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見知らぬ世界にて、  作者: ドミノ
序章閑話:諸々の動向
19/37

◆閑話3

 王都リュニアの一角に、『月姫の唄』という酒場がある。

 娼館通りの入り口、所謂大人の階段の1段目にあたる部分に門を構える酒場だ。

 娼館通り入り口に店を構えるということは、どこかの娼館と提携を結んでいるということだ。自然、そういった類の職に就く女が偶の休暇に飲みにやってくるし、あわよくばを期待して男も足を運ぶ。


 この月姫の唄も、娼館『月光姫』という大きな娼館の傘下にある。


 そんな酒場の、隅の席。

 店内全てが見渡せる位置に陣取って、酒を煽るでもなく静かに店の様子を観察する男がいた。


「……」


 獅子のタテガミのように大きく波打つ茶髪が特徴的な男だ。その目つきも、肉食獣のような相手を射竦めるだけの鋭さがある。加えて、口を真一文字に結んで腕組みをする様がやけに野性味を醸し出していた。まるで、虎視眈々と獲物を狙う、寡黙な強者のようだ。


 屈強な雰囲気を漂わせる男の存在に、僅かにだが店内の女は色めきだっていた。声を掛けてはくれないか、と淡い期待を抱いた複数の視線が男をつつく。


 単純に街中にある酒場ならいざ知らず、娼館提携の酒場とくれば、やってくる女の大部分は娼婦だ。


 娼館提携の酒場に足を運んだということは、少なからず女を望んでいる。そこに取り入れば、店のお得意様へと引き込むことが出来るかもしれない。もしかしたら、こんないい男が自分のリピーターになってくれるかもしれない。――そういった、自分の箔付けを夢想する者。


 この酒場で声を掛けられ、燃え上がった末に娼館から身請けできた人もいる。数少ない自分から選択のできる場なのだから、かっこいい男との今後を期待したい。――そんな、恋物語を空想する者。


 女たちの裏にある打算が見え隠れするようで、男は能面のように表情を固くした。


「……」


 店内の女が自ら進んで誘惑をすることができないのは、この男の息詰まるような圧迫感だ。声を掛けるのも躊躇うほどではないが、浮ついた気分で声を掛けたら食い殺さんばかりの重苦しさを放っている。


 加えて、女が声を掛けたときの対応が堅物そのものだった。


 ほんの数分前に妙齢の娼婦が声を掛けたが、男は取り合わなかった。

 押しても引いても、誘惑しても馬鹿にしても、何をしてもダメだった。

 若さに似合わないほどの成熟した色香を放っていたその女にも靡かなかったところを見てしまった後では、尻込みしてしまうのも無理はない。


 自然、待ちの態勢になっている女が多い。

 そんな女たちの様子が気に食わないのは、当然、店内の男たちだ。


 店内隅に座る男に色めいている女に声を掛ければ、お呼びじゃないと目で答えられる。

 仮に色よい返事が貰えたとしても、コイツでいいかと、なんだか妥協された気になってなけなしのプライドを踏み躙られた気持ちになる。

 だからといって、男に視線を送っていない女に声を掛ければ、そんな気ではないと切り捨てられる。


 結果、男は各々気が合った者同士が自然と集まって酒を酌み交わしていた。数名、出来上がった男もいるようで、「イケメンがなんだー!」「女がどうしたー!」などと声を張っては、ゲヘヘと笑っていた。


 日が暮れてまだ浅いというのに、店内は随分とにぎやかだ。



 そんな喧騒の中、カランッと入り口のドアに取り付けられたベルが響いた。その音を聞いた何人かが、入り口のほうへと視線を向ける。


 入店したのは、シャツにタイトなパンツといった、ラフな格好の女だった。

 歳の位は、まだ酒が飲めるようになって2年と経っていないような若さ。恐らくまだ20歳そこらだろう。ショートカットにした、蜜のような赤褐色の髪がなびき、人の目を惹きつける。


