第3話「匿名の買い手」
あの書簡の送り主は、誰だろう。
ヴィオレッタは朝の仕込みをしながら、昨夜の封書を頭の中で反芻していた。
封蝋なし。紋章なし。宛名なし。 けれど紙は上等。王都近郊の製紙工房の品。 提示額は相場の三倍。
版画を市場から消したい人間。 しかも、金に糸目をつけない人間。
答えの候補は、限られている。
「……考えても仕方ない」
呟いて、顔料の瓶の並びを整えた。 考えるより先に、やるべきことがある。
昼前、テオドールを訪ねた。
自治都市長の執務室は、ギルド会館の二階にある。 窓から港が見える簡素な部屋で、テオドールは書類の山に埋もれていた。
「テオドールさん、お時間よろしいですか」
「おう、入れ」
ヴィオレッタは匿名の書簡をテオドールの机に置いた。
テオドールは老眼鏡を持ち上げ、文面を読んだ。 読み終えると、鼻を鳴らした。
「相場の三倍、ね。ご丁寧なことだ」
「この書簡、昨日の夕方に店に置かれていました。誰が置いたのかはわかりません」
「紙は上等だな」
テオドールは紙の端を指で擦った。
「王都の匂いがする」
ヴィオレッタの予想と同じだった。
「買い取りは断ります」
ヴィオレッタは明確に言った。
テオドールが顔を上げた。
「理由を聞いてもいいか」
「あの版画は私の作品ではありません。私が描いたものでも、私が所有しているものでもない。売る権利がそもそも私にはありません」
テオドールはしばらくヴィオレッタの顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「筋が通っとる。だが、相手はそんな理屈で引き下がる連中じゃないだろうな」
「ですので、お願いがあります。ルーエン内での版画の流通状況を調べていただけませんか。どこに何枚あるのか。誰が持っているのか。同じような買い取り要請が他にも来ていないか」
テオドールの目が商人のそれに変わった。
「……なるほど。守りを固めたいわけか」
「状況がわからないまま断るだけでは、次の手が読めません」
テオドールは髭を撫でて立ち上がった。
「わかった。ギルドの商人に当たってみる。二、三日くれ」
テオドールの調査は、二日で結果を出した。
夕方、ギルド会館に呼ばれたヴィオレッタに、テオドールは渋い顔で報告した。
「ルーエン内に版画は十二枚確認できた。商人が持っとるのが七枚、個人所有が五枚。で——問題はこっちだ」
テオドールは机の上の書簡を数通、扇のように広げた。
「ルーエンの印刷所にも買い取り要請が来とる。版画の原版を持っとる工房じゃないが、複製の刷り増しができる設備がある。それを止めたいらしい」
「印刷所にも……」
「しかもな、今度は匿名じゃない。代理人が直接来た」
テオドールの声が低くなった。
「代理人は王都の商人を名乗っとったが、口の利き方がなっとらん。『殿下の意向に逆らうのか』と来たもんだ」
殿下。
その一言で、ヴィオレッタの中で点と線が繋がった。
王太子エドヴァルド。 あの版画を市場から消したいのは、描かれた当事者のもう一方——冷酷な王子として描かれた、あの人。
「印刷所は応じたんですか」
「応じかけた。小さい工房だからな、殿下の名前を出されたら萎縮する」
テオドールは腕を組んだ。
「だが儂が止めた。商業ギルドの管轄下にある事業所に対して、ギルドを通さず直接圧力をかけるのは自治権の侵害だ。そう伝えたら、代理人は黙って帰った」
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。今回は引き下がったが、次はもっと手を変えてくるだろう。王都の人間ってのはそういうもんだ」
テオドールの言葉には、若い頃に王都で商売をしていた人間の実感がこもっていた。
「それともう一つ、面白い話がある」
テオドールは皮肉な笑みを浮かべた。
「王都周辺では版画の回収がかなり進んどるらしい。代理人を使って片っ端から買い集めとる」
「……では、目的は達しつつあるのでは」
「逆だ。買い占めが始まったという噂自体が広まってな、版画の価格が跳ね上がっとる。『王太子が必死に買い戻そうとしている絵』というのが、新しい話題になってしまった」
ヴィオレッタは思わず目を閉じた。
買い占めれば静かになると思ったのだろう。 けれど、買い占める行為そのものが注目を集めている。 消そうとすればするほど、火が広がる。
前世の記憶が、似た構造を思い出させた。 炎上を鎮火しようとして燃料を投下する——そういうことは、どの世界でも起きるらしい。
「お前さんにとっては、まあ悪い話ではない」
テオドールが言った。
「版画の価値が上がるということは、あの絵のモデルであるお前さんの知名度も上がるということだ。風景画を売り出すなら、追い風にはなる」
「……嬉しい追い風ではありませんが」
「商機に感情は要らん」
テオドールは素っ気なく言った。
店に戻ると、日はすでに傾いていた。
ヴィオレッタはカウンターの奥に座り、匿名の書簡をもう一度手に取った。
権力で絵を消そうとする人間がいる。 自治都市の商業ギルドが、それを制度の力で押し返した。 今のところは。
けれど、テオドールの言う通り、次はもっと手を変えてくるだろう。
王太子の直属の人間が動いている。 辺境の画材屋の店主が、いつまで持ちこたえられるか。
不安はある。 けれど、不安だけではなかった。
自分の絵を守りたい。 あの版画のことではない。 壁に飾った風景画のこと。 自分の目で見て、自分の手で描いた、この街の光のこと。
それを誰かに奪われたくない。
ヴィオレッタは書簡を引き出しにしまい、帳簿を開いた。 明日の仕入れ。筆の在庫確認。風景画の新作の構想。
日常を手放さないこと。 それが今の自分にできる、最も確実な抵抗だった。
翌朝、テオドールが店に顔を出した。
いつもより早い時間だった。 髭の奥の表情が、どこか面白がっているように見えた。
「ヴィオレッタ、ちょっと面白い客が来とる」
「客、ですか」
「昨日の夕方にルーエンに着いた旅の商人だ。隣国の美術商を名乗っとる。ギルドに正式な商取引の申請を出してきた」
ヴィオレッタは首を傾げた。
辺境都市ルーエンに、隣国の美術商。 画材屋の規模を考えれば、不釣り合いな相手だった。
「で、その美術商が指名しとるのが——お前さんの店だ」
テオドールは髭を撫でながら言った。
「名前はルイス・ヴェルナー。リヴァーチェ公国の商会に所属しとるらしい。信用状も持っとる。とりあえずギルドで預かっとるが、お前さん、会ってみるか」
隣国の美術商が、辺境の画材屋を指名する。
普通ではない。
けれど——テオドールの目が面白がっているということは、少なくとも怪しい人間ではないのだろう。
「……お会いします」
ヴィオレッタは頷いた。
匿名の書簡、版画の買い占め、そして隣国の美術商。
穏やかだったルーエンの日常に、外からの風が吹き込み始めていた。




