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106. 安穏


 場所を移し、重華は晧月と向かい合ってお茶をしている。

 暖かいお茶を口に含むとほっとして、重華は身体が軽くなっていくような気がした。

 そうして、また一口、と重華がお茶を飲んだ時だった。


「それで、あの娘に、何を言われたんだ?」


 ずっと気になっていた晧月が、ようやくそう問いかけたのは。


「あ、えっと、その……」

「何か、嫌なことを言われたのか」


 重華は驚いてはいたが、不快感があったり、傷ついたりしたようには見えなかった。

 それでも、今までの鈴麗の重華に対する行動を見ていると、晧月はどうしても一抹の不安を拭い去ることができなかった。


「そういうのでは、ないんです……ただ、その……」


 今この瞬間も、やはり何か不快なことがあったようには見えないことに、晧月は少しだけ安堵した。

 だが、同時に困った表情で、非常に言いにくそうな様子が気になった。


「なんだ、俺には聞かれたくない内容だったのか?」


 わざわざ重華に耳打ちした、ということは、そういう可能性もあるかもしれないと晧月は思った。

 だが、重華はすぐに首を振った。


「そういうわけでは、ないんです……」

「だったら、なんだ?」

「その……お、お父様に……っ」

「丞相?」


 晧月にとって予想外の人物の登場に、少し驚きはしたものの、晧月は重華の言葉の続きを待った。

 すると、重華は言い淀むように無言になった後、ようやく続きを話し始めた。


「今度、その、お父様に会うことがあったら……鈴麗の分もあわせて、その……お、おもいっきり、ひっぱたいておいてって……」

「ああ、なるほど。では、丞相をおもいっきりひっぱたくために、今度呼び出してみるか?」


 そう問えば、晧月の予想通り、首が取れてしまいそうなほどに勢いよく左右に首を振った。


(ま、できないだろうな)


 そんなことができるのなら、今頃、鈴麗の頬だって腫れあがっていたことだろう。

 だが、晧月には重華が誰かに手をあげる姿など、想像すらできなかった。


(むしろ、間違って手が当たっただけでも、謝り倒しそうだ)


 その姿なら、想像には容易く、思い浮かんだ姿に晧月はくすりと笑みを漏らした。


「でも、ちょっとだけ、気が楽になりました」

「ん?」

「その……会うつもりがなくても、会わないようにしていても、私がここで暮らしていれば、いつかお父様に会うこともあるかなって思っていたので……」


 重華はできればこの先も、ずっと後宮で暮らしていきたいと思っている。

 そうなれば、どこかで丞相である父と顔をあわせてしまうのは、避けられないことなのではないかとずっと考え、そんな日が訪れるだろうことがどこか不安だった。

 それでも、以前、晧月が許さなくていいし、文句を言ってもいいのだと教えてくれたおかげで、その不安はとても小さなものではあったけれど。

 いつも自身に優しい晧月とは違い、自身には優しい言葉すらかけてはくれなかった鈴麗までもが、文句を言ってもいいし、ひっぱたいたっていいのだと言ってくれることが、より一層重華の心を軽くしてくれたのだ。

