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第5話「筆の対話」

この空の青は、どう混ぜれば出せるだろう。


ヴィオレッタはイーゼルの前に立ち、パレットの上で顔料を練りながら考えていた。


ルイスとの仮契約が始まって十日が経つ。


彼は二日に一度のペースで画材屋を訪れ、壁に飾られた風景画を丁寧に品定めしていった。時には一時間近く一枚の絵の前に立ち、ヴィオレッタが声をかけるまで動かないこともあった。


今日は新作を描いている最中だった。


ルーエン郊外の丘陵地帯。秋の午後の、傾きかけた日差しが草原を琥珀色に染める瞬間を捉えようとしている。


店の鈴が鳴った。


「おはようございます」


ルイスの声だった。 振り返ると、いつもの穏やかな表情で立っている。


「おはようございます、ヴェルナーさん。今日は少し早いですね」


「港の荷揚げが朝のうちに終わったものですから。——制作中でしたか」


「ええ。見ていただいても構いませんよ」


ルイスはイーゼルの斜め後ろに立った。 邪魔にならない距離。光を遮らない位置。


画家の制作を見慣れた人間の立ち位置だった。


ヴィオレッタは筆を動かしながら、少し驚いていた。 絵を描いているところを他人に見せるのは、本来は苦手だった。前世でもクライアントが隣に座って作業を見ていると、手が強張った。


