第6話「画廊計画」
一年前、この街に来た日のことを、ヴィオレッタは時々思い出す。
馬車を降りた時、最初に見えたのは灰色の石壁と、潮風に錆びた看板だった。王都の華やかさとは何もかもが違う街。けれど空気は澄んでいて、光が真っ直ぐに届いた。
ここなら、描ける。
そう思った直感は、正しかった。
セドリックが退去してから三日が経っていた。
ギルドの記録にはセドリック・ハーヴェイの名と、取引拒否の決定が正式に記載された。テオドールの仕事は早い。
画材屋の日常は戻りつつあった。野次馬の数もやや落ち着き、常連客が気兼ねなく出入りできる空気が少しずつ回復していた。
その日の夕方、テオドールがギルド会館ではなく、画材屋に直接やってきた。
「ヴィオレッタ、少し座れ」
テオドールはカウンターの前の椅子に腰を下ろし、懐から折り畳んだ紙を取り出した。
「先日の騒ぎで、儂も色々と考えた」
「……はい」
「お前さんの絵は守れた。今回はな。だが、次も同じ手が通じるとは限らん。画材屋の中に絵を置いているだけでは、守る側がいつも受け⾝だ」
テオドールは紙を広げた。
簡単な見取り図だった。港の近くの区画に、四角い建物の輪郭が描かれている。
「この街に画廊を作らんか」
ヴィオレッタは見取り図に目を落とした。
「画廊……ですか」
「お前さんの風景画を軸に、ルーエンを芸術の街として売り出す。観光客も商人も呼べる。外国の美術商との取引拠点にもなる」
テオドールの目は、商人のそれだった。
「街の発展のためでもあるわけですね」
「当然だ。儂は慈善家じゃない」
テオドールは髭の奥で笑った。
「だが、お前さんにとっても悪い話ではないはずだ。自分の絵を、自分の場所で、自分の条件で売れる。画材屋の壁に飾るのとは訳が違う」
ヴィオレッタは黙って見取り図を見ていた。
画廊。
自分の絵を並べる場所。
それは画材屋の片隅に風景画を飾ることとは、まるで意味が違う。
画家として、正面から世に出るということだ。
「……少し、考えさせてください」
「ああ。急かしはせん」
翌日、ルイスが画材屋を訪れた時、ヴィオレッタはテオドールの提案を伝えた。
ルイスは見取り図を丁寧に眺め、しばらく考えてから口を開いた。
「画廊であれば、隣国との交易拠点としても機能します。リヴァーチェから買い付けに来る商人の受け入れ先にもなる。事業として筋が通っています」
「ヴェルナーさんも賛成ですか」
「ええ。むしろ、こちらからお願いしたいくらいです」
ルイスの声は穏やかだったが、目は真剣だった。
「資金面でも協力させてください。ヴェルナー商会として、画廊の設立に出資する用意があります」
ヴィオレッタは首を横に振った。
「ありがたいお申し出ですが、それは受けられません」
ルイスがわずかに目を見開いた。
「対等な事業でなければ意味がありません。出資を受ければ、私はヴェルナー商会の下請けになります。それでは画廊を作る意味がない」
言葉にしてみると、自分の中の譲れない線が思ったよりはっきりしていた。
ルイスは数秒黙り、それから小さく頷いた。
「……おっしゃる通りです。失礼しました」
その素直さに、少し拍子抜けした。
「では、別の形を考えましょう」
ルイスは見取り図の余白に、指で線を引くようにしながら言った。
「ヴェルナー商会から画廊への出資ではなく、買い付け契約の前払い金という形はいかがですか。商会が今後一年間に買い付ける風景画の代金を、先にまとめてお支払いする。その資金を画廊の改装費に充てる。あくまで対等な取引の前払いであり、出資ではありません」
ヴィオレッタは考えた。
前払い金であれば、絵を納品することで精算される。借りではなく、取引だ。
「……数量と価格の条件次第です」
「もちろんです。ギルドの立会いのもとで、細かく詰めましょう」
三者の交渉は、ギルド会館で三日にわたって行われた。
テオドールが提供するのは、港近くの空き倉庫。かつて穀物の集積所だった建物で、天井が高く、光が入りやすい構造だった。
