第4話「光を知る人」
ルイス・ヴェルナーは、店の戸を開けた。
鈴の音が鳴る。 画材屋特有の匂い——亜麻仁油と松脂と、かすかな顔料の粉っぽさが混じった空気が、彼を迎えた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、店主が顔を上げた。
ヴィオレッタ・デュランテ。 テオドールから聞いた名前と、目の前の人物が結びつく。
二十歳の女性。 飾り気のない作業着に、袖口にわずかな絵具の痕。 画材屋の店主というより、画家がそのまま店に立っているような印象だった。
「ルイス・ヴェルナーと申します。リヴァーチェ公国のヴェルナー商会から参りました。先日、ギルドに商取引の申請を出させていただいた者です」
ルイスは穏やかに名乗り、軽く頭を下げた。
「ヴィオレッタ・デュランテです。テオドールさんからお話は伺っています。美術商の方が、うちのような小さな画材屋に——正直、少し驚きました」
「画材屋としてではなく、画家として伺いました」
ルイスの言葉に、ヴィオレッタの表情がわずかに変わった。
「……私の絵をご存じなんですか」
「ルーエンの風景を描いた油彩画があると聞きまして。商人仲間の評判が、隣国にまで届いていたんです」
半分は本当で、半分は方便だった。 けれどルイスの声に嘘の色はなかった。
「店内の絵を拝見してもよろしいですか」
「ええ、どうぞ」
ヴィオレッタが壁を示した。 数枚の風景画が飾られている。
ルイスは最初の一枚の前で足を止めた。
丘の上から見たルーエンの街並み。 建物の輪郭が光の中に溶け込み、遠景が青みを帯びて霞んでいる。
息が止まった。
この光だ。
柔らかな拡散光。 空気そのものに色を与えるような、透明で温かい光の処理。 この世界の伝統的な画法にはない描き方。
八歳の時に、瓦礫の中で拾った一枚の絵。 リヴァーチェの国境紛争で両親を失い、焼け落ちた建物の隙間にあった、作者不明の風景画の断片。
あの小さな油彩に描かれていたのと、同じ光。
ルイスは動けなかった。
一枚目の前に立ったまま、長い時間が過ぎた。 自分でも異常だとわかっていた。 美術商として店を訪れたはずなのに、商談の言葉が出てこない。
「……あの」
ヴィオレッタの声で我に返った。
「お気に召しましたか」
その問いに、ルイスは一拍遅れて答えた。
「……ええ。この光の描き方は——初めて見ました」
嘘だった。 初めてではない。 けれど、今はまだ言えない。
「隣国でこの画風は見たことがありません。非常に独特です。この絵を、リヴァーチェで紹介させていただけませんか」
ヴィオレッタの目が少し大きくなった。
「隣国で、ですか」
「定期的な買い付け契約を考えています。風景画を中心に、まとまった点数をリヴァーチェの顧客に紹介したい」
商談の言葉が、ようやく口をついて出た。 美術商としての訓練が、感情の揺れを覆い隠してくれた。
ヴィオレッタは提案に興味を示した。 しかし、即答はしなかった。
「ありがたいお話です。ただ、隣国との取引となると、商業ギルドの承認が必要になります。テオドールさん——自治都市長にご相談させてください」
「もちろんです。ギルドの手続きには全面的に協力いたします」
「それと、一つお聞きしてもいいですか」
ヴィオレッタがカウンターに両手を置いた。 その目がまっすぐにルイスを見た。
「なぜ、この規模の画材屋に隣国の美術商がいらっしゃるんですか。リヴァーチェなら王都にもっと大きな画廊がいくつもあるはずです」
鋭い質問だった。
ルイスは一瞬だけ沈黙し、それから微笑んだ。
「私が探しているのは、大きな画廊で扱われるような絵ではないんです。まだ誰にも知られていない、この世界にない光を描ける画家を探していました」
