◆27話
猫なで声のあと、一瞬の間をおいてリリシアは、「ぷっ、あはははは」
「どう、ドキっとした?」
胸元から見上げ、からかう。細められた瞳に三日月をつくる唇、その魅力的な笑みにジークはため息でこたえた。
「なぁ、ほんとは酔ってないだろ」
「……」
「アルコールの匂いがしない」
「……あぁ、バレてたか」
さすがジーク、と微笑混じりに言った。
微睡んでいた瞳が、明確な理性を宿した瞳にかわる。
「ま、この距離じゃバレないほうが可笑しいのか」
「いや、大した演技力だよ。それに、そもそも俺を騙すためにやったわけじゃないだろ」
「ん、まあね。……あの客を見たろう? ああいった手合いが無理に押しかけてきたのを断ったら、つぎ会うと大変なんだよ。だから相手にするのに予防線が必要なのさ」
ああいった手合い。詰まるところ、チャールズ・ゲイツのような羽振りはいいが自分しか見えない奴らをさしている。他にも思い当たる人物をいくらか思い出したのか、リリシアはウンザリ顔をした。
「押しかけて、こっちを質問攻めにしてくる。ひどけりゃ、烈火のごとく怒りだすのもいる始末。……だから、“酔っていて憶えてない”って免罪符を用意しておけば楽なのさ。あとは――」
絡んでいる腕に力をこめて、ジークの顔を近づける。
「あなたに、私のだらしのないところを見せてしまうなんて……。ごめんなさい、許してくださいますか?」
震える声で囁く。瞳はわずかに濡れ、しかしどこかうっとりと揺れる。
そのさまは、主人に見捨てられないようにすがる子犬のようだ。
思わずドキリとした。
次に気づくのは、柔らかの双丘が生み出すふにふにとした柔らかさと、チラリと覗く谷間。
「……ってね」
媚びているように見えない。
客にみせている自分のキャラと魅力を、把握したうえでの活かし方。
「お見事」
「恥じ入る気持ちに、信頼を匂わせて、あとは少しの色。……大概はこれで片がついちゃうんでから、ほんとに」
「単純?」
「ご自愛の心が強い人は、ね」
その点、使いたくない人もハッキリしてる。――リリシアは微笑んだ。
「俺?」
「正解、アンタみたいのには嫌だ」
「へぇ、理由が聞きたいね、なんで?」
「弱みになりそうなところを見せたら、そこから別の弱みを見つけて、心に入ってくる。そうやって絡めとっていくタイプよ、アンタ」
それに、負の感情の使い方を知ってる。……たとえば、悪意とか。
ぽつりとそう付け加え、
「……うん。……誰よりもアンタが一番、性質がわるい」
最後は小さなこの一言で締めくくった。そして、なんの反応も返してほしくないと言わんばかりに、リリシアはジークの胸元へ顔をうずめるように抱きしめた。
ジークは寄りかかった扉に、こつんと頭を預ける。
見慣れた姿が胸の中にある。
やわらかく、光を浴びると銀にもみえる、癖のひとつもないセミロングの灰色の髪。水面をのぞき込むような、青い瞳。朱がさすとより魅力的にうつる、白雪のような肌。決して大きくはないが、服の上からでも女性らしい曲線がわかる、華奢で小さい体。客にみせる生娘のような姿。ジークにみせる、砕けた口調で毒をはく姿。
そのすべて、ジークの手から掻っ攫われた残滓。
「……」
ジークがこみ上げる苦い思いに顔を顰める、その瞬間リリシアは顔をあげた。抱きついていたのはおよそ5秒。わずかな時間とはいえ、彼女もなにか思うところがあるのは確かだ。ジークは身を固くした。
「……少し」
「……」
「……汗のにおいがする」
「は?」
もっと別の言葉がとんでくると思っていたものだから、想像の斜め上をいくリリシアの言葉に身構えた体から力がふっと抜けた。
「ここまで走ってきた?」
「あ、ああ」
共同墓のある教会区と娼館通りの位置関係は、それこそ真反対にあるといっていい。
なぜか。
ラピュセル教の教えにふれると考えられているためだ。
元来、ラピュセル教において月と慈愛の女神は性に関して大らかだ。
闇夜に寄り添い、慈しみをもって民衆を導く姿から、母性的な面が多くの教えの中から垣間見える。その教えの1つに「産めよ、増やせよ」から始まる一節がある。愛をもって子を成すならば、それは大変尊いことだ、そう説く。ただ、姦通は唾棄すべき大悪徳の1つだとも説いている。
「愛がないわけではない。しかし、快楽と打算の吹き溜めになっているのもまた事実」。そんなスタンスが教会から娼館に対する常になっていて、教会側が物理的にも精神的にも距離を取りたがっているのだ。
それは、この王都でも同じこと。
この広い王都、協会からこの娼館まで結構な距離がある。それを走ってきたのだから、汗もかく。
「悪い、もう少し身だしなみに気をつけるべきだった」
「ううん、許す。ってか、あんまり気にしない」