 おお……、と男のため息がどこからか聞こえた。

 それほどに、入店した女は、健康美に溢れ魅力的だった。


 女は店内に視線を這わすと、ある一角でそれを固定した。そして、そのまま脇目も振らずにツカツカと歩いていく。その先は、あの店内隅に座っている男だ。


「……ちっ、なんだよ」


 誰かがそう愚痴を漏らした。あの男目当てか、と女の入店に注目していた数人の男は喧騒の中に再び加わっていく。

 対して女たちは、女の挙動に好奇の視線でも向けるかのように白々しく傍目から見ている。

 さあ、どうなるか、と、気の早い女は、今後の展開によっては自分の利に結びつける算段を頭の中で始めていた。


 女が、男の座る席にまでたどり着く。

 だが先に声を掛けたのは、男のほうであった。


「……、随分待たせてくれたな」

「随分って、ほんの25分くらいでしょ?」


 ゆっくりと低く話し掛けた男に、女は朗らかに返した。


「あ、アタシ水貰ってくるわ。ちょっと待っててね」

「お前……」

「ほぉら、カリカリしない」


 女は軽い調子で言い、男は僅かに眉間に皺を寄せながらも、それ以上文句を言わずに女を待った。その様子を一見しただけで、2人が親しい仲であることは分かる。


 2人のやり取りに、店内の雰囲気が少し変わった。

 あからさまに落胆の色を浮かべる者、ため息をつく者。自分の機会が無くなったと、早々に諦めムードが女たちの間に漂い始めている。


麦酒(ビール)、大ジョッキで頂戴!!」


 1人の女がやけ気味にオーダーを叫ぶ。

 自分でも思いがけないほどに、男との今後を期待していたことが恥ずかしかったのか、半ばやけくそになって、ジョッキ片手に男のドンちゃん騒ぎに乱入していった。


 その女の行動を皮切りに、男の集団に酒を片手に紛れ込んでいく女がちらほらと。そうでなくとも、酒を頼んで一気に煽り始める者もいる。


 喧騒が一層の盛り上がりを見せた。

 一方ではジョッキ同士のぶつかる乾杯の音。また一方では、男女の笑い声。



 水を片手にカウンターから戻ってきた女は、男の向かいに座ると、店内を眺めた。


「おおぅ、盛り上がってんね」


 そう、感想を漏らす。

 女は可愛らしい笑みを浮かべながら、店内の様子に目を細めた。まるで、眩しいものを必死に視界へ収めようとしているかのようだ。


「全く、夜はこれからだってのに」

「確かに、らんち騒ぎを始めるには些か早い時間だな。……俺にはな、漠然とだが、皆なにかを紛らわそうとしているかのように見えるよ」


 女の言葉に男は浅く頷いた後、独り言のように漏らした。その言葉に、女が反応を示す。


「なに、ジン。どういうこと?」

「注意深くしていれば、おおよその検討がつくと思うぞ、アンリ」

「ふぅん……」


 頬杖をついて、ぼーっと店内の喧騒に耳を傾けるアンリ。しかし、大して興味もないのかすぐに視線をそらして、ちびりと水に口をつける。

 アンリの性格から、彼女がそんな態度をとるであろうと予想がついていたジンは、少しばかり自分が感じたことを話し始めた。


「お前を待っている間、少し店内の様子を見ていた」

「う? うん」

「俺たちは何度かこの店を利用したが、開店すぐのこんな時間帯から席が埋まるほどの客が入ることはまずなかった。賑わい始めるのは、もっと夜が更けたあたりからだったろう」


