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第8話「契約の名の下に」

ルイスは枢密院の封書を読み終え、静かにカウンターに戻した。


ヴィオレッタの画材屋。朝の光が窓から差し込み、顔料の瓶を琥珀色に照らしている。


名誉回復金の通知が届いてから二日が経っていた。


ヴィオレッタは封書の内容をテオドールとルイスに共有していた。枢密院が婚約破棄の手続きに不備を認めたこと。デュランテ公爵家への名誉回復金の支払いが決定したこと。


テオドールは「当然の話だ」と短く言った。


ルイスは何も言わなかった。ただ、封書を丁寧に読んだ。


そして今朝、ルイスは画材屋を訪れ、ヴィオレッタに向き合っていた。


「一つ、ご相談があります」


ルイスの声はいつも通り穏やかだった。けれど、どこか慎重さが混じっている。


「名誉回復金の決定により、デュランテ殿の社会的名誉は部分的に回復しました。しかし、それは同時に別の問題を浮上させます」


「別の問題」


「公爵家の令嬢が、辺境で独立した商人として画廊を運営している。名誉が回復したことで、その状態の法的・社会的な不安定さがかえって目立つようになります」


ヴィオレッタは黙って聞いていた。


言われてみれば、その通りだった。名誉回復金は「断罪が不当だった」ことを認めるものだが、それは同時に「公爵令嬢としての地位が本来毀損されるべきではなかった」ことを意味する。


なのに当の公爵令嬢は辺境で画材屋をやっている。


社交界から見れば、奇妙な状況だ。


「画廊の事業を安定させるには、デュランテ殿個人の社会的立場を固める必要があります」


ルイスは一度言葉を切った。


それから、まっすぐにヴィオレッタを見た。


「契約結婚を提案させてください」


沈黙が落ちた。


ヴィオレッタの手が、カウンターの上で微かに動いた。


「隣国の商会代表と辺境画廊の主人が婚姻関係にあれば、国際取引の信用が格段に上がります。画廊の法的地位も強化される。事業上の合理性として、筋の通った判断です」


ルイスの声は淡々としていた。


商談の時と同じ調子。論理的で、感情を排した提案。


けれど——ヴィオレッタは気づいていた。


ルイスの手が、膝の上でわずかに握られていることに。


「……事業のため、ですか」


「はい」


「それ以外の理由は」


「ありません」


即答だった。


あまりに早い即答だった。


ヴィオレッタは数秒、ルイスの目を見た。


嘘をついている、とは思わなかった。けれど、全てを言っている、とも思わなかった。


自分はどうだろう。


この提案を受け入れる理由は、事業の合理性だけだろうか。


夜のアトリエで肩にかけられた外套の温もり。好みを完璧に把握した六色の顔料。「この光だ」と震えた声。


それらを全部、「事業上の関係」で説明できるだろうか。


できる、とヴィオレッタは自分に言い聞かせた。


できなければならない。


「……わかりました。お受けします」


ルイスの肩が、ほんの一瞬だけ下がった。


緊張が解けた動き。本人は気づいていないだろう。


「ありがとうございます。ギルドでの手続きを進めましょう」


その夜、宿屋の二階。


ルイスが契約結婚の成立をフェリクスに伝えた時、従者の顔から表情が消えた。


「……本気ですか」


フェリクスの声は低かった。


「事業上の判断だ」


「事業上の判断で、正体を隠したまま婚姻するんですか」


フェリクスは壁にもたれかかり、腕を組んだ。


「発覚すれば婚姻無効です。ルイス・ヴェルナーという人間は実在しますが、あなたはルイス・ヴァルトシュタインだ。リヴァーチェ公国の第二王子が偽名で婚姻したとなれば、外交問題になる」