嘘ではなかった。 嘘ではないが——全てでもなかった。
ヴィオレッタは数秒、ルイスの顔を見ていた。 それから小さく頷いた。
「わかりました。テオドールさんと相談の上、ご連絡します」
「ありがとうございます。ルーエンにはしばらく滞在する予定ですので、お返事はいつでも」
ルイスは再び頭を下げ、店を出た。
翌日、テオドールがギルド会館でルイスの信用状を精査した。
リヴァーチェ公国ヴェルナー商会。 正規登録の商会であり、美術品取引の実績がある。 信用状の書式も形式も、問題なかった。
「身元は確かなようだな」
テオドールは信用状をヴィオレッタに返しながら言った。
「商会の規模もそこそこ大きい。リヴァーチェの港町に本拠があるらしい。隣国との取引実績も複数ある」
「では、取引自体は問題ないと」
「手続き上はな。仮契約であれば、ギルドの通常審査で通る。ただ——」
テオドールが髭を撫でた。
「気になることはある。なぜこの規模の画材屋に、わざわざ隣国の美術商が来るのか。お前さんも同じことを思っとるだろう」
「聞きました。『この世界にない光を描ける画家を探していた』と」
「詩人だな」
テオドールは鼻を鳴らした。
「まあ、商人としての素性は確かだ。仮契約なら儂が立会人になれる。まずは試しに取引してみて、問題があれば切ればいい」
ヴィオレッタは頷いた。
仮契約が成立した。 ルイスがルーエンに一定期間滞在し、風景画を定期的に買い付ける。 価格と数量は都度交渉。 ギルドの立会いのもとで取引を行う。
正式な契約としては小さな一歩だった。 けれどヴィオレッタにとっては、自分の絵が初めて「商品」として国境を越える可能性を持った瞬間だった。
その夜。
ルーエンの宿屋、二階の奥の部屋。
ルイスは窓辺の椅子に座り、夜の街を眺めていた。 テーブルの上に、古い布の包みがある。 中には、角が擦り切れた小さな油彩画の断片。
扉が叩かれた。
「自分です」
短い声の後、フェリクスが入ってきた。
ルイスの護衛兼従者。 荷物番を装っているが、その身のこなしは商人のものではなかった。
「契約の件、進んだんですか」
「仮契約だ。ギルドの立会いつきで」
「……で、絵は」
フェリクスの声が少し低くなった。
ルイスは窓の外に目を向けたまま、静かに言った。
「……この光の描き方を、子供の頃に見たことがある」
フェリクスの表情が変わった。
「まさか、あの絵か」
ルイスは答えなかった。
テーブルの上の布包みに、ちらりと視線を落としただけだった。
フェリクスは主人の横顔を見た。 幼い頃から知っている顔だ。 孤児院の暗い部屋で、一枚の絵だけを握りしめていた子供の頃から。
「……同じ人間だとは限らないですよ」
「わかっている」
ルイスの声は静かだった。
「同一人物かどうかは、確かめる手段がない。けれど——あの光を描ける人間が、ここにいる。それだけは確かだ」
窓の外で、ルーエンの街灯が小さく揺れていた。
フェリクスは何かを言いかけて、やめた。
主人のこの顔を、何度も見てきた。 あの絵の話になると、いつもこうなる。 言葉が減り、目だけが遠くなる。
「……自分は、あなたの安全を守るのが仕事です。それ以外のことは——まあ、口を出しませんよ」
フェリクスはそう言い残して、部屋を出た。
一人になった部屋で、ルイスは布包みをそっと開いた。
小さな絵の断片。 柔らかな拡散光で描かれた、どこかの国の風景。 作者不明。来歴不明。
ただ、この光だけが——十五年間、ずっと、消えなかった。
今日見た絵の中に、同じ光があった。
ルイスは絵を布に包み直し、胸元にしまった。
窓の外のルーエンは、静かに夜を深めていた。




