◆6話
制服を着て、大和は廊下へと出た。
冷たい雰囲気がする、薄暗い、灰色の廊下だ。道幅は人が2人すれ違える程度だろう。光源はさっきの部屋と同じ、発光する鉱物のようなものだ。その光が淡く頼りなさげなものだから、無機質な灰色の廊下と相まって廃墟を思い起こさせる。
いや実際、ここは使われなくなって久しい建物なのだろう。朽ちかけていて向こう側が見える扉や、隅に張る蜘蛛の巣が物語っている。
一歩踏み出す度に、空恐ろしくスニーカーが地面を踏む音が反響した。むなしく響くそれは、この場所の雰囲気に妙に合っていて、やけに強調されて聞こえる。
ふぅ、と大和はボタンを1つ外した学ランの首元に人差し指を入れ、着心地の悪さを緩和させようと、ぐいと動かした。もう結構な期間着ている制服からする違和感が気持ち悪い。その違和感の正体は、
「……やっぱり、直接学ランを着るのは気持ち悪りぃ」
地肌に直接学ランを着ているからであった。
なぜ、学ランの下にYシャツを着ていないのかというと、単純にYシャツが着れた状態になかったからだ。別に大和とて、好き好んでこんな特殊な格好をしているわけではない。
大和がYシャツを着ようと手にとってみると、白かったはずのそれは大部分が赤く染まっていた。触り心地もごわごわとしていて、曲げるとばりばりと音を立てる。それに加えて、血生臭い匂いを放っていたため、大和は着ることを断念した。
いや、臭いに関しては制服全てにあった。まるで、それを着たままどっぷり肩まで血の海に浸かったかのような……。
そこまでで大和は考えることを止め、背に腹は代えられないと一番着ることを遠慮したいYシャツのみ除いて、制服を着たのだった。
そんな経緯があった後、大和は廊下を歩いている。
左に直進して突き当たりの部屋にいる、というアバウトさが見え隠れする説明だったが、迷う心配はなさそうだ。部屋を出てすぐに左を向けば、真っ直ぐ先に扉が確認できた。距離にして70メートル前後であろうか。
ちなみに右を向いたら小部屋1つ分くらいの距離があるだけで、行き止まりになっていた。
分かれ道は、少し先の右側に一箇所しか無い。全体で見れば、左右のバランスの悪いT字のような廊下だ。
一歩、また一歩。
歩みを進めるたびに、気が重くなるのを大和は感じていた。
部屋を出るとき、決心をつけてきたはずだった。しかし、扉との距離が縮まるにつれてその決心がぐらつき、壊れてしまいそうになる。恐怖というものは、簡単には拭えないものだ。見てみぬ振りをしたところで、そのまま消えてくれることはない。
あの扉を開けたら、ぐさり、と殺されはしないだろうか。
単なる愉快犯で、こっちに希望を持たせてから突き落す気なのだろうか。
大和の頭の中で、恐怖で肥大した思考のせいか、悪い結末が浮かんでは消えを繰り返している。
踵を返して走り去りたい。
しかし、一体どこへ行けるというのか。
歯を食いしばる。
前を見やる。
そうして、目的の部屋の前までたどり着いた。
けれど、立ち尽くしたままで、両開きの扉へと手が伸びない。
「……、ん」
口内の少ない唾液を、音を立てて飲み込む。
ドンッ、とたいして大きくもない扉だというのに、妙な違和感を覚えるのはやはり、
「ビビッてるな」
ということだ。
「すぅ……、はぁー」
大げさともとれる深呼吸をして、大和はきつく扉を睨んだ。
心の中で奮起する。
大丈夫、きっと助けは来てくれる。
頑張ってください、国家権力。
大和は扉に手を伸ばし、取っ手を掴む。
軋むような音をたてて、ゆっくり開いた。
重い。
◆
両開きの扉を押し開けて入った部屋は、部屋というには大きすぎた。目測バスケットコート2つ半程度であり、天井の高さは3メートル前後だ。
2、3歩室内に踏み込み、辺りをグルリと見回す大和。
「……いない」
同じ顔の男は、ここにはいなかった。
「騙されたのか?」
当然の疑問を口にする大和。
だだっ広いだけで何もない。いや、よく周りを見れば、右の壁の一部がガラスらしきものになっている。この位置からでは光の反射で向こう側はよく見えないが、なにがあるのだろうか。
大和が、その場所へ行こうと歩みを進めたすぐ後、後ろでごごご、という音が聞こえた。振り向いて音の原因を見ると、
「――なっ!」
壁が動いて、扉を飲み込んでいた。
「ちょ、ちょっと待って!」
あり得ない。
あり得ないが、現に目の前で扉がもう消えている。
走り寄って、大和はその扉があった場所を触る、叩く、軽く殴ってみる。――なにも反応しないただの壁になっている。
「嘘だろ」
閉じ込められた。
ぐるり、と見渡してみるが出入り口は、たった今壁に飲み込まれてしまったあの扉のみ。そして、なんとも馬鹿げた話だが、その扉は壁へと飲み込まれてしまった。
「ああ、……クソ、後回しだ、後回し」
多少混乱はしたが、今は考えることは止そうと頭を切り替える。いろいろなことが立て続けに起こって頭のネジが何処かしら緩んでしまったのか、すんなりと頭は壁が動いた事実を受け入れてくれた。
さて、と大和は唸る。
嵌められた、……と考えていいのだろうか。
あの男が、俺をここに閉じ込めてなんのメリットになる?
