオヴィスは苦笑を深めた。
「……俺には素の口調で話せないからその顔なのか?それとも俺がユリフィナを気にいる理由がないと思うからなのか?前者なら引くが、後者ならいくつか理由がある、とだけ言っておく。引く気はないぞ」
おお。引く気がないって、なんかちょっと強引な感じでときめくわ。
ホント、レオヴィスを好きになる理由なら結構あるんだけど、私を好きになる理由って何だろう?
でも言う気なさそうだなー。言わせる技術も私にはないし……
うーん。浅く考えれば両想いな感じだけど、レオヴィスの真意が全く見えないので小心者の私にはこれ以上踏み込めない。
友達くらいにはなれそうだから、それでいっか。
結論して、にこっと笑う。
「ではお言葉に甘えて、できるだけ素の口調で話させて頂きます。もちろん公の場や人目がある場所では立場を弁えますね。……でも、ホントにこれでいいの?私結構口が荒いよ?」
「それでいい。まあ、王女として育てられたはずなのにどうしてその口調になったのか、疑問ではあるがな。喋る猫が近くにいるくらいだ、そんなことくらいあってもおかしくないんだろう」
いやー、どうだろう。
猫の中身が死神だってことも私が転生した元二十歳の異世界の人間だってことも、あっておかしくないことじゃない気がするんだけど。
思うが、とりあえず納得してくれたものをわざわざ掘り起こしたくないし。
うん、黙っとこう。
再度にこっと笑って、物事を曖昧にしようとする日本人気質を全開にする。
レオヴィスも釣られたように口元に小さく笑みを浮かべた。
問題が起こったら、その時解決すればいいじゃない!ね!
この考え方を早々に改めないと、問題がさらにこじれて直しようがなくなることに、私はまだ気付かない。
知能が良くなっても賢い考え方を知らない私は、しばらくこれで頭を悩ますことになったのだった。




