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第7話「夜のアトリエ」

秋の終わりの風が、ルーエンの路地を吹き抜けていた。


港の方角から潮の匂いが届き、石畳の上に落ちた枯葉がかさりと音を立てる。日が短くなり、夕方五時にはもうランプが必要になった。


画廊の開設準備は佳境に入っていた。


倉庫の改装はほぼ終わり、壁の漆喰も乾いた。天井近くに新設された窓から、午前中は柔らかな自然光が差し込む。午後からはランプの光で作品を照らす配置を、ヴィオレッタが自ら設計した。


残る仕事は、開設記念の大作だった。


ヴィオレッタは画材屋の奥のアトリエにこもり、大きなキャンバスに向き合っていた。


描いているのは、ルーエン郊外の丘から見た朝日の風景。


夜明け前の青灰色の空が、地平線の際からゆっくりと橙に染まっていく、あの一瞬を捉えようとしていた。何度も丘に通い、何度もスケッチを重ねた。光の移り変わりを記憶に焼きつけ、アトリエに戻ってキャンバスに再現する。


この絵を、画廊の中央に飾る。


それが、画家ヴィオレッタ・デュランテとしての最初の宣言になる。


ルイスは画廊の事業計画を詰めるために、毎日のようにアトリエを訪れていた。


リヴァーチェの顧客への案内状の文面、版画複製の権利に関する取り決め、価格帯の設定。実務的な書類仕事は山のようにあった。


最初の数日は、ルイスはアトリエの隅の小さな机で書類を広げ、ヴィオレッタは反対側のイーゼルの前に立ち、それぞれの仕事をしていた。


会話はほとんどなかった。


必要な確認事項がある時だけ、短い言葉を交わす。


「ヴェルナーさん、画集の刷り部数は決まりましたか」


「初版は二百部で進めています。売れ行き次第で増刷の判断を」


「わかりました」


それだけ。


けれど、不思議なことに、その沈黙が苦ではなかった。


ヴィオレッタは筆を動かしながら、自分の集中力がいつもより安定していることに気づいていた。


前世の頃、作業中に誰かが同じ部屋にいると、気になって手が止まった。クライアントの視線、編集者の咳払い、そういう些細な音が筆を鈍らせた。


ルイスにはそれがない。


彼は絵を覗き込まない。助言もしない。ただ静かに書類に向かい、時折ペンを走らせる音だけがアトリエに響く。


その音が、むしろ心地よかった。


一人で描いている時とは違う、けれど邪魔されていない感覚。誰かがそばにいるのに、筆が自由に動く。


ヴィオレッタはその心地よさの意味を考えないことにした。


考えると、筆が止まりそうだった。


ルイスもまた、アトリエに通い続ける理由を「仕事があるから」と自分に言い聞かせていた。


事実、仕事はあった。書類は毎日増える。画廊の開設に必要な実務は、一人で処理するには多すぎるほどだった。


けれど、書類仕事ならギルド会館でも宿でもできる。


わざわざアトリエに来る必要があるのは——彼女が絵を描いている姿を見ていたいからだと、ルイスは認めなかった。


筆を握る指先。パレットの上で色を混ぜる手つき。キャンバスに最初の一筆を置く時の、微かな息を呑む音。


そのすべてが、あの光を生み出す過程だった。


十五年間探し続けた光が、目の前で生まれていく。


仕事の手が止まっていることに気づいて、ルイスは視線を書類に戻した。


ある夜のことだった。


画廊の開設が五日後に迫り、ヴィオレッタは大作の仕上げに追い込まれていた。


朝日の色がまだ足りない。地平線の際の、橙と黄金の境目にある、名前のつけられない色。ナポリイエローをさらに薄く溶いて、その上からカドミウムイエローのごく薄い層を——