『や、九柳大和』
「……!」
突然、あの男の声が響いた。拡声器を使って何処からか放送を流しているような、篭った声だ。
『悪いね、問答の前にちょっとした検査をさせてもらうよ』
「は?」
男の言う検査とはなんなのか。
大和が疑問を口にする前に、向かい側の壁がごごご、と唸りを上げ、通路が現れた。
「なんなんだ……?」
そっちへ行けってことか?
大和は開かれた通路へ向かう。
が、その通路は大和のために開かれたわけではないと、すぐに思い知ることになった。
「えっ?」
通路の中の暗がりに光る双眸と低い唸り声。たたっ、と俊敏な動きで走り出てきたそれは、鼻をヒクつかせながら周りを見回した。
「……い、ぬ?」
焦げ茶色い毛並みをした、大型犬サイズの四足獣。しかし、大和が見慣れている犬というものとそれは、違うように感じた。
全体的に短めの体毛だが、頭頂部から尻尾までの背骨のラインにタテガミのような雄雄しい剛毛が生えている。口元に見え隠れする牙は、大きくはないが獲物を狩るための実用性を重視したかのように細かく、かつ鋭い。その隙間からは白く濁った涎が垂れでている。腹を空かせているのだろうか。
「……、……っ」
ごごご、と犬の後ろで口をあけていた通路が壁に飲み込まれていく。
密閉された空間に、人間一人と獣一匹。
大和は、背中に冷や汗が流れるのを感じ、無意識に半歩下がってしまった。その微かな挙動が、獣の注意を引く。
大和を視界に入れ、低く喉を鳴らす獣。飛び掛る機会を窺うように身を低くし、見据えながらゆっくりとだが確実に追い詰める動作で、距離を詰めてくる。その様子だけで、大和の中に押し込めた恐怖があふれ出した。
『九柳大和』
男がなにか言う。けれど、それに注意するだけの意識が余分にない。一時でも注意を手放してしまえば、きっと食いつかれる。
生存本能とでもいうべき感覚が大和の心の中で警鐘を鳴らし続けいているため、視線を外さずにゆっくりと後ろへ下がることが精一杯だ。
『さぁ、生き延びてみろ』
その声が開始の合図であるかのように、獣が1つ吠えた。
「ひっ!!」
その威圧に、下がる足を絡めてしまい、大和は尻餅をついてしまった。
その隙を獣は逃すはずもなく、大和を食い殺そうと一気に速度を速め、飛び掛った。
「うぁぁ!!」
慌てて、這うようにして動き、獣の初撃は辛うじてよける。
横数センチのところに獣が着地したことにより、獣臭と唸り声が大和の感覚を揺さぶった。
「ぁぁっ!!?」
半ばパニック状態に陥った大和。
一層リアルに感じられる獣の質感と、如何にかしなければ喰われるという思考がないまぜになって、無茶苦茶に腕を振り回した。
ギャンッ!!
と、獣が鳴き声を上げて軽く吹き飛ぶ。カウンターのかたちで、顎に腕が入ったのだ。しかし、とても冷静とはいえない大和には、なぜ獣が吹き飛んだのかは理解できなかった。ただ、好機だとしか思えない。
逃げなければ、と、その瞬間に脱兎のごとく駆け出す。
それがいけなかった。
背を、向けてしまった。
獣は大和の背を恨みがましく睨むと、駆け出し、一気に距離を詰め、
「ぎゃぁあぁあ!!」
大和の右太腿に、深く喰らいついた。