 首肯するアンリ。確かに、と偶にこの店を利用するときのことを思い出す。

 人が少ない開店間際に店内で過ごし、賑わい始める頃に店を出るのが2人の通例だった。しかし、と思って再び店の様子を見る。

 アンリの考えていることを代弁するようにジンが口を開く。


「しかし、最近はどうも早い時間帯から客が騒ぎ始めるらしい」


 店主と客の男が、カウンターでそう会話をしていたのを、ジンは盗み聞いていた。


「こんなことになったのは何時頃からと言っていたかな……。ああ、今から遡って3週間前後のことだ、と店主は話していた。以来、日に日に店は盛り上がりの激しさを増しているらしい」

「ふぇ~。――ああ、そっか」


 今から約3週間前。

 そう聞いて、アンリの脳裏にあることが過ぎる。


「色々、動き始めたもんね」


 東の地、ハミル。

 狼の子。

 賢王ミュレイと、その后アーネの死。

 アドゥルの民の手引き。

 騎士団の敗退。

 次期王、戴冠式の決定。

 放蕩王子ことジーク王子。


 この3週間で、多くの噂が流れた。多くの真実が知らされた。多くの情報が提示された。そして、多くのことが操作され、口止めされ、それでも蔓延していった。


 最近の出来事を思い返すように目を瞑るアンリ。

 耳を傾けると、喧騒に紛れて聞こえてきた。実しやかに囁かれる都市伝説のように、静かに、聞こえてきた。




「酒がうめぇな……。こいつも、もうじき飲めなくなるやもしれねぇな」

「しみったれんなよ、じじい」

「おめぇは戦争を知らねぇからそんな口が叩けんだ若造。あんなもん、得をするのは商人と貴族ばかりだ」

「馬鹿やろ、祖国は大事だろうが。損得じゃなく、誇りを賭けて戦わなきゃならないだろ」

「祖国は大事なのは確かだ。けんど、今の生活を壊したくはねぇんだ。……、あぁ、なんで武王さまは死んじまったんだよ、チクショウ」



「なあ、聞いたかよ。南のほうで暴動が起きたとか。小規模なものらしいが、犯人は狼の子だと名乗ったらしいんだ」

「ああ? んなもん、鵜呑みにすんなよ。名前だけ語って好き放題やる馬鹿がいるんだろう」

「でもよ、放蕩王子は何の対処もしようとしてないって話だぜ」

「おい、人の目がある場所で滅多なこと言うんじゃねぇ!」



「王子は、軍事を進めているんだろうか」

「どうだか。丸投げでもして、遊び呆けてんじゃねえの?」

「ありえ、……なくはないな。ああ、国はどうなってくんだよ。全く」

「所詮、俺たちは一介の民草でしかないんだ。なるようにしからならねぇよ」

「でもよ、それはあんまりだろ?」

「じゃあ、俺たちが気張ってなんか変わるか? 変わんねぇだろ」

「……ちっ、もっとしっかりした奴が国の頭にいればな。賢王さまみたいな」

「それか、もっと強い奴だな。武王さまみたいな」




 ガシャンッ!

 という、ガラスの割れる音で、アンリの思考が急に浮上した。驚いて目を開き、そして、何事かと音のした背後へと目を向ける。


 そこでは、若い男が酩酊でもしたのかひっくり返っていた。その拍子に割れたのか、ジョッキ2つが床に砕けて散らばっている。


 「おい、コーネル! ったく、しっかりしろよ!」「無茶するからだよ、若ぇの」「ははっ、こいつぁ、酒に弱いくせして、際限なく煽るからな」、そんな声が飛び交う。そして、男1人がそんな状態になっただけで、何が可笑しいのかどっと笑いが起きた。


 そんな中、今度は女が大きいテーブルの上に飛び乗った。

 「ほら、男ども! アタシを見なさい」と言い、テーブル上で妖しく笑う。酔っていることは一目で確認できた。


 黒い、胸元の大きく開いたワンピースタイプのドレスを着ている。

 赤く上気した頬や胸元。白い肌はしっとりと汗ばんでいて、照明に照らされて(あで)やかに煌く。流れる目線。弾むような息遣い。男を誘うそれらの所作を見ると、どこかの娼婦だろうか。