けれどルイスがいると、不思議と筆が止まらない。


彼は黙って見ている。 口を挟まない。 ただ、絵の変化を一筆ごとに追っている。


その視線に、品定めの目つきはなかった。 商人が商品を値踏みする目ではなく、絵そのものを見ている目だった。


「この空の色——群青に白を混ぜるだけでは、この透明感は出ませんね」


不意にルイスが言った。


ヴィオレッタの手が止まった。


「……そうなんです。下地にナポリイエローを薄く敷いて、その上から群青を重ねています。黄色の層が透けることで、空に奥行きが生まれるんです」


言ってから気づいた。 技法の話を、こんなに自然に口にしたのは久しぶりだった。


「重層の効果ですか。リヴァーチェの画家たちは、空の青は一層で塗り潰すのが主流です。この方法は見たことがありません」


「この世界では——いえ、この地方ではあまり使われない技法かもしれません」


危うく「この世界では」と言いかけた。 ルイスは気づかなかったようだった。


「連作にされてはどうですか」


ルイスが提案した。


「辺境の風景を、季節ごとに描いた連作。一枚ずつバラで売るより、連作として画集にまとめれば、隣国で出版することもできます」


ヴィオレッタは筆を置いた。


「画集……」


「リヴァーチェでは活版印刷が進んでいます。銅版画の複製技術も精度が上がっている。連作の画集であれば、まとまった部数を刷ることができます」


テオドールに話を通す必要がある。 けれど、画家としての心が先に反応した。


連作。 辺境の四季。 春の丘、夏の港、秋の草原、冬の石畳。


頭の中で構図が次々と浮かんだ。


「……面白いですね」


声に、自分でも驚くほどの熱が混じった。


テオドールは乗り気だった。


「画集か。悪くない。ルーエンの名前が隣国に広まるなら、街としても歓迎だ」


ギルド会館でルイスとテオドールとヴィオレッタの三人が向き合い、事業の方向性を話し合った。


ヴィオレッタは連作の制作に没頭することを決めた。 ルイスは買い付けと出版の実務を担う。 テオドールはギルドの窓口として取引の保証に入る。


役割が明確になり、それぞれが動き始めた。


数日後の午後。


ヴィオレッタが店の奥のアトリエで新作に取り組んでいると、店の鈴が鳴った。


客かと思い、手を拭いて表に出た。


カウンターの前に、見覚えのない男が立っていた。


三十代半ば。仕立てのいい外套。 背筋の伸ばし方に、貴族の教育を受けた人間の所作が見えた。


その後ろに、もう一人。 年若い従者のような男が、扉の横に控えている。


「いらっしゃいませ。何をお探しですか」


ヴィオレッタは平静に声をかけた。


男は帽子を取らなかった。


「ヴィオレッタ・デュランテ殿ですね」


声に、王都の訛りがあった。


「私はセドリック・ハーヴェイ。ある方の代理として参りました」


セドリック・ハーヴェイ。


その名前を、ヴィオレッタは知っていた。 断罪の夜、王太子の横に立っていた侍従官。


表情を変えなかった。 一年間、画材屋の店主として接客を続けてきた顔で、静かに相手を見た。


「ご用件をお聞かせください」


「単刀直入に申し上げる。『落陽の令嬢』の版画、およびこの店で販売している風景画の全点買い取りを希望します」


風景画も。


版画だけではない。 ヴィオレッタの絵そのものを市場から消そうとしている。


「お断りします」


ヴィオレッタは即答した。


セドリックの目が細くなった。


「理由を」


「私の絵の売却先を決める権利は、私にあります。全点買い取りには応じません」


「デュランテ殿。これは殿下の——」


セドリックが一歩踏み出した。


その瞬間、店の鈴が再び鳴った。


「失礼。商談中でしたか」


ルイスだった。


いつもの穏やかな声。 けれど、扉をくぐった瞬間に店内の空気を読み取ったのか、その足取りには一切の迷いがなかった。


ルイスはカウンターの横に立ち、セドリックに向き合った。


「ルイス・ヴェルナーと申します。ヴェルナー商会の美術品買い付け担当として、この店と仮契約を結んでおります。お話を途中から失礼ながら拝聴しましたが——全点買い取りのご要望には、いくつか確認すべき点があるかと」


セドリックがルイスを見た。 外国の商人。予定外の人間。


「これは当方とデュランテ殿の間の話だ。部外者が口を挟む場ではない」


「仮契約により、この店の風景画の一部に対して当商会は優先買い付け権を持っています。全点買い取りは当方の契約にも影響しますので、部外者ではございません」


ルイスの声は丁寧だった。 しかし一歩も引かなかった。


「加えまして」


ルイスは続けた。


「この店は商業ギルドに登録された事業所です。ギルド管轄の商業空間において、ギルドを通さない一方的な取引要求は、商業法上の根拠を欠きます。ご要望があればギルドの仲裁手続きを通じてお申し出いただくのが筋かと存じます」


セドリックの顔が紅潮した。


「殿下の意向に逆らうのか」


声が荒くなった。


ルイスは表情を変えなかった。


「どなたの意向であれ、商業法上の手続きは同じです」


沈黙が落ちた。


店の奥から、テオドールの声が聞こえた。


「儂もいるぞ」


いつの間にか、裏口からテオドールが入ってきていた。 商業ギルドの長老が、腕を組んでセドリックを見ていた。


「ギルド長として申し上げる。この事業所はギルドの管轄下にある。ギルドの仲裁手続きを経ない取引強要は認められん」


セドリックは三人の顔を順に見た。


店主。外国の美術商。自治都市長兼ギルド長。


分が悪いことは、彼にもわかったようだった。


「……覚えておくことだ」


低い声で言い捨てて、セドリックは従者を伴い店を出た。


扉が閉まった。


鈴の余韻が消えるまで、三人とも動かなかった。


テオドールが最初に口を開いた。


「王太子の侍従官が直接来たか。随分と焦っとるな」


「ギルドの記録に残しておきます。今後この人物からの取引申請は拒否の方針でよろしいですね」


ルイスの声は再び穏やかだった。 けれど先ほどまでの温厚さとは、どこか質が違っていた。


テオドールは頷いた。


「ああ。ギルドとして正式に拒否を通告する。ご苦労だったな、ヴェルナー殿」


ルイスは軽く頭を下げた。


テオドールが裏口から出ていった後、ヴィオレッタとルイスが残された。


「……ありがとうございます、ヴェルナーさん」


「契約上の義務です。当商会の取引先が不当な圧力を受けるのを看過するわけにはいきません」


淡々とした答え。 けれど——あの瞬間、彼が店に入ってきたタイミング。 セドリックの言葉を遮った、あの正確さ。


契約上の義務、だけだろうか。


ヴィオレッタはその疑問を飲み込んだ。


「……少し、仕事に戻ります」


「ええ。私はギルドに報告書を出してきます」


ルイスが扉に向かった。


その背中が消えてから、ヴィオレッタはアトリエに戻った。 イーゼルの前に立つ。 筆を取る。


手が震えていないことに、少し驚いた。


自分の絵を、自分で守れた。 一人ではなかったけれど——守れた。


筆先に絵具を含ませ、キャンバスに向き合った。 秋の草原の、琥珀色の光を描く。


心の奥で、何かが確かに変わり始めていた。


その夜、宿に戻ったルイスの顔から穏やかさが消えた。


フェリクスが部屋に入ると、ルイスは窓辺に立ったまま低い声で言った。


「あの男の背後関係を洗え。王太子の侍従官セドリック・ハーヴェイ。伯爵家の次男だ。ルーエンに随行している人間の数と、王都との連絡手段を把握しろ」


フェリクスは主人の横顔を見た。


普段の温厚な美術商の面影は、そこにはなかった。


「……了解しました」


フェリクスは静かに部屋を出た。


扉が閉まった後、ルイスは窓の外を見つめた。


ルーエンの夜の街並み。 画材屋の方角には、まだ小さな明かりが灯っていた。


彼女はまだ描いているのだろう。


ルイスはその光を長く見ていた。

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