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第2話「落陽の令嬢」

「ヴィオレッタ、あんた昨日の版画見たかい」


朝一番の客は、仕立屋の女将だった。


カウンターに肘をつき、身を乗り出すようにして言う。


「うちの旦那が港町の商人から買ってきたんだけどね、あの絵、すごいのよ。涙をこらえる令嬢の横顔がもう——」


「おはようございます、マルタさん。今日は何をお探しですか」


ヴィオレッタは穏やかに、しかし確実に話題を切った。


マルタは一瞬きょとんとし、それから気まずそうに笑った。


「ああ、ごめんね。えっと、刺繍用の下絵に使う木炭を——」


「細いのと中太、どちらにしますか」


日常の会話に戻す。 それだけのことに、小さな労力が要った。


テオドールが版画を置いていった夜から、数日が経っていた。


ヴィオレッタの予感は正しかった。 「落陽の令嬢」と呼ばれるその絵の噂は、すでにルーエンの街に広まっている。


そして——街の人々は気づき始めていた。


あの版画に描かれた令嬢が、この画材屋の店主であることに。


午前だけで、客は十二人。


画材屋としては異例の数だった。


そのうち、実際に何かを購入したのは三人。 残りの九人は、棚を眺めるふりをしながらヴィオレッタの顔をちらちら見て、何も買わずに出ていった。


同情の目。 好奇の目。 あるいはその両方。


ヴィオレッタは平静を保った。 接客の笑顔を崩さず、尋ねられれば画材の説明をし、尋ねられなければ干渉しなかった。


ただ、閉店後に一人で帳簿をつける手が、いつもより少しだけ強く筆を握っていた。


「困ったことになっとるな」


翌日の夕方、テオドールが再び店を訪れた。


前回と同じく、前置きなし。 カウンターの向かいに腰を下ろし、髭を撫でながら本題に入る。


「野次馬が増えとるだろう」


「……ええ。少し」


「少しどころじゃないと儂は聞いとる。向かいのグスタフが言っとった。朝から店の前をうろつく見慣れん顔が日に日に増えとるそうだ」


ヴィオレッタは否定しなかった。


「このままだと、お前さんの商売に差し障る。画材を買いに来る常連が、野次馬に紛れて入りづらくなる」


テオドールの指摘は正確だった。 実際、昨日の常連客の一人が「最近ちょっと入りづらくて」と苦笑していた。


「何か手を打たんとな」


テオドールは腕を組んだ。


「で、提案がある」


「提案、ですか」


「この騒ぎを逆に使え。お前さんの名前が知れ渡っとるなら、それを商機に変えればいい」


ヴィオレッタの眉が微かに動いた。


「……あの版画で商売をする気はありません」


声が固くなった。 自分でもわかるほどに。


あの絵は私のものではない。 描かれた内容は事実ではない。 それを利用して金を稼ぐつもりはない。


テオドールは片手を上げた。


「まあ待て。儂もそんなことは言っとらん」


老人は立ち上がり、店の壁に歩み寄った。


そこには、ヴィオレッタが趣味で描いた風景画が数枚飾られている。 ルーエンの朝の市場。丘の上から見た街並み。港に停泊する帆船と夕焼け。


テオドールはその中の一枚——丘の上の風景画の前で足を止めた。


「この絵だ」


「え?」


「この絵は売れる。版画の話じゃない。お前さんの絵の話をしとるんだ」


ヴィオレッタは言葉を失った。


テオドールが振り返る。 商人の目をしていた。


「画材屋に来る野次馬は追い払えん。だが、絵を見に来る客なら、それは商売だ。お前さんの風景画を正式に売りに出せ。あの版画で集まった目を、お前さん自身の作品に向けさせろ」


「……それは」


「あの版画はお前さんの過去だ。だが、この風景画はお前さんの今だ。過去で人が集まるなら、今を見せてやればいい」


沈黙。


ヴィオレッタは壁の風景画を見た。


丘の上から描いたルーエンの街。 柔らかな拡散光が建物の輪郭を溶かし、空気遠近法で遠景が青みを帯びている。 この世界の伝統的な画法にはない描き方だと、自分でもわかっている。


前世の技法。 前世の目。 それがこの手を通して、この世界の風景を描いている。


この絵を——外の世界に出す。


「……条件があります」


ヴィオレッタは静かに言った。


テオドールが目を細めた。


「あの版画とは無関係の形で。私の風景画として。それなら」


「当然だ。お前さんの名前で、お前さんの絵を売る。それ以外に何がある」


テオドールは髭の奥で笑った。


ヴィオレッタは小さく息を吐いた。


過去に定義されるのは嫌だ。 誰かが描いた私ではなく、私が描いた絵で、私を知ってほしい。


その感情に、名前はまだつけなかった。


ただ、胸の奥で何かが静かに向きを変えた気がした。


自分の絵を外の世界に出す。 それは画材屋の店主としてではなく、画家として一歩を踏み出すことを意味していた。


その夜、店を閉めた後のことだった。


帳簿を片づけ、明日の仕入れ表を確認し、ランプの芯を短くしようとした時。


カウンターの端に、封書が置かれていることに気づいた。


夕方の客の誰かが置いていったのか。 宛名はなく、封蝋に紋章もない。


ヴィオレッタは封を切った。


短い文面だった。


「貴店にて取り扱いのある版画『落陽の令嬢』について、全点買い取りを希望する。価格は相場の三倍にて提示。詳細は同封の連絡先まで——」


ヴィオレッタの目が細くなった。


まず、事実の確認。 この店で「落陽の令嬢」の版画を取り扱ったことはない。 テオドールが一枚持ってきただけだ。


つまりこの書簡の送り主は、正確な情報を持っていない。 あるいは、ルーエンで版画が流通している場所を手当たり次第に当たっている。


相場の三倍。


金額が大きすぎる。 普通の収集家の動きではない。


あの版画を、市場から消したい人間がいる。


ヴィオレッタは書簡をカウンターの上に置いた。


王都の匂い。 テオドールならそう言うだろう。


封蝋のない匿名の書簡。 しかし、紙の質は上等だった。 手触りでわかる。王都近郊の製紙工房の品だ。


前世の知識ではない。 一年間、画材屋をやってきた経験が教えてくれる知識だった。


「……面倒なことにならなければいいけど」


独り言は、誰にも聞かれなかった。


ランプの炎が一度だけ揺れて、夜が深くなっていった。

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