 男の欲情を逆撫でるように、腰を使った踊りをテーブル上で行う。

 その傍で、囃し立てるように「いいぞー、リューラ! もっとやれー!」と数人の女が声を上げた。

 そのまた横で、酒場の店員が人波を掻き分けて「リューラさん、お止めください!」と必死に声を掛けている。店側が名前を知っているということは、そこらよりも名の知れた娼婦か、いつも問題を起こす迷惑者かのどちらかだろう。


 けれど全く気にも留めない様子で、リューラという女は口角を上げる。


「アタシを抱きたきゃ、金もって『流麗の女』まで来な。5万Gから相談にのってあげるわ」


 言うとドレスの両肩紐に手をかけ、そして外した。

 当然の如く、女の胸が露になる。


「うおぉおぉ」


 男が野太い歓喜の声を上げるとほぼ同時に、女の下までたどり着いた店員がテーブル上から引き降ろした。すると今度は、野次が響く。



「……うわぁぁ」


 苦笑いを浮かべ、アンリは視線をジンのほうへと戻す。

 鼻と眉間に悪戯っぽく皺を寄せて、コミカルに舌を出してみせた。


「こりゃ、ひどい」

「ああ。店主の顔色を見る限り、今夜は相当に酷く盛り上がっているようだ」


 ニヘヘ、と笑ってアンリは言った。「こんなご時世だものね、そりゃみんなで寄り固まっていたくもなるわ」と。


「きっと、飲んで騒いで少しでも忘れたいんだろうね」

「だろうな。不安や恐怖からの逃げたいのだろう」


 アンリの言葉に同調したジン。そして、そのまま顔を伏せ、声を殺しながら笑う。


「くっ、っ」


 さも愉快そうに、肩を震わせながら笑う。

 その向かいでアンリはグラスを掴み、喉音を立てながら浴びるようにして水を飲み始めた。


「……、んぐ……、んぐ……、っ、ぷぁ」


 そうして水を飲み干し、息を大きく吸い込む音と共にグラスを口から放す。そして店の天井を見上げたまま、背もたれを軋ませる。


「あ゛~~~、ぁはっ、はははっ」


 アンリは細い声で笑った。その向かいで肩を震わせていたジンは静かに顔をあげ、


「可笑しいだろう? 嗤えるだろう? なあ、アンリ。俺は、嗤い出すことを抑えることが最近難しくてしょうがない」



 アンリの笑みが、自分と同じ気持ちからきているものだと気づいているジンは、言う。



「馬鹿共の逃避を見るのは、いい気味だ」



 2人はテーブルを挟んで顔を見合わせる。

 ジンとアンリが、顔を見合わせる。

 店内を飛び交う笑い声にかき消されてしまうほどに小さく。だがしかし確かに、2人はわらった。


 嘲笑を、浮かべた。



「ルナヘイルには、存分に震えてもらわねばならないな。恐怖と不安に」



 3年前、『赤牙』という名でルナヘイルを騒がせた反抗組織(レジスタンス)のトップ――アルジンド・モーガンは、鋭い犬歯を覗かせて言った。


「いい。……ホント、そのまま勝手に壊れる姿が見たいところね」


 対して、その補佐を勤めている現赤牙ナンバー2――アンリエッタ・グリモアも嗤いながら言った。



「そう簡単にはいくまいて」


 と、鋭く濁った目で、未来を夢想するジン。その目には、祖国を踏み躙られた憤怒と、獲物の首元に喰らいつくための野心がドロリと流れているように見える。



 3年だ。

 賢王に大敗を期し、赤牙はそのほとんどが壊滅してから3年。雌伏し、牙を研いできた。


