第9話「冷酷な王子」
「殿下がいらっしゃいます」
テオドールの声が、画廊の裏口から飛び込んできた。
朝のギャルリ・ルーエンは開廊準備の最中だった。ヴィオレッタは展示の最終確認をしていた手を止め、テオドールを見た。
「殿下、とは」
「王太子エドヴァルド・グランディア殿下だ。近衛騎士四名とセドリック・ハーヴェイを伴って、先ほどルーエンの街門を通った。駐留兵から儂のところに報告が来た」
ヴィオレッタの手が、一瞬だけ強く閉じられた。
それからゆっくりと開いた。
「……名目は何ですか」
「名誉回復金の件を直接協議したい、と事前に書簡が来ておった。昨日着いたばかりだ。早馬で五日。返事を待たずに出発したということだな」
テオドールの声には苛立ちが混じっていた。
「面会を断ることはできますか」
テオドールは首を横に振った。
「王太子殿下の面会要求を、平民の商人が拒否すれば、それだけで不敬と取られかねん。お前さんは元公爵令嬢だが、今の立場はギルド登録の商人だ。形式上は拒否できん」
わかっていた。
身分制度とはそういうものだ。王太子の要求は、断れない重さを持つ。
「ただし」
テオドールが目を細めた。
「面会の場所を指定する権利は、こちらにある」
ヴィオレッタは画廊の中を見回した。
壁には自分の風景画が並んでいる。街の職人たちの作品も飾られている。ここはギルドに登録された商業空間だ。
「ここで会います」
テオドールは頷いた。
「ギャルリ・ルーエン。ギルド管轄の商業空間。商業法上の保護が及ぶ場所だ。悪くない」
ルイスがアトリエから出てきた。テオドールとヴィオレッタの表情を見て、状況を察したようだった。
「王太子が来るのですか」
「ええ」
ルイスの目が一瞬だけ細くなり、すぐに元に戻った。
「私も同席します。画廊の管理者として」
ヴィオレッタは頷いた。
昼過ぎ、エドヴァルド・グランディアが画廊の前に現れた。
近衛騎士四名が馬車の周囲を固めている。セドリックが先に降り、入口の確認をした後、王太子が降り立った。
エドヴァルドは画廊の外観を一瞥した。
元は倉庫だった建物。港の近くの、飾り気のない石造り。王都の宮殿とは比べるべくもない。
「ここか」
短い一言に、隠しきれない侮蔑が滲んでいた。
セドリックが扉を開けた。
エドヴァルドが画廊に足を踏み入れた瞬間、足が止まった。
壁一面の絵。
辺境の丘、港の夕暮れ、朝の市場、秋の草原。ヴィオレッタの風景画が、画廊の白い壁に整然と並んでいる。自然光が天井の窓から降り注ぎ、絵の中の光と呼応していた。
エドヴァルドの視線が、一枚の絵の上で止まった。
丘の上から見たルーエンの街並み。柔らかな拡散光が建物の輪郭を溶かし、遠景が青みを帯びて霞んでいる。
「……お前にこんな才能があったとは知らなかった」
声が漏れた。
ヴィオレッタは画廊の中央に立ち、背筋を伸ばしていた。
「殿下が興味を持たれなかっただけです」
静かな声だった。敬語は崩さない。けれど卑屈さはなかった。
エドヴァルドの眉が微かに動いた。
「……本題に入る。名誉回復金の件だ」
エドヴァルドは画廊の中央まで歩き、ヴィオレッタの正面に立った。近衛騎士二名が入口に残り、セドリックが王太子の斜め後ろに控えた。
「枢密院の決定は承知している。だが、あの断罪には事情があった。誤解に基づく部分もあった。俺は——和解を求めに来た」
「和解、ですか」
「そうだ。断罪を撤回するとは言えん。公的な発言を撤回するには手続きがいる。だが、誤解があったということであれば——」
「殿下」
ヴィオレッタが静かに遮った。
「誤解ではありません」
エドヴァルドの目が鋭くなった。
「殿下は私を断罪なさいました。公の場で、多くの人の前で。それは事実です。誤解という言葉で包み直すことはできません」
沈黙が落ちた。
画廊の中に、外の波の音がかすかに聞こえた。
ヴィオレッタの声には怒りがなかった。恨みもなかった。ただ事実を、事実として述べていた。
「受け入れも否定もいたしません。あの夜のことは、起きたことです。名誉回復金は枢密院が手続きの不備を認めた結果であり、私が求めたものではありません」
