◆7話
「ありゃ、やっぱ戦い慣れしてないか」
喰らい付かれた大和を見て、ジークは少しばかり期待はずれの混ざった声音で言った。
しかし予想していた結果ではあった。記憶の吸収をして、大和がどんな人間で、どんな生活下で過ごしてきたのか、あらかた把握していたからだ。
「……どういたしますか」
クードが、透明な魔術壁の向こう側の光景から目を反らさずに指示を仰ぐ。
「いや、まだ助けに入るには早すぎる」
ジークも同じように向こう側の光景を見据えたまま言った。
視線の先で大和は、足に喰らい付いているワーウルフの鼻先を殴り飛ばしていた。
完全に錯乱した素人の動きだ。
しかし、どうやら筋力は相当なものらしい。偶然のカウンターの時といい、顎の力と足腰が強靭なことで知られる『古狼の眷属』の一種であるワーウルフを1.5メートルほど吹き飛ばしている。大男の鍛え抜かれた大木のような太腕ならまだしも、あの細腕からは考え難い力だ。
……これが、召喚されし異世界人の力の1つか。
「しかし、それだけだ」
運は、まあまあ味方してくれたようだけれど。
「……」
『古狼の眷属』種は本来群れを形成する。そして、余程のことがない限り1匹になることはない。数匹の群れの中にリーダーが存在し、統率の執れた行動の元に狩りをするのが特徴だ。
ワーウルフとて例外ではない。
ある一点を除いては。
ワーウルフは『古狼の眷属』種の中でも、リーダークラスは別として個々ではそれほど力はない。その代わり群れの連携は恐ろしく脅威であり、その基礎である階級意識がとても高い。
そういった生態の種であり、規律を乱す者は群れから追い出される。
問題は、その追い出されたはぐれだ。
よくある話が、別の種に食い殺されて終わりというもので、生き残る確立は低い。
しかし生き延び、極限まで腹を空かせるとどうなるのか。
考えられないほど身体能力が跳ね上がって凶暴になり、理性を失って、同族だろうがなんだろうが喰い散らかすのである。
空腹が収まっても、個体差はあるがその状態が一定の期間続き、仕舞いには新しい群れを形成しているか、適当な同族の群れのリーダーを食い殺し、新しいリーダーに居座っているかだ。
「……ふん」
その点大和は運がいいほうだといえる。
運の良さは重要だな、とジークは鼻で笑った。
後ろを向いた大和は右太腿に喰らい付かれた。初撃のカウンターの攻撃力から考えて、相手の機動力を削ぐことを優先したのだろう。
つまり、ワーウルフはまだ理性を失うまでには至っておらず、日和ったおかげで、大和が生き延びる可能性が生まれたということだ。
「どうした、チャンスじゃないか。……なんで魔力を使わない」
対ワーウルフの定石としては、開いた距離を詰めさせないために魔術で一気に仕留めてしまうものなのだが……。大和はそれを行う気配がない。
「……もしかして、まだ自身の内にある人的魔力に気づいてないのか」
その可能性に、ジークは思わず歯噛みした。
あれほど内に渦巻く大量かつ高密度の魔力なら、ただ相手にぶつけるだけでダメージは出る。しかし、アイツはその強大な力に気づいていないのかもしれない。
「あれだけの人的魔力なら気づかないほうがおかしいだろ」
こちらの世界の住人は、自身の内の魔力なんて、量はともかく存在自体とその動かし方は物心つくころに違和感として感じ、本能的に理解することができる。加えて、文献には魔術にたいして類稀なる才があるなどと書かれていたものだから、ジークはすっかり失念していた。
大和が、魔力の存在に気づかないということを。
「……ちっ」
ジークがこれから行う計画において、大和は代えの利かない大切なキーであり、重要な駒だ。
だからこそしっかりと把握しておかなければならない。
何が出来て何が出来ないのか、そして何処まで出来るのかと、どの程度の力を持っているのか。
かつて一度だけ、大国が生まれる前に召喚された異世界の人間について書かれた文献曰く。
その者、身にそぐわぬ力を宿す云々。
その者、類稀なる魔を持つ云々。
その者、傷つくことを知らず云々。
つまり、外見からは想像し難い力を持ち、魔術に関する才能も抜きんでていて、傷つくことはない。ということらしいとジークは踏んでいた。