それから、子犬のようにスンスンと胸元でにおいを嗅ぎ、
「甘いにおいもする」
「ほんとに犬か、お前は」
「……この袋からか」
「ああ、お土産。あとで食べな」
リリシアを引きはがして、部屋の右側におかれた丸テーブルの上にパンの入った紙袋を置く。そして自分は椅子に座る。ここにきて、初めて足が疲れを訴えた。
リリシアは少し名残りおしそうに紙袋を一瞥し、ベットに腰かけジークの方を向いた。
「で、今日は何の用事?」
「ああ、まぁ、……少し話をしようと思って」
話? と訝しむ。しかし、リリシアが何か言葉をつづける前にジークが切りだす。
「ここに来る前、あの人の墓に行ってきた」
「……、そう」
僅かに空気が重くなった。
「そう、母さんの」
ジークの顔は穏やかだが、心中がはかれない。
リリシアは聡明さをもった、しかし仮面のような無表情になる。
「お前の母親だろう? 少しは行ってるのか?」
お前の母親だろう? ――その言葉に、リリシアは眉間に小さな溝をつくった。それから視線が下を向き、かすれてしまうほど小さな声で、
「他人ごとみたいに言うなよ……」
伝える気はない、独り言。だからすぐに目線をもどした。
「行ってないことはないよ」
「曖昧な返事だな」
「うっさい。……で、墓参りなんてどんな風のふきまわし?」
「花を手向けに。……あとは、ちょっとした決意表明、かな」
「決意表明? なに、何言ってんの?」
「――俺さ、ルナヘイルの王になる」
あくまで気軽に、世間話の一環で口を突いて出たかのような口調だった。
「だから、決意表明」
墓の下にはいない、この世のどこにもいないあなたへ。
――俺の本当でいてくれて、ありがとう。
――あなたを裏切ることになって、ごめんなさい。
――俺は、存在だけであなたを傷つけたと思う。だから、情けないことに、いつもかけるべき言葉が見つからなかった。
せめて。
だけどせめて、――「行ってきます」。
それが今の自分の精一杯だった。
「子どもの頃の、俺のバカげた宣誓を覚えてるか?」
「……まぁ」
「そっか。……俺は実現させようと思うんだ。あの時の宣誓を、嘘で終わらせたくない」
「……」
「今更とか、諦めてたくせにとか、言われても反論できない。自分でもわかってる。……どうにかしようと息巻くばかりで、力がないと分かったら人生に対してもがくことすら奪われた気がして。空まわって、ひねくれて、結局行きついた先は“逃げ”と“諦め”。そんな俺が王家に対してやったことと言えば、無能らしく兄の影になることと、その結果として面汚しになって王家に泥をぬったことくらい。そんなものだったよ、俺なんて」
嘲笑、自分で自分を嘲る。
「でも、――」
しかし、すぐに口元を引き締めなおし、
「諦めるには早いんじゃないか、って思えたんだ」
次に紡がれた言葉には、切実ともとれる力強さが宿った。
「奪われるだけの人生なんて、もう御免だ」
そして、幼い頃を再現するように。あの人の骨を海に撒いたリリシアの背に叫んだように。
「国を変える。――俺は、……僕は、ルナヘイルをぶっ壊す」
存在を奪われ、与えられた他人。
足掻いて、もがいて、挫折して、逃げて、諦めて、――それでも、もう一度手を伸ばす。
――ぶっ壊す。
それが、白金の髪に蒼穹の瞳をもって生まれたことに対して彼が出した、解だった。
「……」
「なにも、言わないんだな」
「なにが?」
「もっと、罵られるかと思ってた」
「こんな場面で被虐嗜好なんて発揮しないでよ、変態」
まぁ、そうね。
リリシアはそう一息ついて耳元の髪をかきあげた。
「都合のいい奴、とは思ったわね」
「……かもな」
「なにが、そこまでアンタを駆り立てたの?」
――アンタ言ってることは、身も心もジークなるってことなのよ。
真摯に問うてくる。言葉のうらに、少しだけあった棘にジークは気づく。が、だからと言って先の言葉を撤回する気はない。それは、許されない。
「ジークになるわけじゃない、俺は俺だ」
「……」
「『私は私、君は君。他人だから分かり合えないんじゃなく、他人だから分かり合えるんだよ。他人だから、相手の幸せなところ、辛いところに、目を向けられるんだよ』……そう、教えてくれた人がいたんだ」
そんな彼女も……。
口を突きかけて、ジークは頭を振った。愚痴をこぼすときではない。
「ふん。アンタが馬鹿げたことを言い出したのは、そいつの妄言が原因ってことね」
「今はもういないんだけどね。……死んじゃった」
「へぇ、そう。ともあれ、アンタの気持ちがどれほどのものか知らないけれど、……本気なの?」
「ああ、取り消すつもりはない。俺は王になる」