気づくと、夜が深くなっていた。


ランプの芯が短くなり、炎が弱く揺れている。


ルイスはまだアトリエにいた。書類を片づけ終えた後も、帰るタイミングを逃したように椅子に座っていた。


ヴィオレッタの筆の音が不規則になったのは、日付が変わる頃だった。


パレットの上で筆が滑り、絵具が手の甲についた。それを拭おうとした手が、そのまま止まった。


椅子の背にもたれかかるように、ヴィオレッタは眠っていた。


筆を握ったまま。パレットを膝の上に載せたまま。


ルイスは立ち上がった。


足音を殺して近づき、パレットをそっと膝から外した。筆を指の間から抜き取り、布で絵具を拭いた。


それから、自分の外套を脱いで、彼女の肩にかけた。


ブランケットは部屋の隅にあったが、取りに行けば足音で起こしてしまう。外套のほうが近かった。


かけた瞬間、ヴィオレッタが微かに身じろぎした。


ルイスは息を止めた。


起きなかった。


寝顔を見るつもりはなかった。けれど、目が逸らせなかった。


ランプの弱い光が横顔を照らしている。


絵具のついた指先。目の下の薄い影。何日も没頭して描き続けた痕跡。


この人は、命を削るように描く。


その一枚のために、眠ることさえ忘れて。


ルイスは一歩下がった。


それ以上近づいてはいけないと、理性が告げていた。


静かにアトリエを出て、扉をそっと閉めた。


翌朝、ヴィオレッタは肩にかかった外套で目を覚ました。


自分のものではない。


仕立てのいい、濃紺の外套。かすかに、知っている匂いがした。書類の紙とインクと、それからほんの少しだけ、異国の香辛料の匂い。


ルイスのものだと、すぐにわかった。


ヴィオレッタは外套を畳みながら、胸の奥に広がる感情を押し込めようとした。


契約相手に、ここまでさせてしまっている。


仕事の範囲を超えている。それは明らかだった。


距離を取らなければ。


そう決めた。


昼前にルイスが画材屋を訪れた時、ヴィオレッタは外套を差し出した。


「昨夜は、すみませんでした。ご迷惑をおかけしました」


「いえ。お気になさらず」


ルイスは外套を受け取り、淡々と答えた。


「仕事の範囲です。取引先の画家が倒れては、商会としても困りますので」


仕事の範囲。


その言葉を聞いて、ヴィオレッタは少し安堵した。そして、安堵したことに、小さな痛みを感じた。


「……今後は気をつけます。無理をしすぎないように」


「そうしてください」


それだけの会話だった。


二人とも、それ以上は踏み込まなかった。


二人とも、嘘をついていた。


その日の夕方、ヴィオレッタは大作の最後の仕上げに入った。


朝日の風景。


地平線から立ち上る光が、丘の草を金色に染め、遠くの街並みを霞ませていく。


最後の一筆を置いた時、背後に気配があることに気づいた。


ルイスだった。


書類仕事を終えたのか、イーゼルの斜め後ろに立っていた。いつもの、光を遮らない位置に。


完成間近の絵を見つめるルイスの顔から、表情が消えた。


長い沈黙が落ちた。


「……この光だ」


声が震えていた。


ヴィオレッタには、その言葉の意味がわからなかった。


けれど、声の震えだけは、はっきりと聞こえた。


「……どうかしましたか、ヴェルナーさん」


ルイスは答えなかった。


しばらくして、静かに首を横に振った。


「いえ。……素晴らしい絵です」


それだけ言って、視線を逸らした。


ヴィオレッタは筆を置いた。


彼の声の震えが、耳の奥に残っている。


「この光だ」という言葉の意味は、わからない。けれど、あの一瞬、ルイスの目に浮かんでいたもの——それは商人の目でも、鑑賞者の目でもなかった。


もっと深い、もっと切実な何かだった。


その正体を、ヴィオレッタはまだ知らない。


翌朝、画材屋に公式の封書が届いた。


封蝋に、枢密院の紋章が押されていた。


ヴィオレッタは封を切り、文面を読んだ。


読み終えた手が、かすかに震えた。


枢密院は、王太子エドヴァルドによる婚約破棄の手続きに不備があったことを正式に認めた。


それに伴い、デュランテ公爵家に対する名誉回復金の支払いが決定された。


金額と手続きの詳細は、別途書面で通知されるとのことだった。


ヴィオレッタはゆっくりと封書をカウンターに置いた。


名誉回復金。


あの断罪が、公式に「不当」だったと認められた。


感情は、すぐには来なかった。


ただ、窓の外のルーエンの朝の光が、いつもより少しだけ明るく見えた。

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