それが真実ではない場合。
所謂、英雄の神格化というものだった場合だ。
今となっては異世界の事実は隠され、大陸統一の英雄である異世界の人間は、半ば御伽噺のように、存在を作り変えられて一般人に認知されている。英雄が異世界の人間だと知っているのは王族を含めたごく一握りの人間のみだ。
もし、異世界の人間だということを隠蔽するため、当時の誰かが神格化させるような文献を残していたとしたら。
その場合、大和を失うわけにはいかないので、命令1つでクードが助けに入れるよう準備をしてある。
大和が文献にそった力を見せたのは、いまのところ腕力のみだ。魔力なんて宝の持ち腐れ状態であり、傷だって付き放題。
俺の認識が少々甘かったのかもしれない。
「……クード」と、声をかけるとほぼ同時に、ジークは喉元まででかかった言葉を飲み込んだ。大和を観察していたクードも息を呑んだことが空気と共に伝わる。
その視線の先では――。
◆◆◆◆◆
「ぎゃぁあぁあ!!」
大和は何度目かも分からない悲鳴を上げ、前へ倒れ伏した。
右太腿に生温かさを持った激痛が存在している。その温度は熱となって首筋へと駆け上がり、脳髄に叩き込まれた。
「づ、っああ!」
振り返ると、血走った目で獣が足に喰らいつきながら見上げている。そして、今にも喰い千切らんばかりに唸り声を上げ、肉を引き剥がそうとしている。
「はなせっ、はなせよ、このっ!!」
痛みでじんわり涙が滲む。アドレナリンの過剰分泌だろうか、脳が熱を持って上手く働かず、ただ怒りにも似た感情で目の前の獣目掛けて拳を振り下ろした。
くぐもった叫びをあげ獣は、
「うぐぁぁあ゛!!」
ぶちぶちぶちっ、と大和の肉ごと吹き飛んだ。
「ぁ、ぐ、ぐふぇ、ぁあ」
涙と鼻水で奇妙な嗚咽が漏れた。
灰色の床に大和の血溜まりが広がっていく。
殴り飛ばした拍子に持っていかれた右太腿の殆どは、生々しく花開いたかのように筋肉を露出し、止め処なく血を吐き出している。その中に混じって骨も見える。傷は深い。
「あがっぁ、っ、くそッ! くそ、くそ、くそッ!」
どうしようもない、痛み。
脂汗を噴き出しながら、顰め面、掠れる声で喚く。
「っ、ッう!」
殴り飛ばされた獣は、少し痛みにもがいた後、大和の肉をあまり租借することなく、ほとんど丸呑みのようにして飲み込んだ。開いた口元から垂れ出る涎に血が混じっている。
獣は、美味そうに喉を鳴らした。
目の前にご馳走が転がっているとでも言うように。
「ぅぅぁ、っ、こ い 、つ……ッ!」
異常なほどの高揚感と怒気。
大和の中に渦巻く、静かに荒々しい力の奔流。
間近まで迫った“死”が、大和に恐怖と痛みを忘れさせ、根本的な感情と生き残るための術を引きずり出す。不思議と、痛みは感じないほどに小さくなっていく。動かない、という違和感しか感じることはない。
死にたくない、生きる。
必ず生き残ってみせる。
左足を頼りにして、ぐっと這い上がり、立ち上がる。
右足は辛うじて動くのみで、ほぼ繋がっているだけだ。
俺は、生きる。――渇望。
それだけが大和を動かした。今度は獣から目を反らさず、睨むようにして。
「……俺を、食いやが った な」
獣が吼えた。それが、嗤ったようにみえた。
「ああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
威嚇するように、あるいは自分を鼓舞するように、大和も吼えた。
やれる。こいつを殺せる!
自信が大和に満ちている。倒せる根拠などない。けれど大和は確信している。
こんなにも、力が溢れているじゃないか!
ずるずると渦巻く得体の知れない熱が体内を駆け回っていることが、そう思わせていた。
ダンッ
大和は右足を踏み出した。その異状に気が付かないまま、目の前の敵に向かって突進する。
そう、まさに今、異状が起こっているのだ。
動かすことが出来ないほどの傷を受けた右足。だというのに、なんなく大和は動かしてみせた。大きな矛盾だが、その答えは簡単だった。
まるで肉が溶けていく映像を高速逆再生したかのように、大和の傷が治癒していた。