 しかしながら、重華がそれを伝えると、自身の言葉より鈴麗の言葉の方が効果があると感じたのか、晧月は少し不満そうだった。


「ま、何事もなく終わってよかった」


 多少疲労が見て取れるものの、心身ともに、重華が傷ついた様子はない。

 晧月にとってはそれが何よりだったので、それ以上他のことは気にしないことにした。


「陛下のおかげです。陛下が近くにいてくださったから、すごく安心できました」


 最初はただただ忙しい晧月の時間を使ってしまったことを、申し訳なく思っていたけれど、それでもやはり居てくれてとても心強かったと重華は思った。

 その気持ちを素直に伝えると、今度は晧月の表情が嬉しそうなものへと変わり、それを見ているとなぜだか重華まで嬉しくなるような気がした。


「少しでも役に立てたなら何よりだ。今日は疲れただろうからゆっくり休め」

「はい」


 疲れていることは否定できなかったので、重華は素直に晧月の言葉に頷いて、この場を立ち去る晧月を見送った。






 いろいろあったけれど、久々に平穏な日々が続いている。

 それは、重華がようやくそう感じ始めた、とある日のことだった。


「皇太后陛下が……?」


 重華の目の前には、以前にも会った皇太后の侍女の姿がある。

 前回同様に深々と頭を下げているが、前回と違って今回は内密ではないらしく、春燕も雪梅も傍に控える状態で重華に用件を告げてきた。

 その内容は、ただ皇太后の元を訪れて欲しいというだけのものだった。

 それくらいなら、と重華は二つ返事で応じようと思ったが、春燕と雪梅は顔を見合わせ難色を示したため、簡単に応じてはいけない気がして口を噤んだ。


「やはり、難しいでしょうか?」


 そう問いかける皇太后の侍女は、まるで断られると予想していたかのようだった。


「陛下から、珠妃様がそういったことに応じるのは難しいと、皇太后陛下にもお話がいっているかと思いますが」


 その話は、今もまだ有効だったのだ、とこの場で驚きを露わにしたのは重華だけである。

 以前、そんな話を聞いたのは重華だってよく覚えている。

 だが輿入れをしてからもうじき1年を迎えるし、いつまでも体調不良という言い訳は通用しない気がした。

 何より、それなりに元気な姿も、もうしっかりと見られてしまっているように思えてならなかった。

 実は、重華が冷宮に行くきっかけを作った皇太后に対し、警戒心を強めた晧月が今後は自身の許可なく重華に会わないよう皇太后に告げているのだが、この場で重華だけがそんなことは知らなかったのだ。


「それは承知しております。ですが、どうしても皇太后陛下が珠妃様にお会いして話したいことがあると……」


 雪梅の遠回しな断りの言葉にめげることなく、皇太后の侍女はそれでもなんとか応じて貰えるようにと言葉を紡いだ。


(もし、私が断ってしまったら、この方がすごく困るんじゃ……)


 きっと、春燕も雪梅も、そしてこの場に居ない晧月も、この話を断ることを望んでいるのだろうと重華は思う。

 そして、それはきっと他でもない、重華のためを思ってのことなのだろう、とも。

 けれども、目の前の必死な侍女の様子を見ていると、重華は断るのは忍びないと思ってしまうのを止められなかった。


「あ、あのっ、少し、お伺いする、くらいなら……っ」


 断ろうとしてくれてる春燕と雪梅への申し訳なさから、だんだんと声は小さくなってしまい、続いただめでしょうかという問いかけは、おそらくかろうじて春燕と雪梅に届いた程度になってしまった。

 そのため、二人より少し離れている皇太后の侍女までは声は届いておらず、彼女はそれが春燕と雪梅への問いかけではなく、重華からの了承と受け取ってしまったようだ。

 すぐにでも皇太后の元へと案内すると言い出した皇太后の侍女に対し、重華は戸惑いを隠せない。


「では、わたくしも同行いたします。かまいませんよね?」


 そう発言したのは、またしても雪梅であり、その問いかけは重華ではなく皇太后の侍女へと向けられたものだった。


「もちろんです」


 雪梅の言葉に、すぐさまそう返答を返した侍女は、重華の了承が得られたためかとても安心したような様子だった。

 しかし、そんな一連の侍女の様子が何が何でも重華を連れてくるように指示されていたのではないかと想像させ、春燕と雪梅の警戒心を強めていることには、侍女も重華も気づいてはいなかった。




「あの、ごめんなさい、その……」


 相変わらず雪の積もる外は、やはり空気もひんやりと冷たい。

 そんな中、雪梅とともに、皇太后の侍女の少し後ろを歩く重華は、申し訳なさそうに雪梅に声をかけた。

 断ろうとしてくれていたのを、引き受ける方向に持っていってしまったのも申し訳なかったし、寒い中こうしてついてきてもらうことになったのも、重華は非常に申し訳なく思っていたから。


「いいんですよ。珠妃様自身で、お決めになったのですから」


 重華自身がそう決めたのなら、それに従って動くのも重華の侍女である雪梅たちの仕事なのだと、雪梅は重華を安心させるように微笑んだ。

 その姿を見て、重華はほっと息を吐く。


「あと、一緒に来てくださってありがとうございます」


 了承する意向をみせたのは重華自身であっても、やはり皇太后の元へ行くことにはいろいろと不安もあった。

 だからこそ、雪梅から同行すると言ってくれたことは、とても心強かったのである。

 またしても微笑みを見せる雪梅を見て、重華はやはりほっとする、とそう思った。

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