「療養してるアンタの妹とか、過去に摂政くずれを務めた貴族とか、適当な奴に国を明け渡して勝手に変わっていくのを良しとしない。……アンタ自身が王として国を変えるの?」
「ああ」
――そう、わかった。
リリシアは、堪えるかのように息を吐き。
それから、諦めたように、とれも綺麗な微笑を浮かべた。
「バカね、国なんてもののために身を捧げるなんて。……ほんと、バカで、臆病者で、捻くれてて、無能で、たくさんの人を傷つける嫌な奴」
中傷の言葉だというのに、傷つける威力はまるでない。
ただ胸の内にストンと落ちくるだけの非力さで、
「……だけど死なないで」
だからこそ、胸を痛めつけ、締め付けた。
「アンタが決めた道なら、アンタが歩ききりなさい。アンタにどんなことがあっても、アンタがどんなことをしても、死ぬことだけは許されない。生きて、歩ききって」
どこか祈るような、しかし力強い意志のこもった声音。
「その背中で夢でもなんでも、魅せてみなさい」
「……ああ」
揺るがぬ肯定に、リリシアからそれ以上の追及はない。
それから少しの間続いた沈黙を破ったのは、ジークだった。
「今日は、それを言いにきた。それだけだよ」
「……、なんだか別れの挨拶みたいだ」
「どうだろう。実際、お前との関係に区切りができたのは明らかだな」
靴ひもを結びなおして、立ち上がる。
「いや、お前だけじゃないか。もう、あの人にも顔向けできないや」
「どうして?」
「息子であることを止めた俺が、あの人の前で、どんな面さげて手を合わせることができる? あの人にはこれ以上、俺を理由に苦しんでほしくない。苦しませたくない」
「自分が墓参りに行くのが、死人に鞭打つ行為だとでも言いたいわけ」
「事実、そうだろ」
外からかすかに、リンゴンと時間を告げる鐘の音が聞こえてきた。その音に導かれるようにジークの視線が虚空を見つめ、それからリリシアに背を向けた。
「もう、行くよ」
そのまま、部屋の扉にむかって歩き始める。
「ズルいね」
リリシアが言った。
「母さんに対しては、そうやって心に逃げ道をつくって」
ジークは振り向かない、返答しない。
「自分の気持ちに楔をうって、忘れないようしてる」
リリシアは短く、鋭く息をすった。
言葉を発さず、扉に手をかけた後ろ姿。
その背中に、心に、私が楔を打ち込もう。忘れさせてなるものか。
「人を変えるのは生者だけ、死者はなにもしてくれないよ。慰めも叱責もね。あるのは身勝手な感傷だけ。だから、私に言わせればアンタが墓標になにを誓おうが、後ろめたく思おうが、意味がないのよ。母さんはもう、死んでるんだから」
「――なにが言いたいのさ?」
「あの人、なんてやめて。……お母さん、って呼んであげればいいのよ」
「……それこそ、お前の言う身勝手な感傷だよ」
ジークはリリシアのもとを後にしようと、扉を開ける。振り返ることはない。
「……そう」
無感情な声。
けれど、その後に紡がれた言葉には確かな感情がこもっていた。こめられた真意はリリシアにしかわからない。
「頑張ってね、いってらっしゃい、■■■兄さん」
「っぁ……」
しかしジークの足を一瞬止めるには充分だった。
揺れる、背の高くて白い花。
ああ、俺があの人から授けてもらった名前は、――。
「ありがとう」
砕かれ消えた、ジークになる前の記憶。
その中で、あの人の声で、――俺の本当が聞こえた。
「いってくるよ」
扉の向こうにジークの姿が消える。
やがて、僅かに感じられた気配もきえてなくなった。
閉じた扉を見つめるリリシアの顔から、彼女の感情はうかがい知れない。
やがて、ジークの持ってきたお土産に手をのばした。くしゃくしゃになった紙袋をひらくと、幸いにも中身は無事だった。
2個のパン。
ふわり、と甘い匂いが香った。
1つ手に取り、ひと口大にちぎる。なかから顔をのぞかせたジャムをみて、王都で密に話題になっている噂のパンを思い出した。口に放り込むと、噂にたがわぬ美味しさが訪れた。
「……うん、おいしい」
もう一度、ひと口大にちぎって食べる。
「でも、どうせなら焼き立てがよかったな」
香ばしくも甘い香りの、仄かにあたたかいパンを手に。お酒なんかじゃなくて、紅茶をそえて。一緒に談笑しながら食べる人がいたならば。
「……」
双子の兄が去った扉を、残された双子の妹は、じっと見つめた。
「……、兄さんのバカ」
そんな弱弱しいひと言にも、扉を見つめる縋るような視線にも、返答は返ってこない。
気がつけば、投稿から1年。まだ冒険にすら出ていない主人公、全体の5パーセント程度しか進んでいない物語。完結まで何話かかって、何年かかることやら。
もし1年前から追ってくれている人がいたのならば感謝の言葉もありません。よろしければ、これからもお付き合いください。