 仲間の手助けでなんとか逃げ延び、泥を啜るように生きてきた。

 すれ違うルナヘイルの民の首を切り裂きたい気持ちを胸に生きてきた。

 仲間を虫けらのように扱うルナヘイルの貴族を心まで陵辱してやりたい気持ちを押し殺して生きてきた。


 静かに、耐えて。

 だが、ゆっくりと着実に。


 各地に散らばってしまった仲間を探し出し、新たな同士を見つけ出し、牙を研いできた。

 王都にも潜り込み、着々と根を張ってきた。

 己を磨き、復讐を糧に。


 そして、ここへきて機が巡ってきた。やっと、復讐の大きな火柱がそびえた。ノーマン・サザーランドが、火を灯した。

 今から17年前。ジンが10歳の頃にクルーエは破滅した。

 少年兵として生きていたジンは、その17年前の雪辱を忘れない。そして、それは恐らくノーマン・サザーランドも同じだろう。

 優秀な魔術研究家にして最高の魔術師というノーマンの栄誉は、最前線にいたジンにすら轟いていた。そして、晩年は復讐鬼のように生きていたという噂もだ。

 そんな彼が強大な武力を掲げて立ち上がったということは、クルーエのレジスタンスに波となって多大な影響を与えた。ぞくぞくと彼に続けと声が上がり、彼との接触を試みている。赤牙も例外ではない。


 そして、ジンは狼の子との接触に成功した。アンリが連絡役となって情報の共有をしている。

 恐らく唯一であろう、王都に潜入しているレジスタンスとして反撃の機を共に窺っている状態だ。



 過去から現在までを少し回顧して、ジンはアンリに鋭い笑みを見せる。


「……いや、簡単にいかれては困る。まして勝手に自壊などされたら、それこそ拍子抜けだ。

 そうなった場合、俺たちは、抜いた刃をどこに仕舞えばいい?」

「わお、かっこいいこと言うじゃない」


 茶化すように小さく口笛を吹くアンリ。しかし上手く出来ず、すぃ~、と空気の抜けるような音がしただけだった。


「くくっ、お前はかっこよくはないな」

「アタシは可愛い担当だから。所謂、お茶目機能を兼ね備えているのだ」


 傍から見れば、恋人のように。

 2人は顔を寄せ合う。


「それで、お茶目機能以外にはなにをもっている?」

「情報だよ」


 しかし蓋を開ければ、睦言のように語るそれは国家転覆を狙う者の牙。


「アタシたちが着々と進めてきた王都崩壊、向こうも賛同してるよ」

「だろうな」

「で、引き金が引かれるのは、ひと月後。その時に向こうも準備が完了する」

「ひと月後、か……」

「そう、戴冠式」


 戴冠式。

 ジンの知る限り、城で5大公を含めた有力貴族たちが集まって執り行われる式の後、パレードのように王が王都中央通りを通って広場まで行き、そこで恩寵の言葉を贈るのだとか。


「その日が、同士たちが各地で立ち上がる日。……クルーエ神民国、再誕の日となるか」

「だから、万全にしておかなきゃね。十全なんかじゃ物足りないから」


 ああ、とジンが言いかけたところで、「そこのいい男~、こっち来なさいよ!」と女の声が響いた。確か、リューラとかいう娼婦の声だ。

 誰かに絡んでいるのか、とジンがアンリとの会話に戻ろうとしたとき、「そこよ、そこ! 端っこで乳臭い小娘とひそひそやってる色男!」という言葉とともに何かが飛んできた。