エドヴァルドの顎が強張った。
「では、何を望む」
「何も。私は自分の絵を描き、この画廊を営み、この街で暮らしています。それだけです」
「それだけだと——」
エドヴァルドの声が大きくなった。
感情が制御を離れかけていた。一年前に捨てた女が、自分の手の届かない場所で、自分の知らない才能で、自分が与えたのではない居場所を築いている。その事実が、彼の正義を根底から揺さぶっていた。
「たかが辺境の画材屋の女が、俺に説教をするのか」
その瞬間、ルイスが一歩前に出た。
「恐れ入りますが」
穏やかな声だった。けれど、一歩の重みが空気を変えた。
「こちらはギルド管轄の商業空間です。妻の事業の場で、商取引に関わらない私的なご要求はお控えいただけますか」
妻。
その一言が、画廊の空気を凍らせた。
エドヴァルドがルイスを見た。
「……何者だ」
「ルイス・ヴェルナーと申します。ギャルリ・ルーエンの共同管理者であり、ヴィオレッタ・デュランテの夫です。商業ギルドの登録に基づき、この商業空間における不当な取引介入に対して異議を申し立てる権利がございます」
エドヴァルドの顔が紅潮した。
「たかが商人が、俺に——」
「殿下」
テオドールの声が割って入った。
いつの間にか、画廊の入口にテオドールが立っていた。その後ろには、数人のギルドの商人と、街の人々の姿があった。
王太子の来訪は街中の話題になっていた。画廊の周囲には人が集まり始めていた。
「殿下、ここはギルド管轄の商業空間でございます。商業法上の手続きを経ない私的なご要求は、ギルドとしてもお受けいたしかねます」
テオドールは深く頭を下げながら、しかし言葉は一歩も譲らなかった。
エドヴァルドは画廊の入口を見た。
人がいる。
街の人々が、画廊の中の王太子を見ている。
好奇の目。警戒の目。そして——あの版画を知っている目。
冷たく手を振り払う王太子。
あの絵の中の男と、今ここにいる自分が、彼らの中で重なっている。
セドリックが王太子の袖に触れた。
「殿下、ここはお引きください」
声が小さく震えていた。二度目のルーエンでの失態。セドリックにも、この場の空気は読めていた。
エドヴァルドは何か言いかけた。
言葉にならなかった。
拳を握り、踵を返した。
画廊の入口に向かって歩く。近衛騎士が道を開けた。
入口の脇の壁に、一枚の版画が飾られていた。
「落陽の令嬢」。
エドヴァルドの足が止まった。
落陽の光を浴びる女。冷たく手を振り払う王太子。
一年前のあの夜が、銅版画の中に永遠に刻まれている。
セドリックが「殿下」と促した。
エドヴァルドは何も言わなかった。
版画から目を逸らし、画廊を出て、馬車に乗った。
馬車の扉が閉まる音が、港の風に溶けて消えた。
画廊に静けさが戻った。
テオドールが入口の商人たちに「もう終わりだ、散れ散れ」と手を振り、人々はゆっくりと去っていった。
ヴィオレッタは画廊の中央に立ったままだった。
手は震えていなかった。
過去と正面から向き合った。恨みでも赦しでもなく、事実を事実として受け止めた。それだけのことだった。
それだけのことが、これほど静かな疲れを残すとは思わなかった。
「……大丈夫ですか」
ルイスの声が、すぐ隣から聞こえた。
「ええ。大丈夫です」
ヴィオレッタは小さく頷いた。
ルイスは先ほど、公の場で自分を「妻」と呼んだ。
王太子の前で。街の人々の前で。
契約の言葉。事業上の関係を示すための呼称。
それだけのはずだった。
けれど、あの一瞬、ルイスの声には「契約」だけでは説明できない力があった。
守ろうとしていた。
事業を、ではなく。商業空間を、ではなく。
私を。
その感覚が胸の奥に残っている。名前をつけるには、まだ早い。けれど、確かにそこにある。
ヴィオレッタは壁に並んだ自分の絵を見た。
この場所は、自分で作った。自分の絵で、自分の手で。
そして今日、この場所が自分を守った。
窓から午後の光が差し込んでいる。画廊の白い壁が、その光を静かに受け止めていた。