ルイスは答えなかった。


「それだけじゃない。彼女にまで被害が及ぶ。二度目の婚姻問題として世間の注目を集める。一度は王太子に断罪され、次は偽名の外国人に騙された——そう言われますよ」


フェリクスの言葉は正確だった。


ルイスにはわかっていた。全て、わかっていた。


「美術商ルイス・ヴェルナーとして結婚する。王子としてではない」


「詭弁です」


「……そうかもしれない」


ルイスは窓の外に目を向けた。


ルーエンの夜景。画材屋の方角に、小さな明かりが灯っている。彼女はまだ描いているのだろう。


「それでも、あの人の隣にいる手段を、手放すことができない」


フェリクスは主人の横顔を見た。


幼い頃から知っている。一枚の絵の断片だけを握りしめていた孤児院の夜から。


あの目だ。


あの絵の話をする時と同じ目。


言葉が減り、視線だけが遠くなる。


「……自分は、あなたの安全を守るのが仕事です」


フェリクスは静かに言った。


「それ以外のことには口を出しません。ただし——」


一度だけ、主人の目を正面から見た。


「いつか必ず、話さなければならない日が来ます。その時に、彼女がどんな顔をするか。それだけは、覚悟しておいてください」


ルイスは答えなかった。


フェリクスは部屋を出た。


一人になった部屋で、ルイスは胸元から布包みを取り出した。角の擦り切れた小さな油彩画の断片。十五年間、ずっと持ち歩いてきた光。


その光と同じものを描く人が、この街にいる。


その人の隣に、偽りの名前で立とうとしている。


ルイスは絵を布に包み直し、胸元にしまった。


契約結婚の手続きは、三日後に行われた。


場所は商業ギルドの会館。テオドールが立会人を務め、事業契約と婚姻届が同時に処理された。


書類は簡素だった。


ルイス・ヴェルナーとヴィオレッタ・デュランテ。ギルド登録名に基づく婚姻届。


テオドールは書類に目を通し、二人の顔を交互に見た。


「まあ、悪い話ではないな。隣国の商会との正式な結びつきは、画廊にとっても街にとっても利がある」


実利的な言葉。


けれどテオドールは、書類を二人に渡す時に小さく付け加えた。


「お前さんたち、商売仲間としては上出来だ。——まあ、それだけかどうかは、儂の知ったことじゃないがな」


ヴィオレッタは何も言わなかった。ルイスも何も言わなかった。


街の人々は、温かく祝福してくれた。


向かいの金物屋のグスタフは「ようやく店に男手が入るか」と笑い、仕立屋のマルタは「お祝いの刺繍を縫ってあげるわ」と申し出た。陶器職人のヘルマンは祝いの杯を持ってきた。


ヴィオレッタはその一つ一つに礼を言いながら、不思議な感覚の中にいた。


祝福されている。


形式上の、事業上の、契約の結婚なのに。


この街の人たちは、本当の祝い事のように喜んでくれている。


婚姻の後、ルイスは画材屋の二階に居室を構えた。


ただし、ヴィオレッタの部屋とは別だった。


「あくまで事業上の契約です。生活空間は分けましょう」


ルイスが淡々と言い、ヴィオレッタも頷いた。


形式上の夫婦。


屋根は同じ。けれど、壁一枚を挟んで、別々の部屋。


それが二人の取り決めだった。


けれど——同じ屋根の下にいるということは、朝の空気を共有するということだった。


朝、階段を降りると、ルイスがすでに湯を沸かしていることがあった。


「おはようございます。茶を淹れましたが、いかがですか」


「……いただきます」


それだけの会話。


けれど、一人で迎える朝とは、何かが違った。


台所にもう一つ分の茶器があること。廊下にもう一人分の靴があること。夜、壁の向こうからかすかに書類をめくる音が聞こえること。


「夫婦」という言葉の重みが、日常の些細な場面に染み込んでくる。


契約のはずだった。


形式が先にあり、感情は後からついてくるものではないはずだった。


なのに——感情は、形式の隙間から、静かに、確実に、流れ込んでこようとしていた。


名誉回復金の決定の知らせは、王都にも届いていた。


ルーエンからの商人の伝聞によれば、王太子エドヴァルドは通知を受け取った日、執務室の扉を閉めたまま半日出てこなかったという。


そしてその翌日、エドヴァルドは側近に宣言した。


「ヴィオレッタに直接会って話をつける」


セドリックが辺境行きの準備を始めた。


その知らせが早馬でルーエンに届くのは、まだ先のことだった。

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