 顔も向けず、半ば反射的にそれを掴む。

 見ると、酒のつまみとしてよく出される、揚げ豆だった。


 ため息を吐くジンの向かいで、アンリが席を立つ。


「ホント、何時になく盛り上がってきちゃったから、切り上げといきますか」

「ああ、そうするか」

「んじゃま、小娘はお先に失礼。そっちはそっちで楽しくイチャコラよろしく~」


 ともに店を出ない決まりになっているので、普段通りといえばそうだが、アンリの言葉に少々棘があるのは「乳臭い小娘」と言われた八つ当たりか。などと、ジンは喉を鳴らす。


「ああ。お前も、夜道で声を掛けられて火遊びにはしるなよ」

「うっせ」



 立ち去りかけて。



「そうそう、『前日には私たちが狼煙をあげよう』って、向こうの大将が言ってたよ」



 アンリは悪戯っぽく笑って去っていった。






◆◆◆◆◆






 月姫の唄を出て、アンリはスキップのような軽い足取りで、夜の帳が下りた通りを歩く。鼻歌さえ歌いながら、上機嫌で歩く。

 笑みが止まらない。哄笑を上げそうになって踏みとどまる、それの繰り返しだ。


 だが、反して辺りは静まり返っていた。

 酒場の喧騒が嘘のようだ。


 娼館通りを離れると、人気が消え去る。

 皆、大人しく夜は家に引きこもっている。愛すべき家族と団欒を共にし、幸せと感じるひと時に身を委ねる。それを何時失うことになるか分からないから。



 アンリは静寂の中、歩き続けた。

 足取りが次第にゆったりと落ち着いたものになる。一歩一歩が遅く、なにかをしっかりと踏みしめて歩くかのようだ。


 そうして歩き続け、


「……、怖いよね」


住宅区の辺りでそう呟いた。


「みんな、怖くて仕方がないんだもんね」


 その口調は、決して嘲るようなものではなかった。

 慈しみ、励ますような、大切な者へと語りかけるような口調だった。


 アンリエッタの雰囲気がガラリと変わっている。別人といっていいほどに、180度変わっている。


 辺りの影がざわついた。夜の影より一層濃い影が住宅区の方からうねりを上げ、アンリエッタの姿をした誰かへと寄り添う。悲鳴を上げるように(ねじ)り、助けを求めるように伸びる。


「――うん。そんなこと、主も私も分かってるよ」


 アンリエッタの姿をした誰かは夜の空を見上げた。

 雲ひとつない。

 満天の星が、頭上を埋め尽くしている。


 いつかジンが言っていた夜空の話を思い出す。空の神々が死んだ者の魂を掬い上げて星にする、という旧約ラピュセル教の逸話だった。


「それなら、アンリエッタ・グリモアの魂はどこにあるのかな。……ふふっ、そもそも、無事に掬い上げてもらえたのかな?」


 にやりと不敵な笑みを浮かべて、夜空に舌を出す。


「見てるか、アンリエッタ・グリモア。この姿はなかなかいいよ。アルジンド・モーガンにも随分信頼されてるみたいだ。悔しかったら、星になんかなってないで、呪いでもかけに来いよ」


 ピシリと陶器にひびが入るように、アンリエッタの姿をした誰かの顔に亀裂が入る。そこから、1つまた1つと薄い影が剥がれ落ち始めた。


 アンリエッタの姿が変化を始める。


「さて……」


 髪の色が変わる。

 瞳の色も変わる。


「嗤っていたね、アルジンド・モーガン。そんなに可笑しいか? いや、それとも嬉しいのかな? 自分の行ってきたことが報われると思って」


 その声も、変わる。

 肌の色も、服も、体の凹凸も、身長も、変わる。


「でも、気づいてるかい、アルジンド・モーガン。私たちの民が恐怖に震えているのなら、お前たちクルーエの残党は歓喜に酔っているんだ」


 ふにゃり、ぐにゃり。

 日に揺らぐ影のように、不確かなものになっていく。


「だから、扱い易いったらありゃしない」



 変わって、変わって、変わった。



「ふぅ」


 影が体から全て剥がれ落ちて、軽く体を揺すった。

 そして、凝り固まった筋肉をほぐす様に屈伸運動をして、髪の毛をポニーテールに纏め直し、


「よしっ! 報告、報告っと」


どぷんと影に沈んだ。







活動報告とやらの存在に気づきました。気が向いたらそっちに、愚痴やら生存報告をしたいと思います。


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