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第10話「朝日の画廊」

私は今、自分の場所に立っている。


その実感が、朝の光とともにゆっくりと胸に広がった。


ギャルリ・ルーエンの正式な開廊日は、エドヴァルドが去ってから五日後だった。


王太子の来訪と退去の噂は、商人たちの口を通じてルーエンの内外に広まっていた。辺境の画廊で王太子が声を荒げ、商業ギルドに異議を申し立てられて退いた——その話は、版画「落陽の令嬢」の物語と重なり合い、人々の関心をさらに引き寄せていた。


開廊の朝、画廊の前には予想以上の人が集まっていた。


ルーエンの街の住人だけではない。近隣の町から馬車で来た商人、南部の港町から船で来た旅人、そしてリヴァーチェ公国から買い付けに来た美術商の姿もあった。


ヴィオレッタは画廊の入口に立ち、集まった人々を見渡した。


テオドールが隣に立っている。ルイスは少し離れた場所で、リヴァーチェの商人たちと言葉を交わしていた。


「挨拶を頼むぞ」


テオドールが小声で言った。


ヴィオレッタは一つ息を吸い、声を出した。


「本日は、ギャルリ・ルーエンの開廊にお越しいただき、ありがとうございます」


声が少し震えた。けれど、すぐに落ち着いた。


「この画廊には、私の風景画だけでなく、この街の職人たちの作品も並んでいます。陶器、木彫り、織物——ルーエンの街が持つ力を、ここで見ていただければと思います」


言葉を選んだ。過去の断罪には触れない。王太子の名前も出さない。


現在と未来だけを語る。


「この街に来て初めて、自分の絵を自分のものだと思えました。ここで描いた風景が、少しでも皆様の目に届けば幸いです」


短い挨拶だった。


拍手が起きた。街の人々の温かい拍手。グスタフが指笛を鳴らし、マルタが目元を拭いていた。


画廊の扉が開かれた。


来場者たちは画廊の中に入り、壁に並んだ作品に見入った。


ヴィオレッタの風景画の連作——春の丘、夏の港、秋の草原、冬の石畳。そして画廊の中央に、開設記念の大作「辺境の朝日」が飾られていた。


大きなキャンバスに描かれた、ルーエン郊外の丘から見た夜明けの風景。


青灰色の空が地平線から橙に変わり、朝日の光が丘の草を金色に染めている。遠景のルーエンの街並みが朝靄に霞み、空気そのものが光を帯びているような描写。


来場者たちはその絵の前で足を止めた。


言葉を失う者がいた。じっと見つめる者がいた。隣の人間に何かを囁く者がいた。


陶器職人のヘルマンの作品にも人が集まっていた。木彫り師のリーゼの小品も好評だった。織物工房の親方が出品した壁掛けの前で、リヴァーチェの商人が値段を尋ねていた。


画廊は生きていた。


ヴィオレッタは来場者の応対をしながら、ふと壁を見た。


自分の絵が、白い壁に並んでいる。


画材屋の片隅ではなく、画廊の壁に。


この絵は自分のものだ。誰かに描かれた自分ではなく、自分が描いた絵が、ここにある。


その実感が、静かに、深く、胸の底に沈んでいった。


昼過ぎ、テオドールが商人仲間から聞いた話をヴィオレッタに伝えた。


「王都の社交界で、ちょっとした話題になっとるらしい」


「何がですか」


「断罪の夜の話だ。あの場であの令嬢を嘲笑していた連中のことが、今になって取り沙汰されとる。『あの場で笑っていた者は誰だ』という話が、社交界で密かに回っとるそうだ」