改装費用は、ルイスの商会からの買い付け前払い金で賄う。年間二十四点の風景画を、一点あたりの単価を定めて前払い。ヴィオレッタは一年間かけて納品する。
「ただし」
ヴィオレッタは交渉の席で条件を付けた。
「私の絵だけを並べる画廊にはしたくありません」
テオドールとルイスが同時に顔を上げた。
「この街の職人たちの作品も並べたい。陶器、木彫り、織物——ルーエンには腕のいい職人がいます。画廊を私一人のものにするのではなく、街全体の力を見せる場にしたいんです」
沈黙が落ちた。
テオドールが先に口を開いた。
「……お前さん、商売が下手だな」
「え」
「自分の絵だけ並べたほうが利益率は高い。なぜわざわざ他人の作品を入れる」
「利益率の問題ではありません。この街に受け入れてもらったから、今の私がいます。画廊が私だけのものなら、それはただの——」
言葉を探した。
「——額縁の中に、自分をもう一度閉じ込めるだけです」
テオドールは髭の奥で目を細めた。
ルイスが静かに言った。
「私はこの方針を全面的に支持します。むしろ、隣国の顧客にとっても魅力的です。一人の画家の作品だけでなく、辺境の街の文化そのものを紹介できる」
テオドールは腕を組み、しばらく天井を見上げていた。
それから、短く笑った。
「……まあ、悪くない。職人たちにも声をかけてみるか」
画廊の名前は「ギャルリ・ルーエン」に決まった。
テオドールが職人たちに声をかけると、予想以上の反応があった。陶器職人のヘルマン、木彫り師のリーゼ、織物工房の親方——次々と出品の意思を示してくれた。
倉庫の改装が始まった。
壁の補修、床の張り替え、採光のための窓の拡張。ヴィオレッタは改装の合間にも筆を握り、連作の新作を進めた。
忙しい日々だった。
けれど、不思議と疲れは少なかった。
画廊の開設準備が形になり始めた頃のことだった。
その日はルイスとの打ち合わせが長引き、夕方近くまでギルド会館で書類を確認していた。
画材屋に戻ると、カウンターの上に小さな木箱が置かれていた。
蓋に短い手紙が添えられている。
「画廊の開設祝いに。事業の経費として計上いたします。——ルイス・ヴェルナー」
木箱を開けた。
顔料だった。
六色の特注顔料が、小さな硝子瓶に入って並んでいる。
ヴィオレッタは息を呑んだ。
ウルトラマリンの深い青。カドミウムイエローの鮮烈な黄。テールヴェルトの渋い緑。バーントシエンナの温かい茶。シルバーホワイトの柔らかな白。そして——ナポリイエロー。
ヴィオレッタが下地に使う、あの淡い黄色。
六色すべてが、ヴィオレッタの絵に頻繁に使われる色だった。
しかもこの品質。辺境では手に入らない純度の顔料ばかりだ。リヴァーチェの専門工房でなければ作れない精製品。
事業の経費。
そう書いてある。
けれど——事業の経費で、ここまで正確に画家の好みを把握している人間がいるだろうか。
ヴィオレッタはナポリイエローの瓶を手に取った。
光に透かすと、淡い黄金色が硝子の中で揺れた。
あの人は、私の絵を見ている。
私がどの色を多く使うか。どの色を下地に敷くか。どの色を混ぜてあの光を作るか。
全部、見ている。
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
それを「動揺」と呼ぶのは正確ではなかった。もっと温かくて、もっと厄介な何かだった。
ヴィオレッタは瓶を木箱に戻し、蓋を閉じた。
「……経費、ね」
独り言は、誰にも聞かれなかった。
窓の外では、ルーエンの夕焼けが港の水面を橙色に染めていた。
画廊の噂は、少しずつ街の外にも広がり始めていた。辺境に追いやられた元令嬢が、芸術の街を作ろうとしている——そんな話が、商人たちの口を通じて、王都の方角へと流れていく。
ヴィオレッタはまだ、それを知らない。
今はただ、木箱の中の六色の顔料と、明日の絵のことだけを考えていた。