ヴィオレッタは一瞬だけ目を瞬いた。


「……そうですか」


それ以上の反応は見せなかった。


あの夜のことは、もう過去だ。あの場で笑った人々のことを恨む気持ちは、今のヴィオレッタにはなかった。


けれど、因果というものは回るのだと、どこか遠い場所で思った。


夕方、人の波が落ち着いた頃、画廊の裏口から使いの者が封書を届けた。


デュランテ公爵家の紋章が押された封蝋。


ヴィオレッタは封を切った。


父の筆跡だった。


簡潔な文面。公爵らしい、感情を排した言葉遣い。


「名誉回復金の件は決着した。お前の名誉は公式に回復された。帰ってこい。公爵家の令嬢としての席は、まだある」


帰ってこい。


ヴィオレッタは封書を畳んだ。


一年前、「家名を汚さぬよう、静かに暮らせ」と言い渡した父が、「帰ってこい」と書いている。


水面下で枢密院に働きかけていたのは父だろうと、ヴィオレッタは薄々感じていた。名誉回復金の決定は、公爵の政治力なくして実現しなかったはずだ。


けれど。


ヴィオレッタは画廊の壁を見た。


自分の絵。職人たちの作品。この街の人たちが作ってくれた場所。


「……お返事は、書簡でお送りします」


独り言だった。


その夜、ヴィオレッタは丁寧な文面で返事を書いた。


お心遣いに感謝いたします。しかし、私はこの街で画廊を営んでおります。今はここが私の居場所です。どうかお許しください。


短い手紙だった。


封蝋を押す手は、迷わなかった。


開廊の喧騒が去った夜、ルイスは画廊の中にいた。


来場者はすべて帰り、テオドールも引き上げた。職人たちも自分の工房に戻った。


画廊には、ルイスとヴィオレッタだけが残っていた。


ルイスは「辺境の朝日」の前に立っていた。


大きなキャンバスに描かれた夜明けの光。青灰色から橙へ、橙から金色へ、金色から白へ。光の階調が、絵の中で静かに呼吸していた。


人混みの中では、じっくりと見ることができなかった。


今、一人で——いや、二人で、この絵の前にいる。


ヴィオレッタが隣に来た。


「……どうですか」


ルイスは絵を見つめたまま、長い沈黙の後に答えた。


「……ええ。この光は、私がずっと探していたものです」


声は静かだった。


震えはなかった。あの夜——制作途中の絵を見た時とは違う。今の声には、震えの代わりに、深い確信があった。


ヴィオレッタはルイスの横顔を見た。


画廊のランプの光が、彼の表情を柔らかく照らしている。


「ずっと探していた」という言葉の意味を、ヴィオレッタはまだ知らない。瓦礫の中の一枚の絵のことも、十五年間の探索のことも。


けれど、この人が自分の絵の前で見せる表情が、他のどんな場面よりも真実に近いことだけはわかった。


二人はキャンバスの前で、小さく笑い合った。


言葉は少なかった。けれど、不足はなかった。


閉廊後、ヴィオレッタは画材屋のアトリエに戻り、次の絵の構想を練っていた。


白いキャンバスがイーゼルの上で待っている。何を描くかは、まだ決めていない。


足音が聞こえた。


ルイスが茶を淹れて持ってきた。湯気の立つ器をアトリエの小机に静かに置き、隣の椅子に座った。


「……次は何を描くんですか」


「まだ決めてません。でも、ここの景色はまだ全部描ききれていないので」


「……そうですか」


ルイスは茶を一口飲んだ。


窓の外には、ルーエンの夜景が広がっていた。港の灯り。街路のランプ。遠くの丘の稜線。


「なら、私はもう少しここにいます」


その言葉は、契約の言葉ではなかった。


事業上の理由でもなかった。恩義の延長でもなかった。


ただ、隣にいたいという気持ちが、言葉の形を借りて、初めて漏れた瞬間だった。


ヴィオレッタは答えなかった。


答えなかったけれど、茶器に手を伸ばして、一口飲んだ。


温かかった。


窓の外の夜景を、二人で見ていた。


絵と、まだ言葉にならない何かが、二人の間にあった。


ヴィオレッタはふと思った。


この人がいなくなったら、と。


一瞬だけ考えて、すぐにしまい込んだ。


その感情に、名前をつけるのはまだ早い。


けれど——まだ早い、と思うこと自体が、もう答えなのかもしれなかった。


アトリエの小さなランプが揺れている。


白いキャンバスが、明日の光を待っていた。


(完)


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